まずこの話をする前の仮定として。


賢さが遺伝するということにします。


賢い親の子どもは、遺伝して賢いということです。





よく見る高学歴の親。


「東大京大卒です」



すごいですよね。

すごく頭が賢そうです。



「自分は頑張ったから、ここまで出来たんだ。子どもも頑張れば出来るんだ」



そうやって我が子に自分ができたのだからと同様の勉強を求めて努力させていく過程はよく見ます。


そして、それで子どもの成績がそれほど良くなく、発狂している高学歴親も多く見かけます。



ここで賢さが遺伝するとするなら、子どもが賢くないなら親が賢くないということになります。



自分は高学歴だから、高学歴ではない夫、妻のが遺伝したからだ!と主張する人もいるかもしれませんが、そうではないでしょう。



単に、高学歴の親が馬鹿なだけです。


馬鹿の子だから、馬鹿なだけなのです。




高学歴なのに馬鹿とはどういうこと?


高学歴の人の合格体験談を聞いてみれば分かりやすいでしょう。


難関中学に入り、中高一貫の6年間を毎日塾に通いつつ必死に勉強して東大京大に合格したっていうのが多いのではないでしょうか?

たくさんの努力をして合格するなんて素晴らしい、そんな体験談ばかりです。


だからか、努力したから今の自分があると誇ってる高学歴の親もおられます。



それって本当に賢いのでしょうか?


たくさんの努力をして頑張って難関大学に入れたというと、美談のように聞こえます。

努力が実って良かった良かったと。


ですけど、それだけの努力をしたと言うことは、それだけの努力が必要だったとも言えます。


それだけの努力をしないと目指せない程度の賢さとも言えるのです。

1日何時間もの勉強を6年間もやっておきながら、東大京大にやっと入れた程度の頭を「賢い」と表現しているわけです。



確かに東大京大に合格した以上は「賢い」のでしょう。

でも、いわゆる「天才」というような賢さではありません。


芦屋市長の合格体験談を読まれた方も多いかと思いますが、東大の過去問を受験数日前にこなして余裕と思うようなレベルだと、自らのことを思えるような高学歴の親は少ないことでしょう。



たくさんの勉強を積み重ねた努力型の賢さ。


これが多くの高学歴の親の正体なんだと思います。



多くの高学歴の親は自分のことを「賢い」と思い込んでますけど、実際はたくさん努力しないと合格できなかった程度の凡人なんです。

基本的なスペックの上に魔改造されたものを載っけていったようなものですから、根本にあるものは多くの人と変わらない。


つまり、特別に賢いわけではないのです。



仮に賢さが遺伝すると言うなら、賢くない親の子どもになるわけですから、子どもも賢くなりません。

「高学歴だから賢い」という前提を無くせば、親が馬鹿だから子も馬鹿だとも言えることになるわけです。



これが高学歴の親の子どもは馬鹿だということになります。






実際は環境要因など多種多様な要素も加わってくるわけで、一概に賢さは遺伝で決まるとは言えるわけではありません。


高学歴の親であれば、子どもに与える学習環境にはこだわります。

それに触れる機会が多ければ多いほど、得意になる子どもたちは増える傾向にあります。


それを見て、賢さは遺伝すると考える人がいてもおかしくはないでしょう。



ただ、賢さは遺伝なのだと言うほど、高学歴の親は賢くないというのが本当のところなのではないかと思います。


たまたま勉強をすることに大きな抵抗がなく、たまたまそれを積み重ねることが出来ただけの人。

それを才能だと言う人もいますが、それはその才能だけであって、賢さではありません。



世間一般では「高学歴=賢い」が成り立っているため、高学歴の親は自分を賢いと思いがちになっています。


「自分は賢い」、それを支えたのは努力という成功体験。

そして「高学歴は凄い」という自己肯定感。


高学歴の親自身が高学歴を成功体験として認識してるため、それが親のアイデンティティとして組み込まれています。

そうなると自分の成功体験を子どもにもと思いがちになり、過剰な教育干渉を行なってしまうのです。





高学歴は賢さではありません。


自分はたまたま勉強が上手くいった高学歴なだけの凡人。


親と子どもは全くの別人ではありますけど、凡人の子どもは凡人だと思うことも大切なことのように思います。




結果的に中学受験とは中学校の先取りをしてるという話をしました。




出題する側も深みに触れないようにして表面部分をこねくり回すガラパゴス的な問題を出すよりも、自らの本業たる確立された今後学ぶべき範囲から問題を作る方が楽なわけですし、学校側も欲しい人材は中学校、高校で結果を出せる子なわけです。


数学、理科、社会。

中学校の問題集を見てみたら、どこかで見たことがあるような問題ばかり。

そういうことで学校側の都合からも結果的に先取りとなってしまうのです。


ただそれだけでなく、できない子ども側から見ても先取り教育は有利です。




できないからこそ早めに概念に触れておく。



できないという理由の一つに「何が何だか分からない」というものがあります。


ベクトルや虚数、微分積分を初見で理解できた方はそうはいないと思います。

初めての概念であり、なんのこっちゃと思いながら、そついうものだと問題をこなしながら理解していったというところでしょう。


「基礎を固める」の基礎とはこの概念的なものを把握するという意味合いがあるように感じます。

基礎問題をいくらこなしたところで身につかないのはそのためで、概念的なものを理解していなければちゃんとした基礎を作れない。

概念をいかに身につけるかが、基礎を理解するということになります。


その時は理解できなくても、時間が経ってからこういうものだったのかと理解できて簡単だと思えてしまうのは、そういうものだと概念が出来上がるからではないでしょうか。



それならば、できない子ほど早目に新しいことに触れさせておいた方が、概念として定着する可能性があります。


こういうことを今後学ぶけれど、別に難しくないよ、と。

こう考えれば出来るよね。


概念だけでいいので、本格的ではなく触りだけでいいのだと思います。

子どもに「難しい」と思わせないよう、簡単なところだけで。



そうすれば、どんどんと新しいことを学ばないといけなくなったときに、全てを知らないことと思わずに済みます。

何処かで聞いたことがあるよと。


できない子ほどそういうものを多く作っておく方が得なような気がします。






できる量は限られている



できない人間が出来るようになるにはどうすればいいでしょうか?


