私は平成十一年にとある田舎町で生みだされた。
だがそれは、ただの不良品だった。なぜなら普通の人間ではなかったからだ。「普通」という表現というのは難しい。普通って何?と指摘される。
私が言いたいことは、「劣っている人間」
そう、私は劣っているのだ。
例を挙げると「発達障害」とかいう厄介な単語の障害を持って生まれたこと。でも、私は発達障害を否定はしない。なぜなら他の発達障害の人もいるわけで、うまくやっている人もいないことはないからだ。
私の幼少期、記憶と親が言うことについて述べようと思う。
幼稚園に入る前、近くの公園に毎日のように遊びに行っていた。だが、同年代の子とは一切関わろうとしなかった。
遊び相手は母のみ。
某私学幼稚園に入園。でもなにもかわらなかった。私だけりんごジュースを持って行っていたらしい。
幼稚園でも同年代の子と遊ぶことは全く無かった。先生を独り占めしていた。
唯一楽しかったと、印象に残っているのは、習い事だった。英会話教室とピアノ。
今思うと、公立の幼稚園では生き残れなかったんだなあとおもっている。不登園になっていたと。
小学校に入学。またこれも駄目だった。母によると、入学式で、先生が「立ちましょう」といってもわたしだけ立たなかったそうだ。「なんで他人の言うこと聞かなあかんねん」という性格が強かったんだと今思う。
また、かえりみると小学三年生のときが私の全盛期だったんだな、といつも思う。本当に楽しかった。あの時だけは。幼馴染と喋ったり。帰り道だけ。私は小学生まで、場面かんもく症とかいうよくわからないものに縛られ、声を出さなかった。今でも私の声を知っている同級生は少ないと思う。
十歳。この歳というのは、身体的にも精神的にも変わってくる年頃。私はそのころから自分自身に劣等感を抱くことになり、不良品だから、なにか、誰でもいいから勝ってみようと決意し行動に移した。それは食事制限、いわゆる「ダイエット」だった。とりあえずごはんを抜くところから初めて、カロリー計算も実行。半年で何キロか忘れたがかなり痩せてガリガリに。摂食障害に酷似している状態がしばらく続いた。
周りは心配した。知らない人に市役所に訴えられたこともあったらしい。そしてなにより家族に迷惑をかけた。
今もそうだが自分勝手なのだ。直したくても直せないという弱気な自分が存在する。
栄養不足で髪が異常に抜け落ち、毎日泣く日々が続いた。「自業自得」というのはまさにこのことだ。
さらに不登校になり(2年生から象徴はあったが)また親を悩ます原因を作ってしまった。
本当に後悔している。なぜあんなことをしたのだろう。無駄なことだった。
失ってしまったものは多かった。やがて幼馴染の子も私を避けるようになっていった。
やり直そうと思い、変な時期に母の実家の近所の小学校に六年生の6月あたりに転校した。でもまた駄目だった。
惨めな思いをしたのは私、私に関わってくれた人間。
私は「負けず嫌い」「プライドが高い」「完璧主義」だと勝手に妄想している。でも実は、そうではない。完璧主義といっても、固執するものに対してだけだ。あとで述べる。
その後フリースクールという不良品ばかりが集まる場所へ移動。
中学の入学式などもちろん行かず制服も買わず、中一の出席日数はゼロに近かった。
中学二年生になり、個別の部屋ですこしばかり登校してみたもののまた滑ってしまった。
何回こければいいねん。
中学3年生。立地にだけこだわって某定時制高校を受験、入学。でもまただめだった。やり直しはきかなかった。
だから私はこれからもやり直しがきかない人生になるのだから何の期待もしていない。もう諦めた。無限ループじゃないか。
現在では劣等感で押しつぶされそうな日々をおくっている。あれ、あのときとおなじじゃん、ぜんぜん変わってない。そう「あのとき」と指したのは、摂食障害チックになったとき。何も成長してない、変わっていない。
また今苦しんでいる障害がある。「強迫性障害(OCD)症状は強迫観念が主。
私はいろんな障害と闘っている。でも最近気づいた。私は「摂食障害」とか「強迫性障害」ではないと。なぜそうでないかというと。
おそらく、「発達障害」の二次障害、つまりグレードアップしたものだと考えられる。
発達障害の「こだわり」が強すぎて、さっき書いた「カロリー計算」とか、集中することの範囲が狭すぎるという。
強迫性障害も発達障害の人がなりやすいときいた。
やはり「強いこだわり」からくるものではないかと実感する。
これからどう生きるか、もう、どうなってもいいと考えている。孤独死するか、殺害されるか、自殺するか・・・いろんな方法がある!
16年間無駄に過ごした。時間浪費。
惨めな思いしかしなかった人生でした。