直江兼続と幻の神指城(こうざしじょう)

 

 上杉景勝と直江兼続が越後から会津に入府したのは、慶長3年(1598)である。会津・佐渡、庄内、仙道(福島県中通リ)を支配する120万石、越後90万石からの転封であった。

 

 岩出山の伊達政宗や山形の最上義光、関東の徳川家康の牽制の意味で、秀吉が配置換えをしたという。

 兼続は120万石にふさわしい城を作ろうと計画し、神指の地を選んだ。

 

 しかし、入府した8月に秀吉が亡くなった。景勝と兼続は上方で政務の事後処理に忙殺された。

 兼続を責任者に、ようやく神指城の築城が開始されたときに、家康の横やりがはいる。城の建設は謀反の証拠だというものであった。

 家康は、天下取りの野心を露骨にする。豊臣に義を尽くす上杉は、家康にとり大きな障壁となっていた。

 

 これに対し、兼続が家康陣営に送ったとされる手紙が「直江状」である。

 兼続は反論を述べ、怒った家康が上杉攻めを決意した。

 

 家康挙兵の知らせが会津に届くと、新城築城どころでなくなり、白河で迎撃態勢をすることになる。

 ほどなく、上方で石田三成が兵をあげ、関ケ原の戦いが勃発する。

 

勝った家康が権力を掌握し、敗軍の上杉景勝は米沢30万石に減封され、会津を去る。 

 

今も、「高瀬の大木」と呼ばれる推定樹齢400年、根本周囲13メートルもある欅が神指城跡に威風堂々とそびえ、何かを語りかけている。