前回、森喜朗に関する検索結果の偏りについて書いた。そこでアングラの重要性について再考したが、今はニコニコ動画は何となくその役割を担っているのかもしれない。


しかし動画というのは決定的な欠点がある。それは飛ばし読みが出来ないところだ。動画はストーリーを追うのに優れているが、情報を抽出するのには向いていない。だから比較しづらい。やはりテキストデータは厳然として必要だ。

ペーパーメディアをネットが駆逐できたのはそこに趣がある。テキストデータを抽出、速やかに比較考できたからだ。そして今、その部分が危機に陥っているのである。

あるところ調べものをしはじめてgoogle検索に危うさを感じ始めている。
例えば命題Xに関して検索をすると以前はAやBといった複数意見が出てきた。これを統合してCという自分の見解になるのたが、最近はgoogle検索はA単独もしくは似通った意見が見られる。

具体例をあげると「森喜郎 実績」という文字列で検索してみて結果は批判記事ばかりである。アングラ、2ch全盛の頃ならば森喜郎の実績も追ってる人が何処かに書いているものが出てきた。しかし今はそういった具体的事実を表したものが出てこない。これは立派にネットでの分からない言論統制の一つではなかろうか。

検索して思うような記事が出てこないのである。いうなればgoogleの検索の精度が落ちているのである。

今回のアメリカ大統領選に関してもそうだった。言論の主戦場はSNSに移行したが、何気に危ういと感じたのはやはりgoogle検索に一方的なものしか出てこなくなったところ。これに氣がついた人はどれだけいるだろうか?

アングラ復活の必要がある。

囚人番号「119104」。これが「夜と霧」の著者ヴィクトール・フランクル博士の強制収容所での呼称である。
フランクル博士

フランクル博士は最愛の家族を失い、人間性を喪失するような絶望的な状況を体験し、ある種の熱いハートとクールヘッドで乗り越えた人物だ。
予備校に通っていた頃、出口汪先生の現代文の授業にこの問題が出ていた。実存主義への入口だったと思う。どんな苛烈な状況におかれても世界を美しいと感じる感性を持ち続ける人間こそ生き残る。フランクル博士が囚人番号「119104」をひとつ肯定的に自分の人生に取り込んだのはそういった現れであろう。

しかし一方、そのような実存的なテーマが究極的に人間存在の眼前に現れたのはナチスの悪行に見られるように、近代より始まる大量虐殺にあったと言っても過言ではない。

ここ数年でチャイナでのウイグル人に対する虐殺の事態は益々明らかになってきている。まさにナチスの再来のように、少なくともフランクル博士の教え子として、そうと感じる。


しかしながら現実、ナチスとの大きな違いは強制収容所を解放する解放軍がいないことである。これは大きく絶望的だ。

「それでも人生にイエスと言う』ためにはやはり平和の軍隊が必要なのだと思うことがある。

ああ、国際連盟か。これしか無いなあ。