それに対する多くの人の答えは、「たくさん努力すること」というものになるのでしょう。


だから親は成績を上げるためにとたくさんの勉強を子に求めていきます。

たくさんの努力が出来るに繋がるからと。



でもですね、そこまでたくさんの努力が必要だと分かっている出来ない子に、どうして中学受験の勉強をさせようとするのでしょうか?


同じ時間、同じ勉強量で賢い子とできない子が戦えば勝てるわけがないのは明白です。

それならばと更なる勉強量を、努力を求めますが、それでも出来るようにならない、我が子は頭が悪いんだと嘆き出す。



頭が悪いと認めたのなら、不要な勉強をさせる意味がないんです。

中学校で必ず学ぶことになる、必要な勉強をさせればいいんです。


できない子が出来るようになるためには、たくさんの努力、数をこなせと言ってるのに、どうして中学校の先取りをさせようとしないのでしょうか?

皆が中学受験の勉強をしている間に、中学校の範囲を先にやっておく。

中学校に入ったときには、他の子達より多くの勉強をこなしたことになります。

中学校では少なくとも周りよりも倍の勉強をしてきたことになるのですから、出来ることが増えています。



我が子はできないと認めているのに、なぜ無駄に中学受験に貴重なリソースを消費してしまうのでしょうか?


できないと認めたのなら、中学校で苦労させないためにそちらを優先すれば中学校では出来る子になっているかもしれないじゃないですか?






まずは一本、筋の通った考え方を



今更ですが、方程式とはなんて万能な考え方なんでしょう。


例えば、こんな問題をどう考えますか?



線路沿いを時速4kmで歩くと、ある電車が追い抜いていくのに8秒かかりました。
時速24kmで走ると、同じ電車が追い抜くのに10秒かかりました。

電車の速さはいくらでしょうか?




賢い子は差集め算を使えばいいとなるでしょう。

でも、できない子は速さの問題?旅人算??となり迷ってしまうのです。


そんな子に差集め算だよと伝えたところで使えるようにはなりません。

何を集めたらいいのかも分からないし、出来たところで汎用性を持って使えるようにはならないものです。



ですが、数学を修めて方程式を使えるようになるとどうでしょうか?


