大きな病気をすると
ときに人生観が変わると
いうが、、
じぶんの場合は
変わったというより
より意識的に強化された
部分がある。
それは
なにかというと…
若いころから
自分は
嫌なことからは
逃げるタイプ
だった。
それで
勉強からも
逃げるので
学生時代の
夏休みの
最後の日は
貯まった宿題に
追われて
いつも
忙しく過ごして
いたものだ。
ところで
これを
若い時分は
無意識的に
やっていたわけ
だが
大きな病気を
して
自分の
残り人生を
意識するように
なると
しだいに
残りの自分の人生の
ライフクオリティを
あげることに
意識が向くように
なってきた。
将棋を例にあげて
説明すると
将棋を
ネットでやっていると
どうしても
マナーの悪いひと(わざと、いやがらせを
するひと)と
当たってしまう
ことがある。
それでふと
腹を立てている
じぶんを
客観的に
眺めてみたとき
はたして
この時間は
自分の残り人生において
満足感の面で
プラスに作用する
時間に
カウントしても
いいものだろうか??
と思うのだ。
そんな風な
よくないひとと
同じ時間を
すごして
人生の
貴重な残り時間を
あまり無駄に
したくはない
からね。
だから
そうなってくると
ネット将棋からは
てきとーに
距離を置くことになる。
けど
そうやって
将棋をしない時間が
貯まってくると
だんだんと
将棋をしたい病が
高じてくるので
そうなってくると
たとえ
マナーの悪いひとと
当たるリスクに
甘んじてでも
いいから
それでも
将棋が指したい
となる。
このときの
自分の状態を
不等号で表すなら
将棋がしたい欲求 > マナーのよくない人から
逃げたい欲求
となるわけだ。
…
で、これを
将棋以外でも
人生の
さまざまなシーンに
応用すると…
…
はたして
今行ってる
このときの行為は
自分のライフクオリティを
あげるのに
役立ってるか否か
仮に役立っていた
場合
コスパは
掛けるコストに
見合うか否か
ということを
じぶんの中で
計算して
考えるように
なってくる。
ちなみに
であるが
たとえば
じぶんの親の
介護のしごと
などは
嫌なことではあるが
同時に
やって満足感の
高いこと でも
あるので
自分の中では
じぶんのライフ・クオリティを
あげる作業
という位置づけに
なっている。
なので
いやなこと = じぶんのライフ・クオリティをさげる
になるとは
必ずしも
限らない。
…
じぶんにとって
大事なのは
満足感が高い
悔いのない
という こと
だろうか。