OBSCURA@へんな旅

OBSCURA@へんな旅

自分の2010年代を記した古文書と化していますね。笑
あくまでも、自分のために書いています。
でも、読んでくれたらありがとう。

Amebaでブログを始めよう!

 

 というわけで、ちょうど6年越しに「大陸横断へんな旅」の記録が完結しました。

 読んでくださった方、待っていてくれた方、ありがとうございました。

 

 「大陸横断へんな旅」をしたのが2014年の3月28日から5月19日。53日間に渡る旅行は、計画よりは大幅に短くなったものの、僕の今までの人生で最も長い旅行であることは、今も変わりありません。

 

  今回は、「自分のために書いています。」という断りをつけて続きを書き始めた訳だけれど、更新を始めたことをSNSなどでお知らせしたら、結構な数の方々が読んでくれたようで、内心かなり嬉しく思っていました。特に、何人かの友達からは、それぞれが面白く感じた回の話を、まるで自分が旅に出て見てきたかのように話してくれました。

 

 僕の極めて個人的な旅の思い出が、僕の手を離れて、一つの物語として自立していく。その過程を楽しませてもらえたのは、かなりの幸運者だったなと思います。もっと文章力を高めたいと痛感したよ、本当に。

 

 そういえば、僕が学生時代から親しくさせてもらっている友人夫妻が、この記録を読んでくれて、そして2度もzoomで感想を共有してくれました。こういう形で声をかけてもらえるの、本当に嬉しいよね。

 

 そのzoomの会話の中で、一つ印象に残っていることがあるので、その話を持って、あとがきに替えさせてもらえたらと思います。

 

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 奥さんとお話ししていた時のこと。「最近旅を大事にできていないと思うんだけど、どうしたら良いと思う?」と相談のようなものをされた。話を詳しく聞くと、「旅行の回数は昔に比べてすごく増えたけれど、一回一回の旅行に、真剣に向き合えていないと思う。旅行が終わったらすぐに次の旅行の計画、みたいになっていて、学生の頃の修学旅行のように、一回一回の旅行を惜しむように楽しむ、というのができていないんだよね」ということだった。

 

 まあ、沢山旅行ができて羨ましいな、とは思いつつ(ご夫妻の名誉のために念のため書くが、コロナ禍の間はステイホームされている。全くこんな注釈を入れないといけないなんて嫌な世の中になったもんだ)、どうやって答えようかなと考えてしまった。普段から相談なんてされるタチではないからだ。

 

 その中で何とか捻り出したのが、「旅は、終わった後からでも大事にできる。」という言葉だった。

 

 半分出まかせで思いついた言葉を並べて、「旅をしている最中に呆気なく過ごしてしまった1日にも、適当に撮った写真やチケットの半券、スマホのスクリーンショットなど、記憶に繋がる『カギ』が残る。旅が終わった後でも、そのカギを頼りに記憶を辿って、心の中に味わい深いものが生まれれば、それは旅を大事にしたことになるのではないか。」というような答え方をした。すると、奥さんは思った以上に納得してくれて、その場を無事におさめることができた。

 

 旅は、終わった後からでも大事にできる。その言葉を反芻するうちに、僕が6年越しに取り組んだ、この「大陸横断へんな旅」の記録の続きを書く作業も、まさに「旅を大事にする」行為そのものだったのだと気づかされた。

 

 6年ぶりに続きを書き始めるにあたって、僕は「この旅に対するある種の後悔、もしくは結末の呆気なさを、どう表現したらいいのか分からなかった」と書いた。

 

 それは、今振り返れば、「この旅をどうすれば、大事にできるのか分からなかった。」ということだったのだろう。

 

 多くの失敗を重ねて不完全に終わった旅を、どうすれば大事にできるのか。心の中で、一つのいい思い出として位置付けるために、どうすればいいのか。それを悶々と考えているうちに、6年という歳月が過ぎてしまった。

 

 しかし、その答えは極めて単純だった。断片的な記憶と、当時のメモ・写真を頼りに、今でも覚えているエピソードを素直な言葉で書く。その作業を繰り返すことが、「大陸横断へんな旅」を、自分のかけがえのない思い出に昇華する行為そのものだったのだ。

 

 「大陸横断へんな旅」は、やっと良い思い出になった。

 

 2020年の今は、コロナウィルスの騒ぎで旅どころではなくなっている。「訪日外国人観光客99.9%減」というニュースは衝撃的だった。それでも、そんな今だからこそ、旅の思い出が心を温めてくれる。今は、世界的な規模で「旅を大事にする」時期なのだろう。

 

 これで「大陸横断へんな旅」は完結するが、実はまだ、もう一つ、僕の中で大事にしたいと思っている旅がある。それもいずれ、気が向いたら書いてみようと考えている。

 

 あくまでも、自分のために書いています。

 でも、読んでくれたらありがとう。 

 

 これからも、どうぞよろしく。

 

(おしまい)

 17時を少し過ぎて、千葉行きの特急「あずさ」は、松本駅を定刻に発車した。

 

 特急「あずさ」は、主に新宿駅と信州を結ぶ列車だが、1日に1往復だけ、千葉発着の列車がある。この旅をしていた2014年当時は、千葉駅を早朝に出て、昼前に長野県と新潟県の県境に程近い南小谷駅に着く下り列車と、松本駅を夕方に出て、千葉に21時前に着く上り列車が設定されていた(のちに下り列車は松本行に短縮された)。

 

 この列車を選んだのは、大きいバックパックを持って、都内の帰宅ラッシュの通勤電車に乗り換えたくないという思いもあったが、それ以上に、最後まで「へんな」長距離列車に乗りたいという趣味的な欲求が大きかったのだと思う。

 

 駅のコンビニで買ったサッポロビールの缶を開ける。思いの外、味がさっぱりしている。日本を離れたのはほんの2ヶ月弱なのに、いつの間にか、ヨーロッパの濃いめのビールが自分のスタンダードに変わっていて驚いた。

 

 

 ビールを飲みながら、過ぎゆく車窓を眺める。中央本線に乗るのが初めてというわけではなかったが、長野や山梨の山あいの車窓は新鮮で、旅の終わり特有の感傷的な気分にはならなかった。それは発車して1時間ほどが経ち、甲府駅の手前で富士山が見えた時も同じだった。極めて日本的な風景だとは思ったが、それは僕の心象風景と完全に重なるものではないと思った。千葉県で生まれ育った僕にとっての富士山は、冬晴れの朝や夕方に、広大な関東平野の向こうに微かに見える遠い存在の山に過ぎず、富士山を見て美しいと思う気持ちは、メディアを通して富士山を見聞きしてきた他の観光客と大して変わらないのではないかと思った。

