【無方庵余滴(続)耳汚(にぜん)雑話】『楫師⑫(しゅうし)』
趙州和尚は、僧が、「狗子(くし)にも仏性がありますか」
と問うたので、「無」と答えた。
趙州禅師(778-897年)に、ある修行僧が、「犬にも仏性が有りましょうか」
と尋ねますと、禅師は、「無い」と答えられました。
公案は、これだけです。この場合、「仏性」というのは“仏としての本性”ということで、
仏教学者のよく解説するように、“仏となり得る可能性”という意味ではありません。
可能性なら未来の事ですが、禅者の眼は常に“即今・此処・自己”を離れません。
現に今、この私が仏であるか否か、禅者にとっては、ただそれだけが問題だからです。
「一切衆生、悉有(しつう)仏性」(生きとし生けるものに、皆仏性がある)というのが、
教主釈尊の大宣言です。そして、これが大乗仏教の根本思想です。
しかし、正直言って、畜生にも等しいこの私にも、果たして「仏陀としての本性」があるのでしょうか? ここにこの僧の真摯な宗教的・実存的な疑問がありました。そして、この最後の問意識こそが大事なのです。
鈴木大拙は、これを「公案参究における知的要素」と呼んで、特に強調されていました。今日の禅の道場でよく見られるように、何の問題意識も無しに、機械的にただ「ム―ムー」とやるだけでは駄目だというのです。
盤珪禅師につぎのような言葉があります。
「たとえば、出家が一領の袈裟を失って、どれほど探しても見つけられないとき、片時も捨て置かずに探し求めるのを、まことの「疑い」と言うのである。
今時の人が古人も疑うたからと言って疑いを生じるのは「疑い」のまね事である。まことの疑いでは無い。だから真実に悟りに至る日が無いのである。それは失わないものを失ったと言って探し求めるようなものである。
公案が本当に自己自身の問題とならぬ限り、それはまね事です。真剣な問題意識が大事です。古人はそこを「大疑のもとに大悟あり」と言われたました。
ところで、趙州禅師の「無」の一字ですが、この公案の原点である。「趙州録」で見ますと、明らかに禅師は、「有る」に対して「無い」と答えて」いられるに過ぎません。(有、無を超えた処です。)
【参考】
▲碧巌録第一則本則「如何なるか是れ聖諦第一義」。磨云く、「廓然無聖」。
帝曰く、「朕(ちん)に対する者は誰(た)ぞ」。磨云く、「識(し)らず」
▲無門関第四十一則 達磨安心・・・乞う、師安心せしめよ」。磨云く、
「心を将(も)ち来れ、汝が為に安んぜん」。
祖(二祖慧可)云く、「「心を覓(もと)むるに了(つい)に不可得なり」。
磨云く、「汝が為に安心し竟(おわ)んぬ」
▲稽古とは、一より習い十を知り、十よりかへる、もとのその一」千利休の名言。
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