どんな人でも、どんな世界でも
体調不良というのはあること。
最近、ニュースで役者や声優など
いろんな人が体調不良で、という。
日本人の心理としては
個人に各自、責任を強く
感じさせてしまう環境を
敷いてきた。
強いてきたとも言える。
病気で穴を開けると他人に
迷惑をかけると思い込んできた。
そうではない視点を捨ててまで。
狭い視野と狭い正義感の中で
それしか許されないと信じた。
個人より仕事で迷惑かけまいと。
長年培ってきたその心理的な土壌は
自他共に妥協を許さない雰囲気を生み
少しくらい平気だと自分に言い聞かせる。
相手さえ、そう思い込んでしまう。
そういう積み重ねが困難を招いても
個人の責任に追いやる。
スポーツ選手や有名人などが
妥協せず頑張る、ロールモデルに触発
より強固な意思を持って独り歩きする。
言っておきましょう。
みんながみんな
強くはないんです。
みんながみんな
能力が高くはないんです。
堂々と胸張って宣言してもいい。
ハードル上げすぎてたんです。
できなくても納得のいく
人生を生きていける国に
国自体が、その国民自体が
なろうとしないといけない。
ハードランディングの難易度を
上げてついてこいとばかり。
ソフトランディングなど
視界にもいれようとしない。
あれもこれもやってこなして
限界を突破せよとハッパかける。
他人への負荷はいつか自分にくる。
各自ができる能力が整う時期は
人によって千差万別なのだが
同じでないとどこか不安になる。
結果的に同じ基準を満たした者だけ
乗せて旅立ち、着地を許すような。
浅はかな勝ち組思考の完成である。
同じ水準を満たしてから各自が
自己責任で伸ばせばいいのだと。
失敗してもそれはあなたの責任と。
コレバッカリが選択肢ではない。
頑張ることに主眼を置きすぎて
頑張っていればなんとかなると。
周囲からも責められないで済む。
そういう時代を日本は経てきた。
何を頑張るのか、頑張ってる自分が
空虚なものに感じる瞬間もあるだろう。
これ全然楽しくない、ハッキリと。
私たちが社会人らしく振る舞おうと
すればするほど、苛酷さにつながる。
その間違った空気が蔓延している。
厳しいことこそ、正義で王道。
それができない者は甘えであると。
それが通用してきた社会だから
日本では無理もない話なのだが。
これは勝者が声高らかにしたから
その軌跡に酔いながら語り継がれ
長い年月、疑うこともせず互いを縛り
考えもせずに伝えてきたからだろう。
こうなると日本は思考停止する。
実際に思考停止してしまったのだ。
おそらく長いことそういう考え方が
根付いてしまって、どうにもならず
根っこはずっと変わっていないまま。
本当に人間はこのやり方だけなのか。
思った人は過去もたくさんいただろう。
はるか昔から疑問に思い、理解されずに。
日本は島国であるが、国際化に伴って
様々な考え方に触れるようになった。
それでも根強いスパルタ的信仰心理。
その信仰を信じて進行することこそ
正義だと信じて疑わず王道と称する。
これは、自分だけ違うことは
許されない、弾かれてしまうんだ
その恐怖感で支配されるからであり
ハードランディングのやり方で
日本の社会が成熟してしまったから。
もう熟しきっているのだが
腐っても鯛とばかりに。
堕ちたくない、失敗したくない。
責められたくない、その一心で。
この信仰の進行を止めるには
ソフトランディングできる土壌が
なければ理解されることはない。
だが日本社会は前例踏襲が根強い。
思ってる以上に頑なでハード。
この手の考え方はみんな
心のどこかにしまい込んでいる。
そうやれるならそうしたいと
ウズウズしてる気配は感じる。
でも誰もやらないからウジウジ。
意気込んで挑戦する者たちを
ハタから品定めするように見つめる。
失敗すると叩くことで自分が
マジョリティーの中にいることを
間違っていないのだと確認したい。
誰かが挑んで道ができてから
慎重に横を見ながら進むのを
ひたすら待っているだけ。
それでは死に絶えてしまうぞ。
いやもう、死に体になってる。
このソフトランディングの
雰囲気づくりこそカギだと思う。
ただ、その考え方もあっていいが
ハードな方に吸収される土壌だ。
いかにしてソフトランディングを
許す雰囲気をつくるかだろう。
ハード信仰から改心させるしか
方法はないのではないだろうか。
できるだけ私たちは小さな事から
ソフトな土壌にするために耕すこと。
それを続けランディングできると
証明しなければ、一生変えられない。
少しでも柔らかく、前例を疑い続け
その手で絶えず耕し続けるしかない。
踏み潰しにかかる鬼たちの足踏みで
固くなってしまわぬように。