 

 

 そんな僕が、「帰ってきた。」と実感したのは、新宿を過ぎて、列車が秋葉原に差し掛かったときのことだった。

 

 大学に入ってから、地元・佐倉から大学のある新座まで、片道2時間かけて電車通学をしていた。大学の友達の中には、僕と同じくらいの通学距離を持ちながら、大学の近くに一人暮らしをする友達も何人かいたが、僕は地元から電車通学することを選んだ。その理由は、単純に一人暮らしにかかる費用よりも通学定期の方が安いということもあったが、地元と大学の行き来の中で様々な場所に行けることに魅力を感じたのが大きかった。

 

 特に休学直前の定期券の経路は、僕にとって「プラチナチケット」そのものだった。通学定期ながら、東京駅にも、秋葉原にも、上野にも、池袋にも行ける。新座の大学が「おまけ」に感じられてしまうくらい、僕の行動範囲を大きく広げてくれた。

 

 その通学定期の範囲に、ついに戻ってきた。小学生の頃から夢見た大陸横断の旅が、終わろうとしている。電気街の雑多な看板を見て、急に感傷的な気持ちが湧き上がってきた。

 

 

 「ユーラシア大陸を、飛行機を使わないで、陸上の公共交通機関だけで横断してみたい。」という思いを最初に持ったのは、小学校4年生の時のことだった。運よく市のオランダ児童交流の派遣児童に選ばれて、オランダで10日間、ホームステイをして過ごした。初めて接した異文化もさることながら、その行き帰りの飛行機で窓の外を眺めていた時に、ずっと陸地が続いていたことが強く印象に残った。シベリア鉄道が世界最長の鉄道だということは既に知っていたが、それに乗れば飛行機を使わずにヨーロッパに行けることに気づいて、10歳の僕の冒険心は大いにときめいた。それを実現したい一心で、英語が苦手なのに高校は国際科に進学し、大学に進む時も、その夢が実現できそうな観光学部を選んだ。

 

 そんな10年以上の歳月を準備に費やした旅が、終わろうとしている。

 

 後悔がないかといえば、嘘になる。当初110日程度の計画をしていた旅は、その半分にも満たない53日で幕を閉じることになった。ずいぶんと盛大に旅立ちを祝ってくれた友達に、どう顔向けしたらいいのか分からない。毎日更新しようと思ったブログも、まだウィーンにすら到達していない。

 

 それでも、幼いの頃の自分の夢に素直でよかった、という気持ちが湧き上がってきた。

 

 自分の夢に素直に向き合ったからこそ、沢山の人に出会えた。それはこの旅の道中ではもちろん、旅を実現させるために奔走した12年間の日々にも言える。素直に愚直に自分の好きなことに向き合ったから、旅立ちを盛大に祝ってくれる友達に出会えた。そして、真っ直ぐに自分のやりたいことに挑戦したからこそ、自分の課題にも真っ直ぐに向き合うことができた。その時間にこそ、替え難い価値があると思えた。


 特急「あずさ」が千葉駅に着き、向かいのホームに滑り込んだ快速列車に乗り換えた。

 

 

 21時を過ぎて、既にガラガラになった車内で、静かに思いを巡らす。

 

 そういえば、旅の途中、自分を勇気づけたくなった時に、幾度となく口ずさんだ歌があった。

 

 「ひょっこりひょうたん島」だ。

 

 

 「丸い地球の水平線に 何かがきっと待っている 苦しいこともあるだろさ 悲しいこともあるだろさ だけど僕らはくじけない 泣くのはいやだ 笑っちゃおう すすめ」

(「ひょっこりひょうたん島」 

作詞:井上ひさし・山本護久)

 

 

 幼い頃に風呂で父が歌ってくれた歌を、この旅で一番最初に思い浮かべたのは、確か出国の直前、山陰本線で萩から松江へ向かう途中だったと思う。車窓に広がる日本海を見て、不意に心細くなってしまった自分に言い聞かせるように、歌詞を思い浮かべた。「丸い地球の水平線」の先にこれから自分が向かおうとしていることに、どうしても不安を感じてしまったのだった。

 

 今日、久しぶりに特急「はくたか」から日本海を見た。その海の穏やかさに見惚れているうちに、ふと、僕はあの水平線の向こうを見てきたんだなと思った。今の僕は「丸い地球の水平線」の向こうに待っているものを知っている。そのことを、一つの自信としてこれからも持ち続けよう、と思った。

 

 佐倉駅への到着を知らせるアナウンスが流れる。寺崎のトンネルを抜けて、懐かしい景色が広がる。一際明るいホームに列車が滑り込む。ドアが開く。高崎川や近くの田園から吹き込んでいるであろう、しっとりと湿度を帯びた風に身体が包まれる。

 

 水平線の向こうの、世界の隙間に、僕は再び降り立った。 

 「へんな人生」は、こうやってまた始まるんだな、と思った。

 

(完)

 

 

 

(※柄にもなくカッコつけて「完」とか書いちゃったけど、あともう一本、あとがきを明日アップするよ。)

 故郷・千葉県の佐倉に帰る日は、ごく自然にやってきた。

 

 朝、車で出勤する彼女を見送って、富山地鉄の駅へ。普通列車を待っていたら、運よく「アルプスエキスプレス」の車両に乗ることができた。

 

 この車両はもともと西武鉄道を走っていた特急車両「レッドアロー」を譲り受けたもので、日本で多くの観光列車を手掛ける水戸岡鋭治氏によって、車内は木目調の暖かい雰囲気にリニューアルされている。主に立山や宇奈月温泉への観光アクセスを担う特急列車として運用されているが、通勤時間帯には普通列車の運用に就き、地元住民の通勤・通学の足としても活用されている。

 

 

 

 この旅ではずいぶん色んな列車に乗った。それこそシベリア鉄道をはじめとする寝台列車や、タリスなどのカフェテリア車両を持つ高速列車にも乗ったが、通勤客が木製の椅子に座って寛ぐ姿は初めて見たように思う。わずか数分の乗車だったが、日本の鉄道もまだまだ面白いと思った。

