他人を気にしすぎると自分に負荷がかかることがあります
他人の発言や気持ちを悪い方向へ推し量るように
自分自身を追い込んでいると気づけない状態に達してしまい
そうなってから初めて、気にしすぎていたこと反省する
というパターンになる人もいると思います
他人をどこまで気にするのか、どこまでが許容されるメイワクなのか
これは人それぞれで違った線引きをしているのがふつうです
でも世の中の流れが、厳しめにジャッジしてしまって
気遣いを気遣う構図になってるとは思いませんか?
どこかで社会人フィルターみたいなものを通してモノを見る習慣がつき
同じフィルター越しに他人と歩調を合わせて、これでいいんだよなと
安心感や安堵感を得てるような、そういう心理状態になっていく
それが社会人としての常識だよ、と言ってしまえばそれまでですが
そういうのばっかりでもないと思うのです
その社会人フィルターを介さずに話す言葉が
相手の心の琴線に触れたり、ハッとする瞬間になったりもします
打ち解ける瞬間というのはそういうちょっとしたキッカケですよね
心のなかではホンネでモノ言ってこいよ、と互いに考えてて
そういうにらみ合いの状態にいる人もいるかもしれません
こういうキッカケの瞬間は昔は職場仲間であっても成立してました
飲み会の席で最初はみんな遠慮がち
でも、少しずつお酒が入ってくると
ホンネが急に漏れたりしちゃうこともしばしば
僕が相手にホンネを漏らされた場合に、その瞬間に感じるのは
なにか心地よい霧が晴れるような爽快感
自分の悪いことを言われたとしても、言葉や態度では怒っていても、です
心のなかでは「おぉ、やっとホンネでかましてきたか(笑)」と
不快に思うことと不思議と同居してるんですよね
みなさんの上司たちも若いころ、ホンネで胸の内を語り合い
叱られたりしながらも、厳しい言葉に愛情を感じてたでしょう
また明日からがんばろうと、前を向く瞬間を仲間と共有していました
いまの若いひとたちはこういう関係についてはキライです
キライというのも他人との距離感をとってセーフティーゾーンにいる
ここからは入ってくるな、とテリトリー意識があり防御線を張ってる
でも、嫌なことをしないで避けてきただけで世代が違っても
人間の本質は変わらないと本当は思うのです
一方で、上司のほうもハラスメントになるのではという意識が高まりすぎて
遠慮してモノを言えない空気感があって躊躇してしまい、どうすべきなのか
正解がわからず言葉がみつけられない状態でいたりもします
なんて言えばわかってもらえるか腐心しながら悩んでいるはずです
なかば、こういう飲み二ケーションが状況を打開してきたのですが
上司も部下も古い、めんどくさいとかで成立しなくなっていますね
そのフィールドにさえ、立ってもらえず手詰まり感がぬぐえない状態です
もし、これ以上進展が望めないという状況ならば逆に古いことも
あえて、やってみる価値があるのではないでしょうか?
常識にとらわれるな、既成概念を打ち破れ
ステイハングリー、ステイフーリッシュってあるらしく
ジョブズのスピーチらしいですね、いま知りました(笑)
自分には競走馬の名前のステイフーリッシュが常識・・・
若い人はあえて参加してみる、古い人もあえてホンネで厳しくも愛情でぶつかる
そこでうまれる共感と共有の意識には互いの関係を改善するきざしがみえるはず
もう恥ずかしがらずにやっちゃえばいいんすよ(笑)
ワタクシも常識にとらわれず、新しい視点で社会保険労務士をみつめ
新しい展開ができるはずと確信できるからこそ、挑み続けています
馬はステイゴールドからの、ステイフーリッシュですが
人がステイフーリッシュであるのは、ステイゴールドであるために
おあとがよろしいようで