とりあえず求める電車の速度をVと置きましょう。

すると、速さ×時間が距離だからと式を作っていくことになります。

速さが何か、時間が何かと考えて、求められる距離が電車の長さなのかと気がつけば、後は簡単に解けていけることでしょう。



一々そういうような思考過程に時間をかけることを勿体ないとして、塾関係者は特殊算を習得すべきだと言います。

賢い子たちの世界はそうなのでしょう。


でも、できない子たちはそんな特殊算を覚えるよりも、中学数学の考え方、思考法を学んだ方がいいんです。

その学びは中学で必ず学ばないといけない学びだから。

つまり、誰もが出来る考え方なんです。


特殊算を活用することに悩むくらいなら、基本に忠実にとして考えればいい。


「はじき」ではないですが、速さに時間をかけると距離となるという基本と、分からないものは分からないものとして式を作るという基本。

中学校では当たり前として必要とされる内容です。



そういう考え方を持って先ほどの例題みたいな問題を考えれば、理解できない特殊算をいくつも覚えるよりも、より分かりやすく使いこなせる道具として使えるはずです。


使い方が分からない道具をたくさん揃えるよりも、使いこなせる多くのものに使える道具を一つ持つこと。

どこの世界でも、初心者や素人はそうやって上手くなっていくものです。



よく分からないまま応用のきかないやり方を覚えるくらいなら、その後も使えるし使えないといけないやり方を覚えておいた方がいい。

特にできない子とするのなら、尚更のこと器用貧乏としない方がいいはずです。





出来るということが出来るということに繋がる。



こうして事前に中学校の範囲を学んでおけば、中学生になったときには他の子たちよりも出来るようになっていることでしょう。


そして、この「他の子たちよりも出来ている」ということが、出来ない子にとっての救いになります。



できない子は今まで「出来ない」と言われ続けており、出来ないということに慣れきってしまい、問題が解けなくてもいいんだと諦めるのが当たり前になってしまっています。

それが突然、「出来る」という人たちの中に入ります。



「自分は出来る人間なんだ」


その自信が出来るという気持ちを更に出来るんだと高めていきます。


難しい問題で多くが解けない問題、今までならすぐに諦めていた問題であっても取り組もうとする。



出来ない子が出来るようになる変換点となるわけです。




皆と同じように足並みを揃えていてはこの変換点は起きえません。

「出来ない子」なのですから、皆と同じことしていては同じこと以下しか出来ないのですから。

そのために皆が手を付けない間に、先取りをさせておくしかないのです。



また「皆が手を付けていない」ということ自体が自信に繋がることもあります。

皆が知らないこと、中学校のこと、難しいことを知っているんだということが、自分の唯一性を高めることができるからです。



「出来るは出来るに繋がっていく」


出来ない子を出来るようにするにも、先取り教育は有用だと考えます。












肯定的な面のみ書きましたが、当然悪い点もあります。



みんながやらないということは「やらなくてもいいこと」と思って、そもそもやらないこと。


難しいからと思い込んで、分かろうとしないこと。


さっぱり理解できずに勉強が嫌いになること、などなど。



ただこれらの悪い点は、そもそも中学受験を志すのなら当たり前のようにある壁です。


出来ないと我が子を決めつけてまで中学受験をさせる意味があるのかは考えてもいいかと思います。


出来ない子ほど、先取り教育を。







中学校の範囲を学べば学ぶほど、出来ない子ほど先取り教育の必要性を感じます。


中学受験なんかにかまけている暇なんかありません。


まずは中学範囲を理解する。

全てはそこからです。


中学の内容が理解できないような子は、そもそも中学受験のスタートラインにも立てないのですから。





中学校の内容は難しくない



先取り教育の問題として、中学の難しい内容を理解できるのか?

ということがあると思います。


小学生なのに中学生の内容を理解することは大変なことです。

私自身も小6のときに方程式にチャレンジしましたが、見事玉砕しています。


何を言っているか分からない。

それで終わってしまったものです。



ですが、この程度で終わってしまっては、中学受験では全く歯が立ちません。


入試問題に出てくる最初の計算なんて、xが□に変わっているだけですからね。

方程式を解けを問うてきているわけです。


当然、塾ではこういった問題の解き方を教えることになるわけですが、方程式の解き方としてではなく、こういうときはカッコの中を一塊と見て云々かんぬん。


方程式の解き方でいいじゃん。



確かに大局的にみるようなセンス的なものがあるのは大切なことだと思いますけど、そのセンスがなくても確実に解けるようになる方が向いてる子どもだっていますよ。

一々、塾のやり方で習うより、全国の出来ない中学生全てが理解できるようにと作られた義務教育のカリキュラムでいいじゃないですか?

どうしてそれを方程式を解くようにやらせず、わざわざ遠回りさせるようにして考えさせようとするのでしょうか?



そもそも、馬鹿でも解けるようになるやり方を教えてくれるというのが義務教育です。

分からなくても良いものではなく、全ての国民が知っておくべき教養として義務に組み込まれているものです。


この程度、知っていて当然。

そういう扱いのものです。



ですので、中学校で学ぶ内容というのはそれほど難しくないものです。

あくまでも小学校の延長のものであり、下積みとなるものでしかありません。


理科、社会の範囲なんて中学受験の勉強をしっかりしていれば、何も勉強いらずのただの延長のものとして受け入れることが容易なことでしょう。




一方、中学受験はドエリートの塊。


小学校の内容では足らず、その先の深みを平気で問うてくる世界です。

馬鹿はそもそもその戦いに参加してはならない。

賢い奴らの中での上澄み決定戦が中学受験となります。



そんな世界の住民が、馬鹿でも分かるように作られた内容を理解できないと?


中学受験にのぞもうとしているだけの能力があるのなら、中学校の内容は理解できて当然です。



「10mの高さから降りたら日の出が2回見られるけど、何秒遅れで見られる?」とか、小学生が解くような問題ではありません。


中学校の知識を用いても太刀打ちできない、そんなレベルの勉強を要求されているのが中学受験です。




中学校の内容を難しいと思うなら、中学受験は止めた方が無難と思えるほどに過酷でしょう。






中学範囲は中学受験に繋がっている



中学校で扱う問題を見てみましょう。



どこかで見たことがあるような形です。


高校入試に向けた問題の一つとして問題集に記載されています。

難易度としては特別難しくないものですから、ほとんどの中学生が解けるようになろうというレベルですね。

中学受験を経験してきた人たちなら余裕で答えられるかと思います。


中学受験で学んだものが中学校でも使えており、学んだ成果でもあります。



でもですね、これって中学校の範囲の先取りを勉強していたと言えませんか?


何処かで見たことがある問題が多いということは、本来は中学で学ぶべきことを先取りで学んでいたからこそ、何処かで見たことがあるとなるわけです。


「先取りは悪だ」と否定的な意見をよく目にしますが、やってることは先取りです。



と言うよりも、結果的に先取りになってしまっています。




小学校の範囲は基礎としての導入部分であり、中学校でその発展形を学ぶ形となっているとすると、小学校6年間という基礎だけの部分だけ、本当に学校で習う義務教育の範囲だけでは狭すぎて問題が簡単なものしか作りようがありません。


出題範囲が小学校の範囲では足りないなら、どこから持ってくるのか?となると、その発展型である中学校の範囲から持ってくることになります。


9年間の範囲と考えると問題も作りやすくなります。

中学校で問われるような問題の中でも、これは頭を使えば小学生でも解けるだろうという問題を見つけては入試問題にすることも多いのです


「水素2Lと酸素1Lを燃やすと水が出来ました。水素2Lと酸素2Lを燃やすとどうなりますか?」なんてものは、小学校の範囲外です。

範囲外ですが中学校では当たり前のことであり、条件さえ理解できていればこの程度は答えて欲しいという出題者の意図があるのでしょう。







問題作成者の目的は何か



そもそもです、誰が試験問題を作成するのかです。


多くはその中学校の先生が作成しているのではないでしょうか?


中学校の先生の専門は中学校です。

小学校ではありません。


中学校の内容を面白く生徒に伝えられるかというのが本業なのです。



そんな中学校の先生が出題するのなら、わざわざ小学校のレベルで一から考えて作り出すよりも、自分が慣れ親しんでいる内容の中から小学生でも答えられる内容を選んで作る方が作りやすいというものです。


こういう内容だったら解けるかな?

