知識を武器にしないからこそ、勝負になることもある。その対抗馬となるアイデアの正体とはなんだろう?
自分の頭の中のアイデアをまずはなんの情報も入れずにイメージして書き出すなりしてアウトプットしてみる。インプットの逆で自分のなかから出すのだ。
そしてそのテーマに近い本をあとから読むことで、自分のイメージと比較して補足、確認するような感覚で結び付けていく。
すると後追いで読みだした本での発見やアイデアが今度は頭の中にフレーズやニュアンスとして、潜んで残ってくれる。わずかな量で薄くだが、沈殿して堆積しているようなイメージ。
またしばらくして、別の機会に自分でアイデアを考えているとき、それが不思議とキーワードとして自分の頭の中に浮かび上がってきます。
よく言われるブレインストーミングというのは、この沈殿して堆積したアイデアを竜巻のように舞い上げて、自分にもう一度降り注いでくる、降りてくるようなそんなイメージではないか。
そして、はたから見ると初対面同士のようなアイデアたちが「はじめまして・・・ではないですよね?」と少しはにかんでから手をつなぎ舞い上がる。こうしてアウトプットとインプットが融合する。
実体が有って無いような、つながったアイデアたちもまた、沈殿して堆積していく。アイデアとして寝かせていくとこれがまた、いい発酵を生むのであろう。それが思いもよらないかたちでさらに融合して自分に降りてくるときがあるからおもしろい。
知識至上主義からは新しいアイデアは生まれないとよく言われる。間違いではないが、少し引き出し方の回路が違うだけで、知識が沈殿して堆積しているという部分では同じなのかもしれない。
知識に対して主導権を握れるかどうかもカギだ。手をつないだ知識やアイデアたちを舞い上げる力をもっているか?うまく舞い上げることができない人は単体でただひとつの情報として、つまんで拾い上げているだけなんだろうなと思う。インプット同士では手をつなぎたがらないから。
アイデアなんてものは誰も手ほどきしてくれないし、正解すらない、答えはないのだと思う。人それぞれに無数の引き出し方があって、その引き出し方を自分自身で体得できるかどうかだ。
おそらく引き出し方を勉強しよう、学ぼうとすること自体がもう間違っているんだろう。そのことに気づかずにいつまでもインプットして勉強し続けようとする。
しかし主体性に欠けるそういう人たちに対しては砂をつかむような話で、いつまでもこぼれ落ちる砂の粒をひとつひとつ拾い上げているようなもんだろうなと思う。手をつなぐ自前のアウトプットがあってこそ、インプットは躍動し始めるのではないだろうか。