 

 以前の記事にも書いたように、この旅をしている2014年は、まだ北陸新幹線が富山に来ていない。そのため、富山から首都圏へのアクセスは、まず在来線特急「はくたか」で新潟県の越後湯沢駅へ向かい、そこから上越新幹線に乗り換えるのが一般的だった。

 

 しかし、そのルートで帰ってしまうと、昼過ぎには佐倉に着いてしまう。それではあまりに呆気ないので、少し遠回りをして帰ることにした。

 

 富山駅から、特急「はくたか」越後湯沢行きの自由席に乗車。市街地を抜けると、雲ひとつない青空の下に立山連峰が見えた。新潟県境が近づくと、反対側の車窓に日本海が広がる。思わず席を移ってしまった。

 

 

 

 終点の越後湯沢駅までは乗り通さず、途中の直江津駅で下車。ここからは信越本線に乗り継いで、長野駅を目指す。この区間は新幹線開業後に、JRから第3セクターに運営が移管されることが決まっている。乗り換えた普通列車「妙高3号」は、新幹線開業に伴って運用を失う、国鉄時代の特急車両が使われていた。

 

 

 

 建設中の新幹線駅・上越妙高駅の脇を過ぎると、水の張られた田んぼの奥に、残雪の残る妙高山が見えた。一昨日の琵琶湖に続いて、なんてみずみずしい風景なんだろう、と思った。これから日本を旅するときは、「みずみずしさ」を一つのキーワードにしていきたいと思った。

 

 

 

 

 長野駅からは、特急「ワイドビューしなの」に乗り換えて、松本駅へ。途中の姨捨(おばすて)駅付近は、善光寺平を一望できることから、日本三大車窓の一つに数えられている。残りの2つは、北海道の根室本線の狩勝峠付近と、熊本県の肥薩線の大畑(おこば)駅〜矢岳駅間。肥薩線は出国する前の5日目・4月1日に乗ったので、この旅ではユーラシア大陸横断をしながら、日本三大車窓の内の2つを制覇したことになる。全く酔狂だな、と自分に呆れる。肥薩線からは満開の桜が見えたが、姨捨からの車窓は明るい緑が広がっていた。初夏はイギリスのロンドンだけでなく、日本の長野県にも訪れていることを実感した。

 

 

 松本駅で途中下車して、松本城に足を運んだ。松本城は国宝に指定されおり、現存する五重六階の天守閣では日本最古とされている。ヨーロッパで見た城郭や宮殿とは違って、木造の天守閣は極めて無骨で、軍事拠点としての性格が色濃く出ているように思えた。

 

 

 だが、じっくりと眺めていると、そんな無骨な天守閣の一角に、赤い欄干が張り巡らされていることに気づいた。後から付け足されたようにも見えるこの部分は、一体何なのだろう。気になりながら内部を見ると、それは「月見櫓(つきみやぐら)」と名付けられた部屋で、戦国時代が終わり、太平の世が訪れてから増築されたということだった。しかし、内部にヨーロッパの宮殿で見たような派手さや豪華さがあるかといえばそうではなく、極めて質素な作りで、まさに月を見ることにフォーカスされた部屋だと感じた。日本に関心を示す外国人が「侘び・寂び」に心を惹かれるのは、こういったシンプルさと精神性に依るところが大きいのかも知れない、と思った。

 

 

 

 松本に立ち寄ったのは、本当は松本城ではなく、松本市美術館に行きたいと思ったことがきっかけだった。当時松本市美術館では、「IMARI/伊万里 ヨーロッパの宮殿を彩った日本磁器」という企画展が開催されていた。ヨーロッパの宮殿を見て回った時に、一つ一つの部屋に中国や日本の壺が飾られているのを見た。旅の終わりに、その繋がりを再確認したらいいのではないか、と考えたのだ。

 

 

 だが、松本市美術館の目の前まで行って愕然とした。今日は月曜日、休館日だったのだ。

 

 旅が長くなる中で、いつの間にか曜日感覚が完全に麻痺してしまっていた。まあ、こんな風に思い通りにいかないのが旅の醍醐味だから、これからの宿題をもらったと思うことにしよう。締まりの悪さが却ってこの旅らしく、自分らしく思えて、少し笑えてきてしまった。

 

 

 時間を潰そうと思って松本駅前の喫茶店「翁堂」に入り、アップルパイとアイスコーヒーを頼んだ。信州の林檎を使っているであろうアップルパイは素朴で美味しかったが、それ以上にアイスコーヒーが印象に残った。なぜなら、旅の初日に訪れた静岡県のハンバーグレストラン「さわやか」と同じく、銅のカップに入れて供されたからだ。力強い苦味が、冷たさと共に伝わってきた。ああ、この旅は磁器に帰結せず、銅のカップで帰結するんだな。それもそれで、悪くはないな、と思った。

 

 

 そして、松本駅を17時過ぎに発つ、特急「あずさ」千葉行きに乗った。53日間に及ぶ旅が、あと4時間少々で終わろうとしている。

 

 

 

 この日は彼女と共に富山市内を巡った。富山市役所の展望台から眺めた北アルプスは美しく、また、お昼に食べたトンカツも、カラッと揚げられていて美味しかった。だが、もっとも印象に残ったのは、午前中に足を運んだ富山城だった。

 

 

 富山市の中心に位置する富山城は、戦国時代の最中の1543年に築城された。しかし、明治維新の際に廃城となり、当時の遺構として残されているのは石垣や堀などの僅かな部分のみだ。現在建っている「城」は、鉄筋コンクリート造で、元々の天守閣とは全く異なる構造となっており、内部は郷土博物館となっている。

 

 正直に言って、富山城には全くもって良い印象を持っていなかった。この旅の中で、ヨーロッパの様々な城や宮殿を見てきたこともあるが、それ以上に、いわゆる「観光施設」のような、史実に基づかない建物が街の中心にあることに、意義を見出せなかったからだ。でも、郷土資料館の富山城に関する展示を見て、その考えは変わった。

 

 現在の鉄筋コンクリート造の富山城は、第二次世界大戦後の1954年に建てられた。

 

