未曾有の地震から、もうすぐ1カ月が経とうとしています。

皆さんの周りでも、大きな変化が身体的にも精神的にも生じたのではないかと思います。

テレビでは、相変わらず「被災地・被災者の様子」が伝えられています。

しかし、思います。

何を持って被災したというのか

最大震度7の地震に加え、予想だにしなかった津波、そしてもはや人災ともいえる原発事故による放射能汚染。

それらを被った方々、テレビでやってるのを言うならば、(地名を挙げてしまい申し訳ないが)陸前高田、大船渡などの地域やそこに住む方々のみを「被災地・被災者」というのでしょうか。

私はそうは思わない

震度5強の揺れなどは経験したことのないものだし、計画停電(これはこれで様々あるが、、)によって交通機関は乱れ、日常生活にもほぼマイナスの影響を及ぼしている。

これも、被災というのではなかろうか。

よく、「被災地・被災者のことを考えたら、(関東などに住む)私たちは計画停電も我慢しなきゃいけないし、、、、」といったインタビューや話を耳にする。

自分たちだって被災者ではないのか、、、

被災地・被災者か否かを、被害の程度で測り、いわば「私たちのほうがマシ」と、被災地・被災者をさげすんでみているように、私には見えてならない。

結局は、自分がかわいいだけかもしれない。。。。

ただ、当然支えあいながら、復興していこうという思い自体は、評価できるしされるべきだと思う。

しかし、なんでもかんでも「被災地・被災者のため」という言葉でもてはやし、自粛自粛となる必要はないと思う。

「自分も被災者」そう考えると、同じ震災を経験した者同士として、むしろ同じ立場で立ち上がろうとすることになる。

「今自分たちにできることをやろう。」この言葉の意味は、「これまで通り、泣いて、笑って、バカやって、真面目になって、そんな生活を送る。」ことではなかろうか。

拙いながら、参考までに

家族という一つの単位

それが、絶対化・神聖化しているように思います。特に、最近は色濃く。


確かに、人生の中で共に過ごす時間が長い、血の繋がり、という様々な要因があります。また、家制度の存在からもわかるように、家族という単位は重要視されています。



しかし、本当に家族という単位を絶対化・神聖化していいのでしょうか?



家族の存在が重荷になって、精神的に苦しんでいる人もいるはずです。
当事者がここにいますから。


このままの生活を続けていたら、自分の精神は崩壊してしまう。そんな恐怖と戦いながら生きている人もいる。
不謹慎と言われるだろうが、“地震が広がり、家族がいなくなれば”と思う人もいる。
そこまで思わされるほど、苦しんでいる人もいる。


支えてくれる存在、大切な存在=依り所は、友人、恋人、隣人etcいくらでもいるはず。


家族が好きな方、大切にしている方、自分にプラスになる方には、狂った内容かもしれない。


しかし、全員が全員ではない。
苦しみにうちひしがれ、悩んでる人もいる。


絶対化・神聖化は、時に人を強く追い詰める。


家族という一つの単位は、特別な意味付けをしたとしても、一つの単位としてみるべきではなかろうか。



拙いながら、参考までに
ブログ書きます。

といっても、始まりなので端書き程度に。


ここには、某日記を書くサイトや某つぶやきサイトとは違うことを書いて行こうかと。

早い話が、自分のいいたいこと(考え)で、身近とかじゃない話題(時事ネタとか大袈裟には言えないので、やんわりした表現にしました)を提供していきます。予定です。


ここに書くことが、一人でも読んでくださる方の参考=Referenceになればいいかとおもいます。


そして、ここに書くことが、私という人物を証明することになるように。


堅いことも、やらかいことも、書けるだけ書きたいなとおもいます。


以上です。