こういう内容くらいは解けてほしいかな?


自分が問題を作る側だったら、そういった想いを込めて作成すると思いませんか?


中学生になった子どもたちを教育していくのなら、この程度は理解してくれていた方が授業がしやすいとか、こんな問題解けるとは思えないけど解ける子がいると面白いなとか。


「江戸幕府の鎖国下において、出島だけが開かれていたのは何故か?」みたいな問題は、そういう面白い子が欲しいんだというのが伝わってきますよね。

中学校の先生が「これからこんなことを学ぶけど、君はどう考えてる?先生と語り合える?」というのを期待している、そんなメッセージなんだと思います。


小学校の範囲しか学んでないので知りませんでは、返事をするには足りませんよね。

中学校で習うであろう範囲は当然知っていますが、先生はどうお考えですか?


それを望んでいるとまでは言いませんが、そういう気持ちを持って問題を作っているような先生はおられると思います。



色んな学校の入試問題を解いていると、なんとなくですがこの学校はこういう子どもが欲しいんだなとわかる、テストと会話できるようなものを感じるときがあります。




進学校が求めるもの



入試問題に問題作成者個人の意図が反映されることを考えてみましたが、個人だけでなく学校自体の意図も強く反映されます。

特に進学校ほど、賢い子どもが欲しいというものが顕著になります。


少子化もあってお客である子どもたちをいかに囲い込むのかというのが、学校経営における重点課題となっているからでしょう。

そこで進学校化することでお客を確保して安定経営化するというのは昨今の流行りのように感じます。



進学校化するために一番重要なことは大学進学実績です。


東大、京大、医学部。

そんな難関校のネームバリューを連ねて人気校とする。


そのためにどうすればいいか?

優秀な子を集められればいいでしょうが、そこまで名前が売れていないのなら優秀な子は他に取られてしまいますからね。

自前で育てていくことになります。


そんなときにある程度、中学校の勉強を理解できている子どもだったら育てるのも楽ではありませんか?

教える方は全員を何も知らない子として扱って一から教える必要はなく、知っているものとしてどんどん話を進めていくことができます。



ドップラー効果を説明するために、ベルトコンベアとライン工を用いる入試問題を出すところもあります。

いくら導入部分があるとは言え、波長や周波数などの波の性質も知らない小学生が初見で理解できるとは思えません。

救急車の音の高低がなぜ起こるのかを考えたことがあるという経験か、それ相応の知識を持っていなければ、問題を理解することもできないでしょう。


ですが、そういう問題を理解できるような子どもたちを求める。

難関大学への進学実践を築き上げるために、中高での授業に適応できるそういう知識を持っている子たちを欲しがるわけです。




中学受験の行き着く先は、中学高校全ての範囲を含む試験となるのかもしれません。

その方が大学入試にも適してますし、抜群の進学実績も叩き出せますからね。









長くなりそうですので、続きは次回に。


次は子どもにとっての先取り教育の利点についてを書く予定です。








中身がなく、ただ頑張ったことを褒め称えること。




私が嫌いな風習の一つです。


バカな体育会系の遺産とでも言いましょうか。

全力を尽くしてやれば悔いなんかない、みたいな。



別に本人が悔いなくやりきって満足してればそれはそれでいいんです。


本人のお気持ちを否定したいわけではないですし。

実際それで満足しているのならいいんじゃないでしょうか?

だって第三者の私にはそれがどのようなものか分かりませんから。


「ふーん、良かったですね」としか言いようがないです。



でもですね、満足しない人だっていますよね。


もう少しで勝てたのに勝てなかったとか、結果的に良かったけれどやっぱり納得いかずに悔やみ続けているという人だっている。


いろんな人がいるのだから、そんな人もいます。



なのに、この体育会系のバカの遺産は、「全力を尽くせばいい」ということを強要してくるんです。


体を動かす程度の気持ちでやってる部活動。
なのに全てを犠牲にしてまでやることがカッコいいことだろと無言の圧力をかけてくる。


別に全国制覇も大会優勝も考えてないのに、ただ努力だけを求めてくる。

本気で優勝を目指すなら自分たちに何が足りないのか、何をすれば上手くなれるのか、限られた時間をどう使えばいいのかを考えて練習する必要があるのに、それよりも「努力の数」だけを求めてくる。


大会の後は毎回反省会と称して、練習不足ですと言わせ、最後の大会の後は「頑張ったので悔いはありません、いい経験でした」と言わせるのです。



誰もそれに異議を申し立てることが出来ません。


だって、「全力を尽くす」ということを口にすることは悪いことではないですから。


全力を尽くしませんでした。

悪い結果でした。

全力を尽くさなかった奴が悪い。


という構図が成り立ちますからね。

全力を尽くしてなくとも、全力だったと言わざるを得ない。


その上で、「悔いがあった」と言うと、場の空気が淀むのです。

各人の頑張りを否定してはいけないからと、「自分はやりきって満足だ」とアピールします。


全力を出さなかった奴を許さない空気がそこにあるのです。



ちなみに、そこまで本気になってなかったからこそ、「悔いがない」とも言いやすいというのがあります。


本当の本気で勝ちにいって負けたのなら、なおさらに悔やむことが多いのです。

あの時ああしておけば、こうしておけば。

本気だからこそ悔やむ。


「全力を出しきったからこそ、悔しい」


それが認められない体育会系のバカの遺産ですね。






で、それが中学受験にどう関係するのか?ってことです。


結果を残せなくても頑張った過程が大切なんだというのをよく聞きます。


悔いの有無はさて置いて、子どもに全力を尽くさせる経験をさせられたのなら、それでいいんだって。

今後、大人になって全力を出して何かを頑張ったという経験は役に立つからと。



よく中学受験の親が言ってる言葉なのかなと思います。




でも、これって親の自己満足に過ぎないんですよ。



どうして全力を尽くさないといけないのか?