 富山城が建てられる9年前、戦争末期の富山市は空襲に見舞われた。1945年8月の大空襲では、2000人以上の方が亡くなり、原子爆弾の投下された広島・長崎を除く地方都市への空襲としては最も被害が大きかったという。ほとんどの建物が焼き払われ、市街地は焦土と化した。

 

 終戦後、復興事業によって富山市の市街地は大きく生まれ変わった。特に道路は大きく拡幅され、格子状の街路が形成された。古くからの細い街路が現在も残されている隣県の金沢市と異なり、富山市の市街地が広い街路によって構成されているのは、空襲の有無よるところも大きいという。金沢市は空襲に遭うことなく終戦を迎えている。

 

 ちなみに、この戦災復興の最中に、肉体労働者の昼食として親しまれたのが、のちに富山市の「ご当地ラーメン」となる極めて醤油味の濃いラーメン、「ブラックラーメン」である。「ブラックラーメン」は、白いご飯だけを弁当箱に詰め込んで昼食にしていた肉体労働者のために、塩気の強いおかずとして考案されたのが発祥だという。

 

 1954年、戦災復興事業の完了を祝して「富山産業大博覧会」が開催された。そして、そのパビリオンとして、耐火性に優れた鉄筋コンクリートで建てられたのが、現在の富山城であった。

 

 現在の富山城は、単なる「観光施設」ではなく、戦災から蘇った富山の復興を象徴するランドマークだったのだ。この建物や場所に与えられた意味を知って、やっと富山城が街の中心にあることの意義を見出すことができた。 

 

 富山城の最上階は展望施設になっている。小窓から城址公園を覗くと、芝生の上で昼寝をする外国人観光客の姿が見えた。不意に、数日前にロンドンのハイドパークで昼寝をした自分を重ね合わせてしまう。富山城は富山駅からのアクセスの良さもあって、口コミサイトのトリップアドバイザーでも外国人観光客から高評価を得ている。あの外国人観光客は、もしかしたら富山城が戦災復興の象徴であることを知らないかも知れない。それでも、富山城とそれを取り巻く城址公園は、富山の市街地に平和な時間と空間をもたらしている。この居心地の良さが、いつまでも続いて欲しいと願わずにはいられなかった。

 

 

 

 関西空港から関空快速に乗って大阪駅に向かう。大阪湾に架かる連絡橋を越えると、その車窓に驚いた。家と家の間が狭い。畑と住宅地が混在しているところもある。これは都市の無秩序な拡大によって引き起こされた、いわゆるスプロール現象なのか、それとも島国特有の土地利用なのだろうか。線路の幅も狭く、遊園地のミニSLに乗っているような気持ちすらする。

 

 ふと、「ゼンマイ仕掛けの飴細工」という言葉が脳裏に浮かんだ。

 

 この旅に先立つこと2年前の大学2年生の夏、船と鉄道だけで千葉からソウルに行く旅をした。ユーラシア大陸横断の「練習」として行った、初めての海外一人旅だ。

 

 青春18きっぷを握りしめ、東京から夜行快速ムーンライトながらで岐阜県の大垣まで距離を稼いだ後は、普通列車をひたすら乗り継いで下関まで下った。途中、広島で2泊し、朝鮮通信使が訪れたという鞆の浦にも寄った。下関からは関釜フェリーに乗り継いで、翌朝、韓国の釜山に入港。釜山で1泊した後は、韓国国鉄の中で最も安い客車列車・ムグンファ号でソウルに至った。ソウルで2泊して、仁川から成田行きの格安航空に乗って帰った。

 

 仁川からの帰りの飛行機が成田空港に近づいたとき、雲の合間から青々とした水田が見えた。その合間の細い道を、自動車が列をなして走っていく。自動車が向かう先には、小さな集落や、空港に隣接する工場があった。その風景を見たときに、「ああ、この国は、まるでゼンマイ仕掛けの飴細工のような国なんだな。」と思った。飴細工のように繊細で緻密な作りをしていて、それがゼンマイ仕掛けの玩具のように、せわしなく動き続けている。自分は今まで、そんな装置を構成する一部分だったんだな、と思った。

 

 

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 大阪駅で特急サンダーバードに乗り換える。清掃の行き届いた清潔な車内で、売店で買った「柿の葉寿司」を頬張る。酢でしっかりと締められた鯖が美味しい。京都を過ぎて湖西線に入ると、青空の下に琵琶湖が見えてきた。

 

 

 日本最大の面積を誇る琵琶湖と言えど、大陸から戻ったばかりの自分にとってはさりとて広くは感じない(もっとも、シベリア鉄道から見る予定だったアジア最大の湖・バイカル湖は、深夜帯に通過してしまったために見られなかったのだけれど)。でも、その湖畔に並ぶ、まだ稲の短い水田と瓦屋根の集落、そして対岸にそびえる山々は純粋に美しいと思った。

 

 

 

 

 車窓を眺めながら、「ゼンマイ仕掛けの飴細工」という言葉を、再び、口の中で転がす。ああ、やっぱりこの国は、本当に小さくて、細かくて、可愛らしくて、それでいて精密なんだ。「ゼンマイ仕掛けの飴細工」なら、その一部になるのも悪くはないかも知れない、と思った。

 

 

 列車は、寸分違わず定刻に終点の富山駅に着いた。この旅をしていた2014年は、まだ北陸新幹線が金沢まで開業していない。開業後は金沢止まりとなってしまったサンダーバードは、このときは富山まで直通していた。「コンパクトシティ」政策の目玉となっている市電も、この時はまだ新幹線の高架下まで伸びていない。

 

 小さな市電に揺られ、中心地を少し離れた電停で降りて、小さな部屋の並ぶアパートにたどり着いた。僕より幾分小柄な彼女が、笑顔で出迎えてくれた。小皿に盛られた「ほたるいかの沖漬け」と「白えびの刺身」を肴に、小さなグラスで日本酒を飲み交わした。小さな幸せを、そこに見出した。

 

 

 

 ただ、この「ゼンマイ仕掛けの飴細工」の国の北の方には、「北海道」と称される広大な土地を持つ島があるという。彼女が富山に引っ越す前に札幌に住んでいたこともあって、北海道にはユーラシア大陸横断の前に何度も「通った」が、果たしてどんな場所だっただろうか。わずか1ヶ月足らずで、自分の感覚が大きく変わっている。新鮮な思いがした。

 フィウミチーノ空港の搭乗口が、にわかに関西弁で賑わい始めた。

 アリタリア航空209便、大阪・関西空港行きの搭乗が始まった。

 

