今から、4年ほど前、妻が脊髄小脳変性症と診断された。今のところ治る見込みのない難病である。夫婦仲は険悪な時期で離婚を決意した直後の診断だった。同情は全くなかったが、これで離婚もできないなと覚悟した。実家から見捨てられ、実家を飛び出すようにして私のところに来た。好きで一緒になったというより、実家が嫌なので私と一緒になった、というのが本音だろうと思う。二人目が生まれた頃から、精神が病みだした。家事はもちろん育児放棄するまでになった。喧嘩は嫌になるくらいした。週に4日、5日は喧嘩していたと思う。もちろん、仕事も出来ないような状態だった。喧嘩の合間に家事、育児をしていたようなのだから、仕事どころではなかった。もちろん、借金は増え続け、取り立てに追われるようになっていった。それでも、喧嘩は続いた。あまりにも喧嘩が多いので近所からも苦情がさんざん来た。引っ越しは二度した。いずれも喧嘩が原因。二回の引っ越し両方、大家からお願いだから出ていって欲しいと懇願され、引っ越し代までもらっての引っ越しだった。だが、いくら引っ越しをしても夫婦の関係には変化なかった。取り立てや近所の目が怖くて、表にも出れなくなっていた。次第に、自分の心が壊れていくのを感じていた。そんな状態を救ってくれたのは、一元の思想だった。すべてを前向きに受け止められ、人生すべてに意味があり、意味のない事象は目の前には現れない。そんな心境になれた。そんな時、父が死んだ。葬式代もないという母の求めに応じいくらかの工面をしなくては、と思い、妻に幾ばくかのお金でも貸してくれるよう申し出た。親父が死んだ。葬式代がいるから、ちょっとでも貸してくれへんか妻の返事はい返すねん。だった。今でも忘れられない。父を亡くした人間に対して、何の慰めもなく、自分のお金に執着するこの態度に、本当にもう無理だという思いが生まれた。そんな時での、診断結果だった。色々悩んだ。妻への愛情など全く無い。でも、病気の人間を捨て去る勇気は持てなかった。そんな人間にはなりたくなかったし、また、なれない、ということは自分がよく知っていた。あれから、4年ほど過ぎた。今は妻も寝たきり状態。言葉数も少なくなり、喧嘩することはなくなった。昨年秋ごろから、咳でむせ返ることが多くなったので、呼吸器科の診断も受けた。今日、結果が間質性肺炎と診断された。結構この病気も難病のようだ。脊髄小脳変性症との合併なので、医者もどのようにしたらいいのか頭を抱えていた。最近、また自分の周りでの変化が著しい。大きく何かが変わろうとしている。そんな実感がある。菅原さんの件もしかり。人生の曲がり角のような気がする。どのような状態になるかは想像できないが、自分は誰も見捨てない人間でありたいと思う。