子どもにはその動機が全くないのです。



全力を尽くすだけの価値が全く見えない。

どうして大好きなゲームを犠牲にしてまで勉強しないといけないのか。

全く分かりません。



それなのに全力を尽くせ尽くせと言われ続ける。


睡眠時間も削って眠気に耐える毎日を強制されて。

成績が悪いと怒られて。


最終的に入試がうまくいかなかったら、よく頑張ったねと優しくなる。


…DVのやり口ですやん。



その上で「全力を出しました」と言わされて、勝手に満足してるのです。

別に全力を出さなくとも、志望校以上の高偏差値の学校に合格出来てたら、それで満足してるでしょ?



これが親の言うところの「全力を出すという経験」てやつです。


体を動かすつもりで入った部活動で、温度差を感じながら、たださせられている無駄な努力ってやつですよ。

子ども本人はそこまでやる気ないのに、努力だー、限界まで出し切れーとか言われている。

周りが勝手に熱くなって盛り上がっており、頑張りを強制され、それを否定することさえ許されないという。



そういう意味では「全力で応援」とか「全力でサポート」とかいう言葉も薄ら寒いものになりますね。


子ども本人とは関係ないところで勝手に盛り上がってる。



そこまで勉強したくないという本音を許さない環境
です。





では、子どもが全力を出すにはどうするか?


そんなこと子どもに聞いてください。



軽い気持ちで部活動を始めたら、本気で優勝を目指すために頑張れ!と言われている状況ですから。

本気で優勝を目指してないのに、全力なんて出せるかって話です。

とりあえず、やってる姿勢は見せるけど、本人は別にそこまでを求めてるわけではないですからね。


全力なんて出すわけないじゃないですか。




逆に、好きなことや、やりたいと思ったこと、やって当然だと思うことには全力を出せる。

難関中学に合格できた人たちは皆さん、そんな方が多いように感じます。


頑張れるのには頑張れるだけの動機がある。


勉強するのが好きだったり、賢くありたいというプライドであったり、必要なことだと割り切っていたり。

特に勉強を必要なことだと割り切る感性は、それこそ中学受験に必要な早熟という概念に近いものに感じます。



こういったものがないのに、ただ「全力を尽くせ」ということを求められるのは、まさに自分が毛嫌いしていた体育会系のバカの遺産というやつそのものなんだろうと思えます。




「全力を出せて良かった」


それが言えるのは子ども本人だけです。

子どもが自ら全力を出した上なら素晴らしい体験なのでしょうが、親が望んだ結果としてなら体育会系の遺産にしかならないでしょう。




こうして考えると、子どもにたくさん勉強をしなさいと言う行為が、いかに無駄だったのかと気が付かされます。


やりたいと本気で思っていない人間に、全力を尽くさせても仕方ないのですね。

自発的にならないから本気にはなり得ず、やらされてるだけになってしまう。


やりたかったら、自分から勝手にやるものだと。


親ができることは場所と物の提供くらいなのでしょう。

子どもは勝手に育っている。



体育会系のバカの遺産と見下していたわけですけど、結局自分自身がそれそのもので、頭使わずに精神論や強制を行っていたんだなと反省するばかりです。







中学受験は先取りですね。






そう考えて以降、中学校の過去問を解くたびに痛感します。


方程式は悪だとばかりに言われているのを多く目にしますが、入試問題お決まりの計算問題は方程式の解法そのものです。

xか□かの違いだけで、やってることは一緒です。


特殊算にも対応できて、それで大体解けます。

速さの問題もなんのその。

難しそうな問題でも丁寧に考えていけば何とかなるものです。



それでも、特殊算なら簡単に解けて時間がかからないから、方程式を使うなと塾の先生が言うのを聞きます。


それっておかしいんですよ。

だって、数学は解法をいくつも手にしていることが有利となる学問ですから。

別解を導けないことは駄目なことだと散々言われたものです。


つまり、解法の一つとして中学数学を得ていることは何も悪いことではないはずなのです。

むしろ利点だらけでしょう。



方程式といった式をしっかり立てさせることで、自分は何を求めたいのかを理解する訓練にもなります。


文章を読みこなし、式を作る。

これはあらゆる問題を解くための基本です。

特殊算の解き方が分からなくとも、速さなら速さの、濃度なら濃度の定義に基づいて式を立てていけば解ける問題も多くなります。


もちろん特殊算で解く方がいいケースも多いでしょう。

ですが、方程式と物事の定義の基本的なことだけで解けるというのは、難しい問題を解く際のとっかかりにもなります。

そこから色々な特殊算に繋げていくということもできるでしょう。



何より、あまり出来ないと言われている子どもほど、中学数学なんです。


方程式や定義といった基本をしっかりするべきなんです。

速さなら速さで、その定義をしっかり理解し、一つ一つ丁寧に読み解ければそれだけで解けるということを体感させるべきなんです。


たくさんの速さに関する特殊算をいきなり覚えなさいと言われたところで理解できません。

それならば基本の基本をしっかり理解し、それで式を作ることができるようになっている方がよほどその子の身になっています。


なにより、そこで学んだことがそのまま中学生になっても使えてしまう。

どうせ出来ないと決めつけるのなら、その先で役立つことを学ばせておく方が遥かに身になると思うのですがね。


中学三年分を小学生が学ぶなんて大変なことをさせる必要があるのかという意見もありますが、そもそも特殊算のような小学校や中学校でも学ばない特別なことを学ばしている以上、あまり関係ないでしょう。




