頭の中を様々な思いが駆け巡っている。
熊本の地震のことや、
町内会のことなど、
仕事のこと…はあまり駆け巡っってはいない。
熊本の地震被害については、
僕がどうこう考えたところで大した力になれるものではないのだけど…
一つどうしても心配なことの引っ掛かりが心から離れず、
やってはいけないことだと承知の上で、
やったことがある。
僕は婚活時代に知り合い仲良くなった人の連絡先は、
関係が切れたら消している。
しかし
ケータイ上では消したとしても、
連絡帳サーバー的な役割で使っていた当時のスマホには残っていた。
その連絡帳スマホは初期化して売り払おうと考えながらもタンスの片隅に放置したままで、
売り払おうにも古過ぎてどうしようもないなと思っていた。
その連絡帳スマホを引っ張り出して充電し電源を入れてみた。
もちろん
『久しぶり。
元気してる?』なんてバカなメッセージを送るなんてことはしない。
復活した連絡帳の中から一人の女性を見つけてSMSを送ってみた。
その人はいつぞやにここで出した熊本に住む人だ。
信者ではないが熊本ハリストス正教会のすぐ近くに住んでいる。
この人は僕との関係が切れてからも、
僕の誕生日になると、
熊本の名産品や高価な財布などを2年に渡り贈ってくれていたことから義理がある。
メールをしてしばらくしても返事がなく、
もしかしたら番号が変わったのかな?と思っていたら、
その人から電話がかかってきた。
地震による被害は家の中が散らかった程度だったらしいが、
もしかしたら次に大きな揺れが来たら家がどうなるのかはわからないらしい。
大きな揺れからかなり恐い思いをしたようで、
電話の途中に泣き出した。
僕も阪神淡路大震災の揺れの最中は死を意識したので、
気持ちは分かる。
そしてその人は言った
『神様ってどこにいるのかな?』
今回起きた熊本地震…いやこれまで起きてきた震災被害は、
まさに神も仏もない無残な光景を作り出してきた。
そんな光景の中、
救援や炊き出しにと助けに来てくれた人達こそが、
被害に遭われた人達からすれば、
神や仏以上の存在であり救いではなかったのではないかと思う。
『信じるものは救われる』とは、
キリスト教では死んだ後に天国に行けるという教えなんだろうけれど、
死んでフワフワな存在になってから救われて何が嬉しいものか!
人は自我や欲を持ちながらも色々考えた上で行動が出来、
また困っている人がいたら助けてあげられるからこそ人間なんだ。
熊本の人は混乱の中にあり、
仕事に行けない状態らしい。
互いの近況を話し合い、
その人が泣き止んだ頃に電話を切った。
切る前に『~ちゃん(僕)のタコ焼きをまた食べたい』と言われた。
なんかまとまりのない文章になってしまいました。
近所のスーパーでこれを見つけて、
店の売り場にあったこの商品を昼飯用にとゴッソリ買いました。
このうどんのラベルにあるように、
くまもんが再び笑える日の訪れを僕は信じたい。