急に思いついたこのフレーズ。

両方持っておけよ。

そう思う、人として。



ナイフだけでも

絆創膏だけでもダメ。



傷つけることはよくない。

そらたしかに。

だがチクッとされると

気づくこともある。



だが世間はチクッとすることも

カテゴリーは傷つくことだ。



難しくなった世知辛さ。

遠慮が遠慮を生むスパイラル。



ケガをして危険を自ら体感した。

こんなに痛いんだ、と体験した。

だから、人を傷つけなくなる。



私たちの世代はそうやって

少し乱雑な粗暴な環境で

大事なことを実体験で学んだ。



これを経験したオトナが今度は

最初から何も傷つけるなと教える。



なんだか急にシバリが増えた。

自由な感情を制限されたような。



全部ではないが、教育に熱心な人ほど

未然に防ぎたがる傾向が強い。

ケガしないように丁寧に梱包する。



そうなると自分が傷つく体験が

どうやら乏しくなってしまう。



どこかで狂ってしまうプラン。

狂いが生じることも許せなくなる。

守りを固める選択肢しか、なくなる。



良かれと思ってやることが

実は私たちを不自由にして苦しめる。



自分の条件、状況が一番大事。

それを守るために他人を攻撃する。



近頃の傾向が見えないところで

私たちを侵食していくようだ。



危険を体験した親や世代が

子や次の世代が失敗しないようにと

危険を回避させようとした。



ある意味では間違ってはいない。

しかし自身で体感する機会を

我が子や次世代から奪うことになった。



危険とは自分で体感しないと

ホントの意味で自分自身で

危険とは実感しないものだ。



みんな知識として理解するばかりで

体感に乏しくなる傾向が

強まってしまった。



その結果、

何かおかしくなりましたとさ。



加減を知らない暴力や

誹謗中傷に溢れかえり

混沌とした状況だけが加速する。



みんなおかしいなと感じてる。

それでも止まれない。



人の痛みがわからないというのは

このナイフを持たせないように

してしまったことと関係してる。



そして絆創膏である。

絆創膏とは「創傷被覆材」とあった。

傷ついた箇所を覆う素材

といったところか。



創は、傷をつけるという意味らしい。

創造するなど、ポジティブなイメージが

強いかもしれない。



膏は、ぬり薬的なイメージか。

軟膏とか傷に薬をぬってガーゼで覆う。



絆創膏、いわゆるバンドエイドは

たいていの人は皮膚が傷ついて

傷口に塗り薬をつける。



その傷口にガーゼ部分を合わせて

両端をテープで止めている。



または、直に触ると痛いから

何も塗らず触らずガーゼ部分で覆い

人体の自然治癒力に任せる。



そして、絆。

絆は、昨今の意味とは

違う側面を持つ。



最近の人間が良い意味に

仕立て上げただけだろう。



ご存知の方もいるでしょう。

絆とは人間や

動物などの家畜の自由を奪い、

手かせ足かせとなる鎖や枠のこと。



キレイごとのように

使われだしたのは

東日本大震災を境にだろう。



ダークな側面の意味合いが

私たちの前に無言で立ちはだかる。

見事に現代の闇とリンクしてくる。



私たちには程よいナイフは必要だ。

そしてその傷を治すために

絆創膏も必要なのである。



ナイフは加減と配慮を学び

傷と痛みを知る大事な道具。

そして傷つけたことを後悔して

傷つけまいと学ぶのだろう。



この実体験のルートは

塞ぐことはしないほうがいい。



そうすれば傷口は互いに浅くなる。

絆創膏で済む程度に抑えられる。



やはり何かリンクしている気がする

ナイフと絆創膏、そして私たち。



みなまで言うまい。

モヤッとさせたまま書き終えておこう。

そのほうが面白いから(笑)