 日本へ戻る飛行機を、自宅に近い成田や羽田行きにしなかったのには、いくつか理由がある。

 

 まず一つは、自宅に帰る前に富山に寄りたいと思ったからだ。富山には、その年の4月に札幌から移り住んで社会人生活を始めた彼女が住んでいる。のちにその彼女は僕の妻になるわけだが、とにかく、一刻も早く富山に行って、土産話に花を咲かせたいと思ったのだ。

 

 もう一つは、海外から日本へ戻ってきたときにありがちな、「日本」をひとまとめに考えてしまう、いわば「灯台下暗し」な現象を少しでも防ぎたいと思ったからだ。

 

 一言に「日本」と言えど、地域が異なれば事情も大きく異なる。この旅では、鳥取県の境港からロシアのウラジオストクへ出港する前に、九州と山陰を巡った。そのときに体感したように、ずっと陸上を這い回ってきたからこそ分かる地域ごとの差分を味わいながら、旅を終えたいと思った。この移動は、イタリアから日本への移動以上に、ローマから大阪への移動なのだ。

 

 イタリア時間で15時31分にドアクローズ。腕時計を、7時間進める。大阪は22時31分だ。その後、じりじりとタキシーウェイの上で待たされたが、23時15分に34L滑走路から離陸すると、あっという間にローマは雲の彼方へ去っていった。

 

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 日付が変わって、5月17日、午前3時10分。飛行機は、ロシア・エカテリンブルクの上空に差し掛かった。エカテリンブルクは、鳥取県の境港を出港して9日目、ウラジオストクを出発して6日目の早朝にシベリア鉄道で通った。飛行機だと、ここから大阪まで残りわずか7時間だという。その速さに改めて驚かされる。

 

 こんな時代にシベリア鉄道でユーラシア大陸を横断した意味は何だったのだろう。暗い飛行機の中で、エコノミークラスの座席に体を埋めて考えた。

 

 この旅の途中、電子書籍で『クリエイティブ都市論』という本を読んだ。アメリカの社会学者、リチャード・フロリダによって著された書籍だ。その中で、僕は「スパイキーな世界」という言葉に出会った。

  

 ニューヨークタイムズ紙のコラムニスト、トーマス・フリードマンは、「フラット化する世界」を提唱している。「テクノロジーの進歩のおかげで、グローバルな活動の舞台は均一化した。」、すなわち、もはや住む場所に関わらず、どこでも経済活動やイノベーションに参加できる時代になった、と。

 

 しかし、フロリダはそれに反対の立場を取る。「私たちは理論上、どこでも自由に暮らすことができる。しかしその一方で、ある特定の場所では圧倒的に多くのメリットを享受できる。これがまさにグローバル経済の現実なのである。」と。

 

 フロリダは、自身の研究を基に、全世界の人口に占める都市人口の割合が爆発的に高まっていることや、経済活動、イノベーションが特定の地域に偏って集中していることを挙げ、世界は「フラット化」するどころか、地域間の格差の激しいトゲトゲした世界、すなわち「スパイキーな世界」になっていると主張している。

 

  「スパイキーな世界の山頂に位置する地域、つまり世界経済をリードする都市や地域は、かつてないほどの発展を遂げている。その一方で、スパイキーな世界の谷底にあたる地域、つまり何らかの経済活動が認められるとしても、発展の兆しが見られない大方の地域は、衰退しているのだ。」

 

 「現代における最も重要な政治的課題とは、世界の山頂と谷底との間に生じた格差を少しでも埋めること、そして山頂を犠牲にして削り落とすことなく、谷底をせり上げることなのだ。」

(リチャード・フロリダ『クリエイティブ都市論』井口典夫訳)

 

 今回の旅、特にシベリア鉄道の旅は、この「スパイキーな世界」のトゲとトゲの間の部分、世界の隙間を認識する旅だった。

 

 飛行機から改めて眼下のロシアの街々を見ると、それらは小さな点でしかない。しかし、そこに人の営みが全くないかと言えば、それは嘘になる。

 

 シベリア鉄道では、6泊7日の車中泊生活の中で様々な人に出会った。特に同じ個室で時間を過ごした人々との思い出は忘れられない。ウラジオストクからチタまでは一人旅のおばあちゃんと映画を見て過ごした。チタからキーロフまでは、少年ダーニャと遊びながら、そのお父さん・お姉さんの温かさに触れた。そしてキーロフからモスクワまでは、アナリストのアレックスとともにビールを飲み交わした。

 

 ロシアの街々には、彼らのように、ごく普通の、ささやかな生活を送っている人々が、ごく当たり前に沢山いる。もしかしたら彼らは、世界的な結びつきとは疎遠なのかも知れない。もしかしたら衰退の最中にあるのかも知れない。しかし、それでも彼らは自分なりの生活を送り、自分なりの旅をしている。彼らには、彼らの「世界」があるのだ。

 

 もし、21世紀の現代に、シベリア鉄道に乗って大陸横断をする意味が一つあるとすれば、それは世界の隙間に気づけるということだと思う。世界の隙間は決して無ではない。世界の隙間には、またさらに小さな世界が存在している。何もないところなんて、地球にはどこにもない。それを実感できたのが、この旅の一番の収穫だったのだろう。

 

 

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 浅い眠りから覚めると、飛行機はすでに日本海を越え、鳥取県の上空に差し掛かっていた。隣の座席のイタリア人と思われる青年は、熱心に京都のガイドブックを読んでいる。彼はこれからどんな旅をするのだろう。何に気づくのだろう。誰かの旅の終わりは、別の誰かの旅の始まりでもあるんだな。

 

 そんなことを思っているうちに、10時37分、アリタリア航空209便は予定を20分ほど早めて関西空港に着陸した。

 空港で夜を明かして、朝のローマ市街に足を運んだ。

 

 吹奏楽を長く経験してきた僕にとって、ローマと言えば、レスピーギ作曲のローマ3部作だ。「ローマの噴水」、「ローマの松」、「ローマの祭り」。中でも僕は「ローマの噴水」が好きで、高校時代から何度もMP3プレーヤーで音源を聴いてきた。

 

