三州吉良へ行ってきました。

 忠臣蔵の話を人前で何度もしてきたのに、吉良上野介の領地吉良にははじめてでかけました。愛知県西尾市。三河湾のほぼ中央にある町です。温泉もある漁港。

 浅野と吉良の確執の背景には、塩の流通をめぐっての経済闘争があったともいわれています。赤穂へは何度も行き、昔子供を連れて行った時、塩の製造体験もしました。大石内蔵助の屋敷の長屋門の前で赤穂塩の販売もしていました。吉良では塩田らしきものは残っていませんでした。けど、港まで行って、海を見てますと、そんなこともあったかもしれないと思いました。

 

吉良の港
















華蔵寺

 上野介の菩提寺は華蔵寺(けぞうじ)。吉良家のな人の墓や木像もあります。今頃知って恥ずかしいのですが、吉良家がいかに名門の家柄であったかがわかりました。西尾市教育委員会の説明文には、「源家嫡流足利家の名門で、鎌倉初期に足利義氏が三河守護になり、吉良荘(現在の西尾市一帯)に住み、吉良を称した。室町時代には有力大名の一として常に室町幕府を支えた。江戸時代には旗本高家に列し、その筆頭として栄えたが、不幸な元禄事件により断絶した



 うーーん。たしかに「不幸な元禄事件」といえるでしょうね。刃傷のあった年、上野介61歳、内匠頭35歳。上野介からみれば、することなすこと、みな生意気に見えたかもしれません。



 その華蔵寺の隣に花岳寺があります。華蔵寺から細道でつながっております。木がおいしげり蜘蛛の巣が張り、足下には蛇が出て来そうでしたが、風情がありました。臨済宗妙心寺派。


 中世に吉良荘東条を領した東条吉良氏の菩提寺。案内板によりますと、東条吉良家十六代の持広は岡崎城主松平清康(家康の祖父)の妹をめとり、その娘(家康のおば)を養女としました。そして、清康急死の際、仙千代(家康の父)の家督相続に力を貸し、「広」の一字を与えて、松平広忠と名乗らせたというものでした。


 なるほど、この関係ならば幕府が吉良家に遠慮したことも納得できます。ここの庭の(季節はずれの)萩の花が目をひきました。花岳寺の庭

 

 赤穂にも浅野家菩提所の花岳寺があります。こちらは、正保2年(1645)浅野長直(内匠頭の祖父)の代に建てられましたので、吉良の方がはるかに古いということになります。宗派も赤穂は曹洞宗です。同じ禅宗の中とはいえ、宗派が違います。しかし、偶然の名前の一致に不思議な縁を感じてしまいました。






………」とあります。