この際ですから、「汝の敵を愛せよ」についても考えます。
当然ながら、、「汝の敵を愛せよ」は、どう考えても性善説に立った言葉ですよね。
ここで、宇宙は私だけのモノではなく、Bさんのモノでもある、と仮定します。
つまり、同一宇宙に複数の主観がある、という概念です。
Bさんは、私が大嫌いな人物であり、そして今まさに危篤状態にあります。
それから、私は性善説に立ち、Bさんは性悪説に立っています。
こうした宇宙内において、私がBさんに対し、「汝の敵を愛せよ」を実践すべく、Bさんの健康回復を強く願ったと仮定しましょう。
強く願う時に、悔し涙を流しながらでも良いでしょう。
その方が人間らしい真実がありますよね。
しかし、性悪説の権化であるBさんに、私の高潔な願いなど通じるはずがありません。
顔だけ笑って、その実、心の中では見事に拒絶しました。
私の願いも通じないでしょうね。
結局、私の一人相撲で、Bさんは、独り善がりに亡くなっちゃいました。
このケースで、私に何の利益が有るか?です。
もし有るとすれば、それは、私の願いが宇宙の構成物質の一つになることではないでしょうか。
構成物質の一つになるとは、宇宙に同化することです。
因果律イコール私の宇宙では、何処かに私が存在する限り、何かしらの痕跡も永遠に存在するはずです。
時として、我々が自らの善行に対して恍惚となれるのも、こんな宇宙同化のプロセスに酔えるからではないでしょうか。
逆も有り、と思います。
自らの悪行に対して酔える悪魔の宇宙も可能だからです。