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長寿寺の観音堂は、1920年(大正9年)に、忍辱山円成寺の多宝塔初層部分を移築して建てられた建物である。応仁の乱の後に再建された二代目で、その後に建物が傷んでしまい、改築されたため、上層部が無い外観はオリジナルとはかなり異なっているが、内部については室町時代の様子をどれだけとどめているのだろうか。格子天井があったり、天女や鳳凰の絵が描かれたりした内部は、内部を公開している稀少な多宝塔としても、貴重である。正面の扉の内側にも、恐らくは天女が描かれていただろうが、今はほとんど消えかけている。『大和路(當尾と柳生の寺々)』(黑田昇義著 関西急行鉄道株式会社)には、「史迹と美術」84号 昭和12年で天沼俊一が書いた1907年(明治40年)6月の円成寺の様子を引用している。

「この時は楼門と並んで多宝塔があった。多宝塔といっても、勿論完全なものではなく、上層は軸部だけで、壊れかけた臨時の屋根が架けてあった……楼門もまた上層部は軸部だけで、桟瓦切妻造の仮の屋根がかけてあった……しかもこの上層の軸部は大変な虫食いで、触れると黄色い粉になって飛ぶ始末、何とも手のつけようがなかった。」

長寿寺だけではなく、浄智寺など、北鎌倉の寺を復興するために尽力した中島真雄(1859-1943)は、福州の『満洲日報』、北京の『順天時報』、奉天の『盛京時報』等、大陸の各種主要新聞の創立者で、吉田茂元首相やロッキード事件で名が知られた児玉誉士夫などの政治家の相談役でもあった。中島は、ある日、円成寺の多宝塔が売りに出されているのを知り、当時の金額7800円で買い取った。お金に困っていた円成寺は、そのお金で、朽ち果てかけていた楼門の修理をしたらしい。今でも、円成寺は奈良駅から遠く離れて交通の便が良くないので、当時も解体と運搬には苦労したことだろう。長寿寺の前に住んでいた人の証言によると、解体した多宝塔を大船駅から大八車で運搬するのは、とても苦労したそうである。何と、運搬した中には、土台の石も含まれていたそうである。よって、鎌倉近辺では見られない種類の石を、ここで見ることができる。現在の観音堂には、中島が手に入れた中国の聖観音像があるが、奈良に多宝塔として立っていた時には、確認された運慶の最初期の作品として知られる、大日如来坐像があった。

中島は、書院に住んでいたが、お忍びで政治家が来ると、当時、この辺りで見かけない黒塗りの車だったので、すぐにばれてしまった。中島の没後は、奥さんが精進料理をやっていたことから、長寿寺で精進料理を出していた。長寿寺にとって中島真雄は、寺を中興した恩人なので、毎日、名前を入れてお経を上げている。

写真:
ヾ儔仔
∪橘免
4儔仔夏
こ併凖薫
キΝДリジナルの土台の石