 「ローマの噴水」では、4つの噴水が描かれている。第1曲は「夜明けのジュリアの谷の噴水」、第2曲は「朝のトリトンの噴水」、第3曲は「真昼のトレヴィの噴水」、第4曲は「黄昏のメディチ荘の噴水」。このうち、トリトンの噴水とトレヴィの噴水は、簡単に訪れることができることが分かった。その前まで行って、噴水を見ながら音源を聴いてみよう。地下鉄に乗って、まずはトリトンの噴水に向かった。

 

 静謐さを基調とした第1曲、第4曲とは対照的に、第2曲、第3曲は極めて力強く、明るいサウンドで構成されている。そのうち、第3曲で描かれるトレヴィの噴水は観光地としても有名なので、教科書などの写真を見てイメージがついていた。しかし、トリトンの噴水は写真を見たこともなく、全く想像がつかない。ホルンのファンファーレのような響きから始まるということは、トレヴィの噴水のように立派で、滔々と水をたたえているのだろうか。

 

 が、そう思った通りにならないのだから面白い。トリトンの噴水はバルべリーニ広場にあるというが、地図のスクリーンショットを頼りにたどり着いた広場は、アスファルトと石畳で舗装された何とも無機質な場所だったのである。そして、その端の方に、噴水がポツネンと立っている。予想に反してこじんまりとした噴水に、拍子抜けしてしまった。

 

 

 広場の周りはランドアバウトのように道路が巡らされていて、自動車がひっきりなしに走っている。その合間を縫って広場に入り、噴水の前に立ってイヤフォンを耳に入れた。噴水の周りにベンチがあるわけでもなく、ひたすら立ちん坊である。なんだか落ち着かない。

 

 だが、音源の再生を始めるとその感覚は少しずつ変わっていった。ホルンのファンファーレに続くフルートのメロディのように、小さな噴水に繊細な美しさを感じるようになったのだ。そして曲は徐々に盛り上がる。日が昇るにつれて、噴水の周りを人が、車が行き交うようになり、街に喧騒があふれ出す。そうか、この曲の明るさは、もしかしたら噴水そのものではなく、何千年もの間繰り返されてきた、ローマの日常の始まりを描いているのではないか。そう思ったときに、自分もまたそのローマの新しい1日に立ち会っているような気がして、誇らしげな気持ちが湧いてきた。

 

 その後、トレヴィの噴水の前で、コインを投げる観光客を遠目に見ながら第3曲を聴いたが、感慨深く思ったのはトリトンの噴水の方だった。その場を訪れた自分だけが知っているこの感覚を、密かに、大事にしたいと思った。

 

 

 フィウミチーノ空港に戻る前に、いくつか遺跡を見て回った。コロッセオの周りもぐるっと回った。イギリスでローマン・バスを見たときにも思ったが、日本史の始まる遥か前から高度な文明や建築技術が発達していたことに、改めて驚かされた。

 

 

 

 しかし、随分と貧しい人にも遭遇した。地下鉄の駅では、老女が親切そうに切符の買い方を教えてくれたが、切符が買えるや否や、老女は僕の目の前に紙コップを突き出した。切符の買い方を教えてやったのだから、金をよこせと言うのだ。

 

 渡せる金はない、と伝えてその場を離れようとしたが、その瞬間、券売機からお釣りのコインが1枚落ちてきた。老女はそれをじっと見つめる。致し方なく、そのコインを紙コップに投じて逃げるようにホームへ降りた。帰りがけ、再びその駅を訪れると、老女は地べたに座り込んで物乞いをしていた。

 

 もっとショックだったのは、ローマ駅での出来事だ。イタリア国鉄には、自動改札がない。駅で購入した切符を、ホームにある印字機に差し込んで、入場記録を切符に印刷することが改札の代わりになっている。

 

 すでにその仕組みを知っていた僕は、切符を持って印字機に近づいた。が、切符を入れようとした瞬間に、10歳くらいの少年が不意に現れ、僕の切符を強引に奪った。そして、印字機に入れて、「こうやって印字するんだ。教えてやったんだから、金をくれ」とせがんでくるのだ。

 

 その場はお金を手元に出すことがなかったから、お金を渡さずに離れることができた。しかし、遠巻きに、あどけない顔をした少年が「チッ」と悔しそうな顔をするのが見えた。

 

 経済的な貧しさが原因なのかも知れない。だが、それ以上に感じた、彼らの心の貧しさに、言葉にできない痛みを覚えた。

 

 なんであんな老女が、幼い子供が、心の貧しいことをしなければならないんだ。

 しかも、日本よりも遥かに早くから文明や技術の栄えたこの国で。

 

 いよいよイギリスを発つときが来た。

 

 アリタリア航空209便は、40分ほど遅れてドアクローズになった。ストライキの影響だという。

 

 

 夕闇の迫る20時59分、KLM、Virgin、エミレーツ、ブリティッシュエアウェイズの後に続いて、やっと27L滑走路から離陸。飛んでしまえばこっちのものといった感じで、飛ぶまでのじりじりとした待ち時間が嘘だったかのように、あっという間に空港が遠ざかっていく。そして眼下には、緑の中に赤レンガの建物が立ち並ぶ、まさにイギリスらしい田園風景が広がった。

 

 いつの間に、こんなに綺麗なところに来ていたんだな。

 本当に、いつの間にか来ていたんだな。

 

 飛行機は10分足らずで英仏海峡に差し掛かった。海の青さに、目眩のするような思いがする。そして陸地が、海と空の間に貼り付いている薄い板のようなものに過ぎないことに気づかされた。この板の上に、様々な人が住んで、文化を育んでいる。そこを這うように、縫うように移動した結果が、この旅だったのだ。

 

 ふと、サン・テグジュペリの『人間の土地』が脳裏をよぎった。

 

 「飛行機は、機械には相違ないが、しかしまたなんと微妙な分析の道具だろう!この道具が僕らに大地の真の相貌を発見させてくれる。道路というものが、そういえば、幾世紀の間、ぼくらを欺いていたのだった。」

 

「ぼくらの直線的な弾道のはるかな高さからぼくらは発見する、地表の大部分が、岩石の、砂原の、塩の集積であって、そこにときおり生命が、廃墟の中に生き残るわずかな苔の程度に、ぽつりぽつりと、花を咲かせているにすぎない事実を。」

(サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳)

 

 確かに、僕は道路や線路に欺かれたまま、ロンドンまでたどり着いてしまったのかも知れない。この旅では、ずいぶんと沢山のものを見たけれど、その一方で気づけていなかった部分も沢山あったのかも知れない、と思った。

