部屋の片付け終わり!

でも正直まだ思い出でとっておいてあるものがあると分かっている。ぬいぐるみとかって全然捨てられない。故人にもらったものとかだと余計に。


健太郎へ

オープニング楽しすぎる

本郷くん、健太郎すぎるだろう。健太郎の平場がなにかと言われたら分からないけど、あるあるを言っておもしろくなるのがそれだとしたらもう本郷くんずっと居てくださいと思う。しらすさんと本郷くんで喋ってみてほしい。

牛女さんがネタ出来てない(作ってない)話題でしらすさんが喋り始めた時なんか神の時間始まったと思ってほんとうに嬉しすぎました😭薬とか精神の状態とかそれ故の台本がまだないことへの気持ちとかをちゃんとトークの表に乗せるこの牛女さんの感じをわたしが楽しいと感じられたのは健太郎と過ごした時間の成果だよね…ドキドキあなたとネまで見て退出(22:14)


ガイ?がお題について何か言って本郷くんも自分の出る月の健太郎だけお題難しくされて技量やセンスを試されてるんじゃないかみたいなこと言ってて、それを聞いたしらすさんが健太郎のお題のフェアさについて喋った。ここでしらすさん喋るのもう私たちの脳の中のルートにあるじゃん、今月もそれが楽しくて嬉しくて…

でもこれなんで嬉しいんだろう?過去に体験したことにより次の瞬間という未来に何が起こるか予想出来てその予想通りのことが起きるってなんで嬉しいんだろう?って前も考えてメモしてたんだけど、その時は「こよがこの後これ言うだろうなと予想してそれ通りのことを言った時なぜおもしろいか、なぜ楽しいか、なぜ満足か」というのが疑問で。だって私がタワーのネタを見て楽しいと思う理由の一つに予想もつかないことが起こるからというのがあって、私の中にシナリオとして無いもの、見たことないものだからその裏切りがおもしろくて、知らない世界を見せてくれてありがとうと思うのに、なぜ知っていて予想できることも同様におもしろいと感じるのか?

思考の端っこに置いておいてうっすら日々考えた結果答えとして出たのは、「血管を血液が通るのを目で見たり触れたりして確かめたいという欲求と同じ」類なのかな!?

知識として血管を血液が循環してるのは知っているけど、小さい時わざと指に紐とかゴムとか巻いて鬱血させてそれを解放させて止まっていたものが流れ出す感覚を確かめたりしていたし、今もなんの目的も意味もなく指で手首を押えて脈を測ったりするし、心臓を触ってみたりするし、やってみたらどうなるか分かってるけど分かってるからこそ自身の恒常性が保たれているのを認識するのが心地良くて安心する。自分の好きな人、おもしろいと思っている人が、変わらずに同じ状態のまま存在してくれていることの認識が出来るから心地いいのかな?とか考えました