出来ないという子どもほど、学ぶべきは受験算数ではなく、中学数学ではないのかと思いますね。











中学受験において先取りは悪という風潮があります。

特に塾関係者がそう言ってることが多く感じます。


最初は分かっているから成績は高くとも、学年が上がるにつれてついていけなくなっていくとか。
思考する力が弱くなるからうんぬん。


専門家がおっしゃるのですから、そういう側面もあるのでしょう。


ですが、そうではない側面も多くあるのではないか?と思うわけです。



先に知っておくことでその深みを知っておくことができる。
それが後で物を教わった時に理解を得やすくなる。


予習みたいなものです。

そういった効果を期待して先取ることは悪くないように思えます。



先取りとは言っても幼稚園の時に九九を覚えておきましょうということではなく、受験までに中学範囲を学んでおくということです。


中学3年分を先取りするなんて大変なことと思われるかもしれませんが、数学、理科、社会、これらの科目の問題を解いて頂けると気付かれるかと思いますが、中学入試となんら変わりのない問題が多く出ています。

数学の問題であったら方程式を使えるようになれば計算、文章題を解くことに抵抗は抱かなくなりますし、図形の問題もこれは何処かで見たぞとなるような問題がたくさん出てきます。

違うとするならそこに√を使っているかくらいなものです。


理科に至ってはほぼほぼそのままです。

中学理科がそのまま中学受験で問われている内容と言えるでしょう。

電流電圧を小難しく考えるくらいなら、電圧とはなんぞや、電流とはなにかと理解した上でV=IRの式に当てはめればいいんです。

朧気な理解が公式によって根拠のあるものへと変わります。


必死に中学受験だと学んでいたことが、実は中学校で学ぶことの先取りをしていたなんてお話なんです。



むしろ、逆に中学校で学ぶことの先取りを問われているのが中学受験だとも言えると思えます。


中学受験の問題を作るのはその中学校の教師がほとんどです。

どのような生徒を欲しいのかを問題を通して見ていることになります。


その中学校の先生が作るのなら、小学生を慮って問題を作成する必要がありません。

慣れ親しんでいる範囲は中学校の範囲なわけですから、こういうことを学ぶときにこういうことは知っててほしいなとか、これは小学生でも解ける考え方だから出来てほしいなとかがあるはずです。

さらに言うなら、自分が中学で授業を教える際に、この程度は知っておいて欲しいという想いもあるはずです。

どうせ教えるのなら自分が教える授業を理解出来る生徒を集める方がいいというものでしょう。


最難関の学校のような特別な才能を求めている一部の学校を除くとして、多くの学校では中高と躓くことなく授業内容を理解できる能力がある生徒を求めています。


中学校程度の内容をある程度理解できているなら、ありがたい。


ですので、場合によっては中学先取りの内容が中学受験に活用ができて成績が上がることもあるのかもしれません。





そして、この中学先取りが一番効果を発揮する人たちこそ、普通の子なんだと思います。


塾に行って真面目に勉強していてもパッとした成績を取れない。
どれだけ勉強しても成績が上がらない。
低い成績で推移し続ける。

無理して中学受験の勉強をさせ続けても、内心では何も変わらないと分かってるのにせざるを得ない状況。

中学生になったところで変わらないんだろうと思っている。


そこまで子どもの能力に否定的になっているのに、あえて中学受験に固執する必要があるのか疑問です。


それなら中学の内容を先取りで勉強させることで、中学生活において他の生徒よりも「出来る」という下駄を履かせてあげることができます。


一度学んだことを中学で再度学ぶ。

初めてのことを学ぶよりも、二度目に学ぶ方が身に付きやすいものです。

特別に賢くないんだと言うなら、先を見据えてしっかり学んでおく方が有利なのは当然です。

それにより試験の点数が上がれば自分は出来る人間なんだと自信を持ち、自己肯定感を得られることになり、効率よく学んでいくことができます。




中学校の内容なんて難しくて、それで勉強に対して苦手意識を持ったら大変!


なんてこともあるでしょうが、そもそも中学受験という過酷な世界に放り込む時点で苦手意識を持たせるには十分です。

義務教育を逸脱した内容を強いる中学受験よりも、馬鹿でも理解できるように作られている義務教育中学校の内容の方が易しいというものです。


解説教材も限られた層相手の中学受験と異なり、全国中学生を対象にしているため安くて豊富にあります。

誰にでも分かるように、を基本にして作られている教材ですから、中学受験を出来るような子どもであれば余裕で理解できることでしょう。


子どもの成績が上がらないと嘆いて高額のお布施を塾に納めて家族内が疲弊するくらいなら、中学校の先取りを視野に入れるのはありなのではないかなと考えます。



これでも中学校の先取りを多くの塾が肯定せずに否定する理由ってなんなのでしょうね?







理解を優先すべきなのか、ただ覚えるべきなのか。


前にそんな記事を書き、結局ハイブリッドなのかな、やる気の問題なのかな。

人によるのかなと思ったわけです。




で、よくよく考えてみると、やっぱり人によるのだなと思いまして。



個人に合った方法を選ぶということではありません。


理解だ、暗記だと、そう言っている人たちによる、ということです。




というのも、これを論じている人たちに、そもそも出来ない人たちはいないのです。


できる人たちが「理解が大切だ」「暗記が全て」など言ってるわけです。


つまり、どちらを選択しようとも、それはできる人たちにとっての選択にしかならないのです。

できる人たちが勝手に言ってるだけの言葉なわけです。




そのことを踏まえて考えると、できる人たちが更にできるようになるためにはどうすればいいか?


