人は失礼のないように・・・が度を越すとちょっと意味合いが変わってくる。
かといって名を上げたいと功名心が強すぎて、アピールがキツイのも少々イタイ。
でもね・・・すごいねって言われて、「才能です」って答えるくらいの人のほうが好きですよ(笑)
結局、針がどちらかに振り切ってしまうまで「気づかない」人が多いんだろうな。
ちょっと違う感覚をなかなか信じないし、認めないし、無意識に排除している。
気づくには慣れが必要だと思うが、それは伝える側、受ける側の両方に言えること。
受け手にわかりやすく丁寧に、それが当然でしょ?って思うかもしれない。
ただ、それは自分で考えて本当に正しいことと思ってる?当然だって思ってる?
伝える側だけの問題でしょ?って思うのかもしれないが、決してそうではない。
実は相互の意識に関係しているし、どちらかが動いて他方も気づけば歩み寄りが進む。
近年は簡単にわかりやすく、が度を越してしまって一般的な想像力が低下した人が多い。
悪い意味で、人も世の中もシンプル化を求めすぎたために
受ける側も相手の言うことを聞き取って理解しようとする姿勢を捨てた、あきらめた。
伝える側も「なんて言ったらいいんだろうな」のモヤモヤジレンマが強くなってしまって
次第になんとな~く、距離感が遠のいてしまっているような気がしますね。
「伝える」が「伝わる」に変わると人と人は、みえない距離感が確実に変化する。
伝わった瞬間の喜びを知る人はわかると思うが、ジワ~っと下から温まるような喜び。
現代人は距離感にわずらわしさを感じているが、逆に離れすぎた寂しさも感じてる。
あればあったで便利なものも、なきゃないなりで意外に不便さが心地よい場合もある。
満たされれば面白くなくもなるし、満たされなければ面白くしようともする。
でも世の中、自分のポジショニングに納得がいかずにいても動かない人が多い。
立ち位置や条件が整えば、それなりにその人の能力を発揮すれば、
社会全体としてまだまだ、伸びる要素はあるのではないかとずっと思ってる。
それでも、社会というのはそのポジション取りについて答えがないものとして
自己責任を要求して、学歴や個人任せにしてしまう。
みんなポジション取りに悩み、でも主体性を欠いてるから誰かの意見にすがりたくなる。
そうじゃないんだよ、そこでこうしちゃダメなんだよってことまで教えてもらわなきゃ、
何もできない現代人というのはかなりの重症なんだと思います。
でも人間ってのは思い込みひとつですよ。単純な構造にしていたい部分を単純にしていい。
ヘタにこねくり回してすれ違い生じさせ、憶測や不安から疑心暗鬼にかかる。
どんな局面でも自分で考えて、いろんな角度で物を見て感じてみること。
自分なりの答えを出すということが大事です。
あえて抽象的なことを書くことで、ワタクシも自分のなかのイメージを高めていくんですよ。
これは相手に対して、思考を働かせてみたらどうよ?という仕掛けでもある。
抽象的なことに対しては、読む側も少し整理しながら書き手の意図に
少しだけ寄ってくる姿勢がかなり大事になると思うんですよ。
スマホに魂抜かれた人は自分の機能低下に愕然とする瞬間あるでしょう?
裸の自分に落胆するのはそのときばかりではないですが(笑)
うまくいかないのは誰のせいでもない。
他人へすがるのも自由、自分でやるのも自由。
押してダメなら引いてみる。
ヒントになるアイデアのかけらはいろんなところにある。
まずは下を向いてるなら、顔を上げてみる。
不機嫌をかこっているなら、無理矢理でも笑顔になってみる。
同じようにやってダメなら変えてみる。視点も意識も変えてみる。
簡単なようでなかなか難しい。
でもね、答えがみつからないなら、うまくいかないならば
どうせなら思い切って大胆に、やりたいことやるほうがいいですよ。
抽象的でもなんか響けば幸いです。