Days of "Days of Delight "

Days of "Days of Delight "

ジャズレーベルDays of Delightの関係者によるコラムです。

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土岐英史のデビューアルバム『TOKI』。25歳の土岐さんが疾走する。

 

 

日本が誇るアルトサックスの最高峰にして〈Days of Delight〉の第1弾アーティスト、土岐英史のデビューアルバムです。

 いまから40年以上前の1975年5月17日の録音で、リリースしたのは1970年に創設されたばかりの〈Three Blind Mice:TBM〉。29歳の藤井武氏がふたりの友人とつくったこのジャズ専門のインディーズレーベルは、熱気に溢れていた70年代のジャズシーンを牽引する存在でした。

TBMについては、以前のコラム(「日本のジャズレーベル(1)―TBM―」)に書きましたので、詳しくはそちらをご覧いただくとして、特筆すべきは、なんといってもその制作方針です。オーナープロデューサーの藤井さんが「そのときぼくが興奮するぐらい感動した演奏だけを紹介する」という、およそマーケティングとは正反対のポリシーを貫いていたのです。

このアルバムを吹き込んだとき、土岐さんはまだ25歳でした。それでも十分若いけれど、藤井さんがはじめて土岐さんにコンタクトしたのはさらに数年前のこと。土岐さんが東京に出てきたばかりで、二十歳になるかならないかの頃に、ジャズクラブでの演奏を聴いた藤井さんが、終演を待って「アルバムをつくろう」と声をかけたと聞きました。

付属高校のクラリネット科から大阪音大サックス科に進んだ土岐さんは、大学2年のときに東京に進出、プロとして歩みはじめます。最初の仕事は自由が丘のジャズクラブ「ファイブ・スポット」のハウスバンドだった鈴木勲グループ。奇しくもTBMが産声をあげた1970年のことでした。藤井さんがオファーしたのはおそらくこのころでしょう。

 レーベルを立ち上げたばかりの藤井武が、上京したばかりの若き土岐英史を一本釣りしたわけです。実際のレコーディングまでには数年を要したとはいえ、〝年端もいかぬ若造〟の才能を一発で見抜いた藤井さんの眼力は尋常ではないし、その日の「音」だけで藤井さんを虜にした土岐さんもすごい。この種の話がゴロゴロ転がっていたのが70年代日本のジャズシーンであり、だからこそ、大いなる活力とダイナミズムを手にすることができたのでしょう。

 ちょうど1年前、新しいジャズレーベルをつくろうと本気で考えるようになっていたぼくは、意を決して御茶ノ水のジャズクラブ「NARU」に向かいました。土岐さんに「アルバムをつくらせて欲しい」と直訴するためでした。

 ジャズの世界に素人のぼくを知っている人などひとりもいません。そんな人間がいきなりレコーディングの話を持ちかけたのですから、土岐さんも耳を疑ったのではないかと思います。でも、考えてみれば、1970年の藤井さんだっておなじようなものだったはず。若き藤井武の情熱がなければ、名盤『TOKI』は生まれていなかったのです。

 後になって、土岐さんに「あのとき、半世紀前に藤井さんに声をかけられた日のことを思い出したよ」と言われました。この言葉をぼくは生涯忘れないでしょう。

 『TOKI』は、ピアノレスのレギュラーカルテットで録音されたアルバムです。メンバーは渡辺香津美(g)、井野信義(b)、スティーブ・ジャクソン(ds)。いずれも20代で、その後のジャズ界を担っていくことになる実力派プレイヤーです。

 なかでも土岐さんとのスリリングな対話でアルバムに上質の緊張感をもたらしているのがギターの渡辺香津美です。いまや押しも押されもせぬ大御所ですが、当時はまだ21歳。しかし、その堂々として表情豊かなプレイは第1級の評価を受けていました。すでに香津美さんは別格だったのです。

 ぼくはリアルタイムでこのアルバムに出会いました。いつものようにレコード店で情報収集をしていると、とつぜんゾクゾクするほどカッコいいソプラノサックスの音色が聴こえてきたのです。ドライブ感満点のリズムに乗って突っ走るスリリングでエキサイティングなフレーズ。背後ではギターが独特の世界観を醸し出しています。

「えっ、なにコレ? カッケー!」。カウンターに目をやると、まるで拳銃を突きつけるようにソプラノサックスを突き出す土岐さん。こちらを挑発するようなモノクロジャケットがまたカッコよかった。

このとき流れていたのが、オープニングナンバーの「Lullaby for the Girl」です。ぼくはその場でLPを買い、すぐに家に帰ってターンテーブルの上に乗せました。再び聴こえてきたあの絶品の音色。このときの興奮をぼくはいまもはっきり覚えています。以来、愛聴盤としてずっと聴きつづけてきました。

このアルバムを好きな理由はいくつもありますが、40年以上にわたって聴きつづけているのは、けっきょくのところ、ぼくをグルーヴの快楽に誘ってくれるからであり、その底流にある〝熱量〟がぼくを元気にしてくれるからです。