 

 だが、それでもこの旅には価値があった、と思える瞬間があった。それは飛行機が英仏海峡を越え、窓の外がすっかりと暗くなったときのことだった。

 

 すっかりと夜の帳の降りた闇の中に、オレンジ色に煌めく同心円状の街が見えた。

 

 パリだ。

 

 僕は瞬時に気がついた。なぜなら、その街の形が、中学生の頃に無印良品で買った、パリの地図の描かれたハンカチと全く同じ形をしていたからだ。

 

 

 中学生の頃、旅行に行きたくてもお金のなかった僕は、通学用自転車で遠乗りをすることでその欲求を満たしていた。最も頑張ったときは、1日で70kmほど自転車を漕いでいた。

 

 その目的地は、大概が郊外のショッピングセンターだった。ショッピングセンターに行けば、フードコートで安く昼食をとれる上に、自分の住む街では手に入らない文房具を買うことができる。わずか数百円のシャープペンシルや蛍光ペンを、その「旅」の手柄のように買って帰り、学校の授業中に眺めてうっとりとするのが密かな楽しみだった。

 

 なかでも無印良品は大好きだった。シンプルなのに確固たる信念の感じられるデザイン、そして自分でも手の届く価格帯のラインナップ。なけなしのお金で精一杯の背伸びをしたい年頃の僕の琴線を、ここまで響かせたものがあっただろうか。いつか自分の力で生活する日が来たら、その時は無印良品の家具に囲まれた生活をしよう、そう本気で思って、分厚いカタログを持ち帰ったこともあった。

 

 パリの地図のハンカチは、成田のイオンモールで買った。白地の上に薄いグレーの線で道路が示され、さらに細い黒線で地下鉄の路線と駅名が示されている。他にも東京やニューヨークの地図のハンカチがあったが、パリの道や線路が同心円上に広がる地図は、格別に美しく感じられた。ハンカチなんて殆ど買ったことはなかったが、500円ほどに値下げされていたこともあって、その日の手柄は、あまたある文房具を押しのけて、パリの地図のハンカチとなった。

 

 そのハンカチと全く同じ形をした街が、窓の外で輝いている。

 

 パリって、本当に円いんだ。

 

 思わず、呟いてしまった。

 

 そして同時に、自分がわずか数日前までその円の中にいたことを思い起こした。あのオレンジの点の一つ一つのどこかに、僕の歩いた通りがある。僕の泊まった宿がある。そして、宿番をつとめていた、艶のいい黒猫が佇んでいる。そう思った瞬間に、今目の前に見えている夜景が、急に高精細なものになったように感じられた。一度に全てを把握することはできなくても、あるとき急に全てが結びつくことがある。その感覚を掴んだような気がして、心の中に深い満足感が生まれた。

 

 サン・テグジュペリが言うように、僕がこの旅で目にしてきたものは、「廃墟の中に生き残るわずかな苔の程度」のものだったのかも知れない。それでも、ぽつりぽつりと花を咲かせる生命には、それぞれ固有の輝きがあった。もっと言えば、生命の一つ一つに、宇宙があった。

 

 僕は道路に、線路に欺かれたままロンドンに着いてしまったのかも知れない。でも、そんな欺きならば、いくらでも欺かれたっていい。

 

 その欺きにこそ、旅の価値があったんだ。

 

 イタリア時間で日付を跨いだ0時15分、アリタリア航空209便は40分遅れでドアオープンとなった。閑散とするローマ・フィウミチーノ空港で、ダヴィンチの人体図を模したオブジェが僕を迎え入れてくれた。旅は、まだ続く。

 

 ハイドパークの上を、雲がゆっくりと流れていく。

 雲間から、ひざしが差し込んでいる。それはガトウィック空港の蛍光灯よりも遥かに眩しかったが、しかし暖かくて、何よりも穏やかだった。

 芝生の青い匂いを胸いっぱいに吸い込む。清々しい。

 

 

 失意のうちにガトウィック空港を後にした僕は、再びロンドンの街中に戻ってきた。一度去ることを決めた街にズコズコと戻ってくるというのは、思った以上に間抜けで滑稽だ。ハイドパークでの昼寝を経て、前日にチェックアウトしたばかりのゲストハウスに戻ると、きのう名残を惜しんだ女性のスタッフが出迎えてくれた。

 

「もう帰ってきたの?どうして?」

 

 驚いた表情の中に笑顔が見えた。ちょっと嬉しい。

 

 僕が去っても、ロンドンでは変わらない日常が続いている。当然といえば当然だが、その事実に不思議な安心感を覚えた。

 「へんな旅、ここに極まれり。」自分が可笑しくなってきた。

 

 折れた心を無理やりテープで補修するように、帰りの計画を練り直した。幸運なことに、ちょうど翌日の夜にロンドンを経つ、アリタリア航空のローマ経由・関西空港行きのチケットを安く手に入れることができた。これで日本に帰れる。

 

 そして、せっかくロンドンに戻ったのだから、とチケットをもう一つ取った。ミュージカル「レ・ミゼラブル」のチケットだ。

 

 

 「レ・ミゼラブル」はフランスの文豪ヴィクトル・ユゴーが著した小説だが、ミュージカルはロンドンのウェストエンドから始まった。製作はキャメロン・マッキントッシュ、作曲はクロード・ミッシェル=シェーンベルグ、作詞はアラン・ブーブリル。2日前に観た「ミス・サイゴン」と同じだ。彼らは「レ・ミゼラブル」の成功を糧に、「ミス・サイゴン」に着手したという。

 

 もしかしたら、「ミス・サイゴン」を観たときのあの感慨を、「ライオンキング」では味わえなかったあの空気感を、もう一度味わえるかも知れない。そんな期待を持って、夕暮れのクイーンズ劇場に足を運んだ。

 

 が、その期待は思ったようには応えられなかった。開場とともに2階席についたが、その両隣の空席はついに開演まで埋まらなかった。

 両隣どころではない。僕の左側は、5席以上の空席が続いていた。夜公演とはいえ、週中の水曜日だからだろうか。静かな劇場の中で淡々と始まる公演は、前夜の「ライオンキング」と同じように、何千何百と繰り返されてきた公演の一つといった空気感で、「ミス・サイゴン」が特別なものだったということを、改めて実感させられることとなった。