その答えが理解なのか暗記なのかとなるのです。



ええ、参考にならないんです。

だって彼らは理解をし暗記をした上で、更にその上を目指すにはどうすればいいのかという話をしています。


よく東大理三合格者が数学は暗記が大切だとか言いますけと、そのレベルを目指すなら理解は出来ていて当たり前、ある程度の解法パターンは頭の中に入っていて当たり前なわけです。

そんなレベルでの戦いなら、後は何が勝敗を分かつのかとなれば、純粋に量であり経験くらいしかありません。

似たような問題のパターンをどれだけ把握しているか。

当然のように解法を理解した上で。


それだと確かに数学は暗記だ、と言いたくなりそうです。





逆に全く分かっていない層にとってどちらが大切なのかと言われると、そもそも何の理解もしていない者が多くを覚えるなんてことを容易く行えるわけもありません。

そういった層は少しずつ理解していくしかありません。



理解した上でポイントを覚え、その上で更に理解してまた覚える。



結局のところ理解も暗記も、足りない層にとってはどちらも大切だということなんでしょう。


どちらのやり方がいいとかではなく、どちらもしっかりと押さえるということが大切。


理解あって演習量が成り立ち、演習量があって理解が成り立つ。




王道が一番という話に戻るのでしょうね。









 毎回、試験の度に計算ミスをしてくる我が子。


ちゃんと問題文を見直したり、出てきた答えが合ってるかを確かめるだけでそのミスはなくなるのに、いつまでたっても間違い続けます。


一問一問丁寧に確実にやるようにと言ったところで何一つ改善しません。


ああ、また今日のテストもミスをする。




そこで思ったのですが、できる子は計算ミスをしません。


とは言え、もちろんミスするときはミスをします。

ミスをしますが頻回にミスありきの解答にはなりません。


それはミスを起こさないように気をつけてやっている、丁寧に解いているからです。

当たり前の話ですが。


ですが、どうしてそれが出来るのか?




できる子、満点を目指すような子たちにとって、ミス一つの重みができない子たちと違うようです。


同じ一つのミス、同じ減点なのに、その価値が全く異なるんです。



できない子にとってミスは多くの間違いの中の一つの間違いに過ぎないのに対して、できる子にとっては僅かな間違いの中のしなくてよかった間違いになります。


一問に対する重みが異なってきます。

その一問さえ解ければ満点だったのにと思える悔しさがそこに湧くわけです。

ミスをしたことを強く悔やみ、次こそは同じミスをしないと心に決めて臨むのです。

この悔しさが原動力になる。



でも、できない子はたくさん間違いをしているために、ミスに対する重みを理解していない。

出来なかった問題と同じ重みとして考えてしまうため、ミス一つ一つに対する強い悔しさが生まれにくい。


なのでミスに対して、おおらかになってしまっているのではないでしょうか?



それが毎回のテスト結果に現れる。

ミスは減らず、難しい問題は分からないと思い込み。


だからいつまで経っても、できる子にはなれない。


できる子になってしまえば、同じ勉強量でもミスはなくなって難しい問題も解けるようになるのに。




テスト一つでも差がつくようになるとは前に書きましたが、ほんとテスト一つで多くが決まっているようです。





できる子になるためには、できる子になってしまえばいい。



一休さんのとんちです。








加熱化する中学受験戦争。

遅くとも4年生から塾に行くことが必須だとか、低学年から通っておくべきとか色々聞きます。
色々な考え方があっていいとは思います。

低学年から塾通いするメリットには、勉強習慣をつけたり、自分以外の賢い人間がたくさんいると知ることだったりするのでしょうか?


いつから通い始めようと、結局のところ子どものやる気次第ってことですから、大きな差はないと思います。
やる気もないのに、ただ塾に行ってても時間の無駄ですからね。




親が塾に期待してはいけないことが、「子どもの成績を上げる」ということだと思います。


おそらく多くの親が塾に一番期待することが、成績を上げるということだろうとは思いますし、実際そうでなければ塾になんて通わせないかと思います。
子どもの成績を上げないなら意味がないと思うから、合格実績やらを参考にして、「いい塾」を探すわけです。




塾は成績を上げるところではありません。


塾は成績を上げるための方法でしかなく、成績を上げるのは子ども自身です。

言葉遊びのような言い方になっていますけど、この違いがとても大切なんだと思います。




「塾に行けば賢くなれる」と思いがちで、成績を上げるために塾に行こうとしがちですけど、賢くなれたのは塾があったからなのではなく、子どもが頑張ったからです。

子どもが勉強をちゃんとしたから、成績が上がったということです。


塾に行っても勉強をしなければ、賢くなれません。

成績を上げるも下げるも、子ども次第ということを忘れてはいけないんです。



それなのに「塾に行けば賢くなる」という考えが染み付いてしまっているから、塾に行けば成績が上がるのが当然なんだって思ってしまっている。

だから成績が上がらないと、成績が上がらない原因は子ども側の原因だと思って、勉強が足りないやら勉強のやり方が間違ってるやらと子どもに言うこととなる。



子ども自体を見れていないのです。


「塾=成績上がる」という先入観のせいで、子どもが何を学んでいるのか、何を考えているのか、塾に合っているかどうかを考えられなくなってしまいます。

成績というフィルターを通して子どもを見るようになってしまって、子どもの成長を数字化して見てしまっているのです。
成績は子どもの成長の尺度には成り得ないのですけど、なまじ数字というものは分かりやすいものだけに、成績を通してしまう。


そうなると、塾に行っても成績が上がらない、成績が上がらないのは子どもが勉強していないから、勉強していても成績が上がらないのは理解していないから、理解していないのは勉強に本気になっていないから、本気にならないのは子どもが手を抜いて甘えているから、だから、子どもが悪い、となるのです。



成績が悪いのは子どものせいですか?
それとも、塾のせいですか??
いいえ、親のせい???


