昨日は自分の状況を完全に受け止めることが出来なくて
普通に過ごしていてもほんのちょっとしたことで発作的に
わっと泣いて、そんな自分を自分でコントロールして泣き止む
という妙な状態を何度か繰り返しているうちに、つわりではなく
精神的な苦しさで吐きそうになりました。
涙を流しながら眠りについて朝はいままでよりも体が楽に
なったことや胸やお腹の張りの少ないことに気がついて
「もうだめなのかもしれない。」と思いました。
でも私の心は昨日とは違います。今朝、友達が一つの話を
教えてくれました。おおまかにはこんな話です。
ある2人の兄弟がいました。同じ環境で同じように育てられた
子供たちです。2人の共通の父親はひどいアルコール中毒で
子供達に常に暴力を振るい家庭を顧みない人間でした。
やがて2人は大人になりましたが1人はやはり父親と同じ
酒におぼれアルコール中毒に苦しむ患者となりました。
ところがもう1人は弁護士になり、アルコール中毒に悩む人たち
のために働く人となったのです。
同じ環境で同じように育てられてきたのにどうしてこのような
違いが生じたのでしょうか?2人がこのような道を歩むことになった
ことについてそれぞれにインタビューしました。
「なぜこんな風になったのですか?」
2人の答えはまったく同じでした。
「あの父親に育てられて、こうならないわけがありません。」
2人の答えはまったく同じですけども結果はまったく違います。
つまり自分の起きている状況に対しては選びがないけれど
その状況に対してどう思い、行動するかは自分で決めることが
できるし、それによって受ける結果も変わってくるという一例
なのですが、この話を通して私はとても考えさせられる
ところがありました。
私の身に起きたこの状況は変えることが出来ません。
私は赤ちゃんを失ってしまうかもしれないという悲しみに
捕らえられていました。喜びを奪い去られてしまうかも
しれない不安におびえていました。
だったら最初から妊娠なんてしないほうがよかったのか?
答えはNOです。もしかすると去ってしまうかもしれない命。
でも私は違う生命がこの体に宿った喜び、母へと変化する体、
命の尊さについてこの子から今でもたくさん学んでいるのです。
それは変わらない事実です。
今回のことを通して周りにいる多くの人が流産で涙を流した経験を
もっていることを知り、その痛みが理解できるようになり、
共感できるようになりました。
この子の命を通して私の人生は豊かにされているのだと
気がつきました。また私に新しい世界を教えてくれました。
この子が生きるか死ぬかよりも今、ここに存在していること自体に
この子の意味があり価値があるのだとわかってきました。
赤ちゃんの姿は機械には写りきれないほどの小ささかもしれない
けど、存在していることは確か。人の価値や命にサイズは関係ない。
どうなっていくのか見えなくて悲しくて悲しくてどうしようもなかったけど
周りの人たちの支えがあって、1人ではないのだと感じました。
前向きになることが出来て感謝しています。
この子が送られてきたことに感謝します。たとえどんな結果に
なってもすべては人生において必要な経験なのだと
今はそう思えるのです。
夫の愛と優しさにも感謝しています。
素直にそう思えるようにしてくれたのは私達の小さな赤ちゃん。
本当にありがとう。