新約聖書の「ヨハネの黙示録」(1章8節、21章6節、22章13節) に、主の言葉「私はアルファであり、オメガである」(コイネーギリシャ語: τὸ α καὶ τὸ ω; 英語: I am the Alpha and the Omega)として現れる。なお、21:6 と 22:13 ではこのフレーズの後に「最初であり、最後である」と続く。
ギリシャ文字の最初の文字Α(アルファ)と、最後の文字Ω(オメガ)が並べられており、最初と最後、すなわち、「全て」「永遠」という意味を持つ。同じ意味で、「A to Z」「A-Z」「AZ」などと、表記されることがある。
Wikipedia "ΑΩ" より

∀アルファは本来「牛の頭」の象形です。古代ゴスタナと呼ばれたホータン(和田)を指す名乗りである牛頭天王は、倭が国では素戔嗚尊に比定されますが、そもそも牛の頭∀は、人類に善悪を知る木の実(叡智)を与えたと伝わる堕天使ルシファーを指すと見ることができます。
ヨハネ福音書のΑΩのAアルファがルシファーを指しているとすると、Ωオメガとは本来何を指標しているのでしょうか。Ωオメガは、古代エジプトのデンデラーのハトホル神殿に祭られたニンフルサグの別称ですが、古代ペルシアの悪魔アーリマンに比定することができるでしょう。
シュタイナー人智学が語るキリスト存在は、ルシファーとアーリマンの間で均衡をとる働きですが、Aアルファがルシファーであるとするならば、Ωオメガはアーリマンの位置に重なり合います。
デンデラーに「天照」、オメガに「大御神」を当てるとき、天照大御神はアーリマンの象徴である龍神と解釈される説の存在する意義も理解されるでしょう。
古代エジプトはファラオと呼ばれた王族の死体をミイラ化する習俗があったように、後アトランティス期においてアーリマンの霊によって吹き込まれた唯物主義の衝動が芽生えた時代と理解することは、それほど難しくないと思います。
真実は猛毒ですが、真実を直視し正しく解釈する審神者の目を養ってください。審神者は、あらゆる信念や価値判断などの先入観から自由でなくては、権威主義の権化である堕天使と唯物主義の化身である悪魔の使い走りとなり果ます。
表現は違っても「審神者」を指標するような、自称 能力者は現代の日本にも居らっしゃるようですが、彼らの言動に従った人びとが、地獄のようなこの国の状況と状態を創り出しているという事実を正しく認識すれば、彼らの多くが紛い者に過ぎないということを理解することは、何らかの信念や業務都合、アイデンティティによる先入観から自由な人にとっては、それほど難しいことではないでしょう。
特に近代、日本人として本来人間の霊性を語る立場である「スピリチャル」業界や「スピ系」インフルエンサーは、現世利益つまりカネと名声と引き換えに、自ら霊性を否定する悪魔を崇拝する司祭と化しています。現代の悪魔崇拝に巻き込まれないでください。無自覚に唯物主義の信者とさせられている自分を認め、そこから脱出するために審神者へ道を求めてください。



