嘘をつく優しさ | おあいそ。煮

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超新人の放送作家(漫才やコント・落語も書きます)でございます。
好物は、皆の笑顔と金魚です。あと、砂肝。

嘘をつくのは、是か非か?


という質問を、スカパーファンダンゴのヨシモト無限大日曜日、

NON STYLEさんMCのときに、視聴者にむけて、過去にしていたことがある。


結果、嘘はアリだと答えた人の方が、ナシだという意見より、少し多かった。



かく言う私も、アリだと思う。


何でも真実だけを知って生きるのは、多分、とってもつらいと思う。

たまには優しさで嘘をつかれる方が、精神安定上、いいんじゃないかな。


昔は私も嘘が大嫌いで、

優しさでつく嘘も、優しさではないと思っていた。

当時付き合っていた人に、

「私が傷つくからという理由で、嘘はつかないで。何よりも、嘘をつかれることが傷つくから」

と、常々言っていた。

まぁその発想も、今だになきにしもあらずなのだけど。

嘘をつかれたと知った時のショックを考えれば、先につらい真実を知る方がいいのかもしれないとも思う。

優しさでつかれた嘘も、

嘘をつかれるというのは、それだけ信用されていないということだと、思っていた。

そして、それが真実であることも、もちろんあるのだと思う。


ただ、そうではなくて、

最近は、

真実の厳しさではなく、嘘をつかれたというショックではなく、

嘘をつくに至った相手の気持ちの経緯と真意を、

汲み取れるようになったような気がする。

真実を知ったショックや驚きより、それを隠していた人の、隠すに至った気持ちを、

まず考えることができるようになったのだ。

昔はそんな嘘もみんな嫌いで、私は真実だけを知って生きていきたくて、

ピエロになるのは絶対嫌だった。


大人になったかな、ちょっとだけ(笑)。



だから、優しさでつかれた嘘は、

アリだと思う。


そして、悪意でついた嘘は、ナシだ。


嘘をつくのはナシだという人の意見には、

嘘をつかれて辛かったという経験がある場合が多いと思う。

それは多分、悪意のある嘘をつかれたからであって、

その場合は、私もナシだと思う。


「嘘をつく」という行為自体が非人道的なわけではない。

その時のその人の気持ちが、どうかということが重要なのではないか。




で、何故そんなことを話すかというと。



昨日、ここのブログは更新しないと言ったのですが。

早速、ほら、更新してんじゃん。


嘘つきだよ、私。



いや、やっぱ、「書ける」スペースがあると、

何かしら書いてしまうんだな。


そして、

構成も何もいらない、

ただつらつらと思ったままに書いていいスペースが目の前にあると、

勝手にキーボードを叩いてしまう。

言いたいことが溢れてくる。


そんな日もある。


嘘をつこうと思ったわけではないのです。

ほら、「もしかしたら更新するかも」的なことも、一応書いてるし?



悪意がある嘘をついたのでは、ないのですよ!!


ってことで、

かなり長い前フリを

書いてみたのでした(笑)。