●櫛ケ浜基地で利用された兵器(陸上兵器・車両編)
ここまでで櫛ケ浜基地の所有する船舶を解説してきたが、本項の後半からはこの基地において運用された陸戦兵器・車両についても解説しよう。
基地の営庭には輸送船に搭載される火砲(高射機関砲や高射砲など)が設置されており、兵たちはこれで自衛火器を扱う訓練を行っていた。前述した通り、徳山空襲時にはこれらの砲で基地からの反撃が行われた。これら火砲を操っていた部隊は不明だが、この基地から発射された高射砲の弾丸は米軍の飛行機に命中することはなく、ついには砲身が真っ赤になり曲がってしまったそうである。(「特幹二期生の記録」編纂委員会1989・「特幹二期生の記録」編纂委員会2004)
実際に基地に配備された兵器の数・詳細は不明であるが、SS艇やSB艇に搭載された高射砲・高射機関砲が設置されたとみるのが妥当であろう(のちにこの点は追加します)。また、伊号高速艇が櫛ケ浜基地に存在していたことから、伊号高速艇に搭載された兵器も搭載されたかもしれない。
櫛ケ浜基地で教育を受けた特別幹部候補生隊らによる回顧録などには「防毒面」、「騎兵銃(三八式騎兵銃あるいは四四式騎銃と推測。おそらく、三八式騎兵銃であろう。)」、「九九式歩兵銃」という単語が登場しているため、一般的な歩兵装備・小火器もこの基地で保管・使用されていたようだ。
※参考までにであるが、三八式騎兵銃が船舶部隊にて利用された解説するサイトがある。
戦争末期に海上駆逐隊補充隊にてこの基地で教育を受けた兵士が「重機関銃(九二式銃機関銃あるいは一式重機関銃と推測)」に関する教育を受けていたり、海上輸送大隊へ配属された者が重機関銃を対空戦闘で使う話があることから、重機関銃もこの基地で利用されていたのだろう。
さらに、「アンパンと呼ばれる地雷(九三式戦車地雷などの対戦車地雷と推測)」か「破甲爆雷(九九式破甲爆雷と推測)」を用いた肉薄攻撃訓練が実施されたという証言を鑑みると、櫛ケ浜基地では前述した兵器だけではなく、対戦車兵器も配備されていた可能性が高い(「特幹二期生の記録」編纂委員会1989・『軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編) 第8巻』より『常徳作戦の苦しみと戦死した戦友を思う』)。
参考:櫛ケ浜基地で使用された可能性が高い兵器の一部(櫛ケ浜基地で撮影されたものではない)
軽火器(上:九二式重機関銃 中:九九式小銃 下:九九式破甲爆雷・九三式戦車地雷)
重火器(上:九六式二十五粍機銃 下:九八式二十粍高射機関砲)
画像は国立国会図書館デジタルコレクション所蔵『Intelligence joint: Joint Intelligence weekly bulletins(共同情報週刊速報)』より引用。
●櫛ケ浜基地で利用された車両等
他にも機動輸送隊補充隊の隊員が副官の同伴として船舶司令部(宇品)まで向かったものの、宿が取れず単身自動車で櫛ケ浜基地まで戻った記録等が残るほか、基地内に車庫が存在していることを示す史料がある(「特幹二期生の記録」編纂委員会1989・山口県文書館『土地建物関係綴③』)。そのため、基地では一定数の自動車なども利用されたと考えられるだろう。
山口県文書館所蔵史料『完結原議綴 雑品(昭和22~26年)』には「櫛ケ浜暁部隊」の名で馬7、馬車3、野戦馬鉄工具1が山口県馬匹組合へ引き渡されていることから、基地では馬も使用されていたことが窺える。これを裏付けるものとして、実際に『紅の血は燃えて』に寄稿した隊員や、少年時代に櫛ケ浜基地近辺に住んでいた秋本氏は陸軍将校が馬に乗っていたことを目撃している。
ざっと適当にかいたのでまたあとで書き足します。
