太浦綱のブログ -10ページ目

太浦綱のブログ

ブログの説明を入力します。

科学はなにかを観察し、考察し、発表する知の体系だ。これって、科学はかならずなんらかの行為としてぼくたちに意識されてるってことなのだ。
いっぽうで、そういった科学上の行為の観察は、ぼくたちがふだんあまり意識していないことだ。スタップ細胞にかかわるゴシップがマスコミ上に突出したのも、ぼくたちが科学にまつわる行為の観察ということを、ずっとなおざりにしてきた代償ともいえるだろう。
これを、ヘーゲル的にどう考えるか、ということは、はっきり言えないけれど、捕鰻論的にのらくらかわす身振りの一環として言えば、ルーマンの社会システム論の観点が、ヘーゲルの意図を後期近代にあって継承しているのではないか、と大言壮語したい、そういう気分だ。
ルーマンは、社会システムの基礎にはコミュニケーションがあると考えるけれど、近代の社会のなかには、行為することと観察することの強力な分化があって、それが近代社会のコミュニケーションを「自己観察についてのコミュニケーション」を含むものとして規定しているとする。
これって、科学が社会における基礎学として立とうとするならば、社会の自己観察としての機能を持たねばならないということで、顕微鏡で覗き込むその目線の先になぜか社会がある、という、どこか『エンチュクロペディー』的構想の計画になっている。
にもかかわらず、科学は相変わらず「予算を取って、研究して、学会で発表する」という、行為中心のイメージで見られているし、科学者の自己理解も同様なのではないか。
そこでこの場を借りて言いたい放題提言したいのは、「観察としての科学」というイメージを持ってみましょう。具体的には、あなたのその論文に引用をつけなさい。引用がそのフィールドのなかで、どういう構想の系列の末端につながっているか、ちょっと意識してみましょう。ということです。太浦綱でした。