 

 ただ、公演が終盤に近くにつれて、徐々に、「ミス・サイゴン」とは全く異なる形で、物語に惹きつけられていった。物語の中で語られる理不尽が、次々と胸に突き刺さってくるのである。

 

 あえて抽象的な言い方をするが、「レ・ミゼラブル」には、様々な対立軸が描かれている。生と死、罪と罰、法と正義、国家と民衆、親と子、友情と恋愛、若さと老い・・・。そして、その対立によって、理不尽な出来事が次々と起こる。まさに、「みじめさ」の連続なのだ。しかしその物語は、最後にして「みじめさ」の反対側にあるもの、「報い」によって幕を閉じる。

 

 思えばこの旅は、理不尽の連続だった。ビザが取れない。予約したはずの宿に入れない。ユーレイルパスは車掌のミスで1日分の効力が消える。飛行機には乗れない。返金もされない。自分のせいで招いた失敗も多いが、思うようにいかないことの連続だった。ここまで、自分の「みじめさ」を痛感する旅を、今までしたことがなかった。

 

 それでも、この「みじめさ」も、いずれ報われる時がきっと来る。ラストシーンのジャン・バルジャンを見て、その思いは確信に変わっていった。ちゃんと日本に帰ろう。そして、必ずまたロンドンに帰ってきてやろう。いつか、果たせなかった帰りの旅を実現させよう。

 気づくと、頬を涙がつたっていた。でも、その涙は今朝ガトウィック空港の蛍光灯を滲ませたものとは、全く異なるものだった。

 

 宿に戻る帰り道、パブでギネスビールをあおってから、場末の食堂に立ち寄ってフィッシュアンドチップスにかじり付いた。外では中東系の移民と思われる人々が、もくもくと水タバコを燻らせている。フィッシュアンドチップスは、古い油を使っているのか、妙にギトギトしていた。

 

 フィッシュアンドチップス、美味しくないけど、美味しかった。

 

 

 ガトウィック空港のロビーは、夜更を迎えてもなお明るい。

 

 昼光色の蛍光灯が煌々と、硬いベンチを照らしている。

 

 僕はバックパックを抱え込んで、電源ポートの付いたデスクに突っ伏していた。チェックインの始まる午前4時には、まだ遠い。

 

 「お前はどこへ行くのか?」

 彫りの深い男が声をかけてきた。酒に酔っているのか、頬がうっすらと赤い。

 

 「日本。」

 正直、こういう人と関わってろくなことはない。一言答えて不貞寝しようとすると、男は話を続けてけてきた。

 

 「日本か!それはいい!日本は素晴らしい!それに引き換え中国はダメだ。間違いない。俺は地理学者だから分かる。中国はダメだ。」

 

 もし、ここで僕が迂闊に「これから香港に飛んで、上海経由で日本に帰る。」などと答えていたら、どうなっていたのだろうか。

 

 「そう、中国はダメだ。なぜ分かるかって?俺は地理学者だからだ。」

 

 男は一方的に話を続ける。しかし何なんだ、この偏見に満ちた言葉は。少なくとも、地理学者ならば、こういった非科学的な偏見は最初に自ら排除すべきではないのか?そもそも、この男は本当に地理学者なのか?

 

 時計の進み方が、尚更遅くなったように感じられた。

 

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 帰国の手筈はこうだ。まずロンドンのガトウィック空港から、格安航空のイージージェットでモスクワへ飛ぶ。ロシアのビザは持っていないが、アエロフロートのウェブサイトに、「乗り継ぎのみならばビザは不要」と書かれていた。モスクワで香港行きに乗り継ぎ、香港へ。そこで数日滞在してから、深圳に渡って高速鉄道で上海に移り、そこから既に予約していたフェリーで大阪に入る。

 

 やっと自称「地理学者」の男が去って、スマートフォンで香港の地図のスクリーンショットを撮った。時計が午前4時を指す。退屈な授業が終わった後のような気怠さと、重いバックパックを背負ってチェックインカウンターに向かった。

 

 派手なオレンジ色のジャケットを羽織った係員にeチケットとパスポートを差し出す。

 「モスクワ経由で香港まで。」

 係員が慣れた手つきでパスポートを開き始めた。その時、事件は起こった。

 「ロシアビザは?」

 いや、持っていない。乗り継ぎのみならばビザは不要なのではないのか?

 「ロシアビザが無いならば、モスクワでは乗り継げない。飛行機には乗せられない。」

 それは話が違うではないか。

 必死で食い下がったが、係員は「乗せられない」の一点張りだ。

 ここでアエロフロートの話を持ち出してみる。しかし、

 「アエロフロートはアエロフロート。うちは関係ない。」

 

 結果的に、なけなしのお金で取った香港までのチケットを、キャンセルせざるを得ないことになってしまった。

 

 しかも、事件はこれだけでは済まなかった。キャンセルしたチケットのお金が返金されているか、チケットを取った予約サイトを確認すると、どうも返金されていないのだ。理由を確認しようとSkype通話を繋ぐと、オペレーターは事務的な口調で話し始めた。

 「チェックインカウンターでキャンセルした予約は、すでに予約サイトの手を離れているので、こちらで処理することができません。よって返金することは不可能です。」

 

 香港までのチケットは、なけなしの予算から捻出した7万円。それが吹き飛んでしまった。

 

 さらに事件は続く。スマートフォンのメールを確認すると、そこには上海から大阪に渡るフェリー会社からのメールが届いていた。

 

 「上海で大規模な国際会議が開催されるため、警備上の都合でフェリーは欠航となりました。」

 

 おい・・・・。

 

 自称地理学者が話していた、中国が、日本が、一気に遠ざかっていく。

 もはや、どちらも良い国でも悪い国でもない。地の果ての遠い国になってしまった。

 

 空港の大きい窓ガラスが朝焼けに染まる。

 疲れと眠気が、どっと押し寄せてくる。  

 

 ベンチに仰向けなり、この旅で初めて実家の母親に電話を掛けた。

 「ロンドンまで行けたことがすごい。お金のことは、心配しないでいい。無事に帰ってこれれば、それで良いよ。」


 

 

 

 ガトウィック空港のロビーは、夜明けを迎えてもなお明るい。

 

 煌々とする昼光色の蛍光灯が、滲んで見えた。