「ニューリーダー」2018年4月号より。
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~一部省略~
陰謀論者が「國體勢力」を見誤ったのは、「強欲史観」に捉われたため、ということである。この誤りは、マルクス経済学および近代経済学が、経済行動の主体として「資本家」ないし「ホモ・エコノミクス」という人間像を登場させたのと同類の誤りといわねばならない。
歴史事象の解釈において、登場人物の人間像ないし人間集団の行動基準を、「あくなき物欲」に支配された「物欲史観」や、「生存」にとことんこだわる「延命史観」、あるいは、「地位ないし権力」にしがみつく「権力史観」とみることがもっぱらで、これらを統合して「強欲史観」と呼ぶが、こんなものを基準とする限り、國體資力の存在を感知することなど到底できず、歴史の真相は永久に見えないのである。
國體とは本来、それぞれの地域社会のあるべき姿のことで、これを保持せんとする社会集団が古来人類社会に存在するので、これを國體勢力というが、集団の構成はおおむね、キミ(國體天皇)、オミ(國體参謀)、タミ(國體奉公衆)の三段階からなる。
國體勢力の行動基準は、マルクスやアダム・スミスが説く「物質的欲望」ではなく、「國體の保持」である。
~一部省略~
國體奉公衆は、自らと家族を維持するに足る給養を國體天皇から保障されているため人民と争って財貨を求める必要がなく、超越的な知識と能力を秘めているので俗吏のごとき権力もいらず、國體奉公に満足しているため位階勲等など俗世の名誉も念頭にないのである。ようするに、國體奉公衆の行動基準は物欲ではなく、國體任務そのものにあり、その完遂をもって欲望は基本的に充足されるのである。
~一部省略~
國體奉公衆は太古メソポタミアに発祥したウバイド勢力の末裔で、私が「修験サエキ」と呼ぶものである。
~以降省略~
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これを読むと、落合莞爾氏が「マニ思想」をウバイド思想と言っていることも分かってくるように思えます。
経済理論が常に仮説どまりで、現実世界で完全に再現されない理由も、上記のような心性の人々が一定数いることの証左に思えます。
ウバイドは見方によっては控えめで、「わたしが、わたしが」、「わたしは、わたしは」というような強い我欲や顕示欲もないように思えます。
「マニ思想」という思想に触れ、仏教が説く「四諦」・「八正道」という概念に触れ、マニ思想と仏教が隣り合わせであるように思えました。
(ゾロアスター教が小乗仏教に交じってインド大乗仏教が形成され、マニ思想が入り北伝仏教になったとのことです。さらには密教にも。)
皆がウバイドのような精神性であれば、日々の生活や政治も経済もおだやかなのでしょうね、きっと。
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