誰のせいでもない。
中学受験の成績が悪いのは「その時期じゃない」、それだけです。


中学受験の勉強は、中学高校の勉強とは異なります。

中学高校の勉強は出来なければ進学先に直結してしまうために、出来るようになりたいという危機感があります。


一方で中学受験の勉強は学校で一切習うことがないですし、出来るようになっても学校で評価されることもない。

やらなくてもいい勉強なんです。


そんな勉強に価値を見出せる小学生なんて稀なんです。
その価値を知らなければ始まらないのです。
だから、その価値を知らないうちは「その時期じゃない」。


中学受験のときはさっぱりでも、高校大学では優秀となる子どもって、そうやって大きくなってから勉強に対して本気になれたからというのもあるのではないでしょうか?




塾に期待しすぎです。


塾に期待するところを間違えていると思います。
塾に成績を上げること期待してはいけません。


塾は「塾」という「勉強道具」の一つでしかありません。



参考書や問題集と一緒です。


参考書を買うときにどんなものを買おうかと悩みます。
自分が好きな、合うものを選んで買うはずです。

塾にも合う合わないは当然ありますし、そもそも塾を不要と考えてもいいわけです。


そして、道具は使ってこそ価値があるものです。

使わなければ何も得られるものはありません。
問題集が綺麗なまま埃を被っているのを見て、「問題集を買ったのに勉強ができるようにならないのはおかしい」なんて言う人はいないと思います。



塾も同じなんです。


だけど、塾の場合は受動的であっても授業を受けている=勉強時間は0ではないために、良くも悪くも少し結果が出てしまう。

だから塾に行けば成績が上がるということは間違いではない。
間違いではないからと、親は子どもに塾を提供しがちとなってしまいます。


塾の本領は使ってこそです。

使えていなければ、塾の価値は半減以下になります。





そういう点から、塾の講義代を税金で免除しようとかいう考えには私は否定的です。


「道具」でしかないのに、それがあれば賢くなれると思っている。


気持ちは分かるのです。

私も問題集を枕にすれば賢くなれると思い、結局一度も使うことがなかった問題集を積み上げて、疲れが取れない朝を迎えたことが何度もありますから。


しかし、道具は使ってこそのものです。

しかもその使い勝手は人によって異なります。


自分が向いてると思う道具を選んで使いこなせるかが大切なことなのに、道具さえ与えれば解決とは一体何を考えているのかと思います。

塾に頼るくらいなら、フードバンクよろしく卒業生提供による参考書問題集バンクを設立し、提供する方がよっぽど価値があると思います。


塾という受動でも成り立つ勉強よりも、問題集という自分から解かないといけないものの方が、勉強したいと思う子どもに届くはずなのです。




塾はあくまでも道具。

道具を与えれば出来るようになるということはないのですから、子どもがちゃんと使いこなせているのかを見極めることが大切なのでしょう。









中学受験において、親はどこまで支えたらいいのか?




難しい問題です。


子どもが簡単な問題でつまづいている時に、それを知ってる親は解き方を教えて、無駄に時間をかけさせないようにします。

膨大な範囲を修めないといけない中学受験において、
中学受験を勝ち抜くためには変なところで分からないと躓いてはいられません。



効率よく、確実に。

それが必要となり求められていることになります。



だから、親として子どもが変なことに躓いているとすぐさま介入して、やり方を教えて正しい解き方を身に着けさせようとする。



その一方で「わからない」と悩むという非効率な行い自体が、子どもの思考を深くするということもあります。

いっぱい悩んだことで、問題をいろんな角度から考えることが出来て、新しい学びをどんどん吸収することが出来る。



解き方を簡単に与えて効率的に進めるやり方と、悩みじっくりと考えて先に進まない非効率的なやり方。

これらをどのように両立させるべきかが非常に難しいです。



子どもが問題をうまく解けていないよう。

そんな時にどのタイミングで介入すべきなのか。


悩ませる時間が必要だとは分かっていても、分からない問題に無駄に時間をかけるくらいならと、我慢出来ずに口を出しているというのが現状ではあります。



どうすればいいものか?


ふと「自転車に乗れるようになったとき」のことを思い出しました。




補助輪をつけて自転車を必死に漕いでいたのが、補助輪を外したあと「離さないで離さないで」と支えるこちらを見ながら恐る恐る漕ぐ我が子。


いったいいつまで支え続ければいいのか?

適当なタイミングでそっと支えを離してはこけて、「離すなと言ったのに」と怒られる。

そうこう繰り返すうちに「乗れた!乗れた!!」となっている。




この自転車を支える親の手が、分からないところを教える親の手と重なるように感じます。

子どもがこけないようにケガをしないようにと。


でも、それではいつまで経っても一人で自転車を漕げるようにはならない。

自分一人の力で何度も失敗をして、それでも諦めずに練習してるとそのうち乗れるようになっています。

親が支え続けていては乗れないのです。


支えることは必要ですけど、支え続けることは必要ではないのでしょう。




自分だけの力で乗れるようにとなってこそ、自転車が乗れるようになる。

勉強におけるあり方もまさにそれで、だから「自走」と言うのかと目から鱗です。




勉強も自転車に乗るのと同じようなもの。


いつまでも支え続けてはならないんだと思いました。