若い彼らの演奏は、かならずしも完成度は高くないかもしれません。でも、それを補って余りあるダイナミズムと疾走感に満ちています。じっさいこのアルバムはTBMの録音史上の最短記録でつくられ、1曲を除いてすべてワンテイクだったそうです。

2018年10月、〈Days of Delight〉は土岐さんの新譜『Black Eyes』をリリースしました。そのOne & Onlyの音色はまさに最高峰と呼ぶに相応しいもの。そこにあるのは、半世紀をジャズ界のド真ん中で生き抜いてきた現在の土岐英史です。

ぜひそれを聴いて欲しい。でも、同時に、半世紀前の土岐英史も聴いて欲しいのです。その思いから、『Black Eyes』と同時に、70年代のコンピレーションアルバム『Days of Delight―疾走―』をリリースしました。もちろん「Lullaby for the Girl」を収録しています。

1975年の土岐英史と2018年の土岐英史。なにが変わり、なにが変わっていないのか。

それを考えることは、「土岐英史とは何者なのか」、ひいては「創造とはなにか」「表現とはなにか」を考えることにつながるとぼくは思います。

 

                                                     平  野  暁  臣

 

 

 

 

 

 

 

 

渡辺貞夫『ムバリ・アフリカ』。世界にも例のないアフリカン・フレイバーのジャズだ

 

 1973年、中学3年でジャズのスリルを知ったぼくは、ロックに未練を残しながらもどんどんジャズにハマっていきました。通っていた港区立の中学は4クラス。同級生のなかで日常的に音楽を聴いていたのは3割くらいで、その内訳は歌謡曲派が8割、洋楽派が2割といったところだったと思います。ジャズを聴いていたのは、のちに歯医者になったIくんとぼくのふたりだけでした。

 高校にあがるとぼくのジャズ熱はさらに加速し、もっと聴きたい、もっと知りたい、と思うようになりました。とはいえ高校生の分際で好きなだけレコードを買えるはずもありません。当時、LPは輸入盤が1600円、国内盤が2000円あたりでしたから、感覚的にはいまの5〜8000円くらい。月に1枚買えるか買えないかという貧しい小僧にとって、レコードショップの店頭、ジャズ喫茶とならぶ貴重な情報源はFM放送でした。前にも書きましたが、当時の日本社会では、ジャズはいま以上にポピュラーな存在であり、FM番組でも頻繁に流していました。在京のFMステーションがNHK・FMとFM東京の2局しかなかったにもかかわらず、しょっちゅうジャズを聴くことができたのです。

 とりわけジャズファンの注目がダントツで高かったのが、渡辺貞夫の「マイ・ディア・ライフ」という番組でした。1972年に放送がはじまった「マイ・ディア・ライフ」は、FM東京で土曜の深夜12:00から。小林克也のナビゲートで、資生堂の1社提供でした。

 当時、圧倒的な人気と実力でジャズシーンに君臨していた渡辺貞夫は、だれもが別格と認める日本ジャズ界の帝王。しかしこの番組にジャズファンが熱中したのは、たんに渡辺貞夫の番組だから、というだけではありません。毎週1回1時間、番組で流れる楽曲がすべて、1回限りの貴重な音源だったのです。

「マイ・ディア・ライフ」は売っているレコードをかけることをしませんでした。基本はスタジオでのセッションや番組主催のライブコンサート。来日した海外ミュージシャンをスタジオに招いて共演したり、ナベサダバンドが海外遠征した際に現地で録音したり、といったことを含め、番組のためにレコーディングしたオリジナル演奏だけでプログラムを構成していたのです。

聴き逃したら二度と聴くチャンスがないわけですから、リスナーのモチベーションはきわめて高く、放送を手元のテープに録音する「エアチェック」のかっこうのターゲットでした。ぼくも大量のテープをもっています。いま聴いても新鮮でカッコいい演奏ばかりで、当時の日本人ミュージシャンたちの創造性にあらためて驚かされます。

 この『Mbali Africa』も、そんな「マイ・ディア・ライフ」が生んだ名演のひとつ。1974年9月20日に東京・芝の郵便貯金ホールで行われた番組公開録音のライヴ盤です。リズムセクションは、本田竹曠(p)、鈴木勲(b)、日野元彦(ds)に、岡沢章(el-b)と富樫雅彦(perc)を加えた最強の布陣。さらに第2部では日野皓正(tp)、宮田英夫(ts)、渡辺香津美(g)が加わって、分厚いグルーヴが繰り広げられます。

 この頃、貞夫さんはアフリカから大きなインスピレーションを受けていました。1972年1月にテレビの仕事でアフリカに渡った貞夫さんは、暮らしのなかに息づく独特のリズムとそれを楽しむ人々の純粋な姿に触れ、大いに触発されます。

帰国後40日で、はやくも名盤『Sadao Watanabe』(1972)をレコーディング。全曲スワヒリ語のタイトルがついたアフリカン・フレイバーのアルバムで、全9曲をわずか3時間で録り終えたことをみても、この頃の貞夫さんが心身ともにいかに充実していたかがわかります。〈Days of Delight〉が10月にリリースしたコンピレーション『Days of Delight―疾走―』に収録した「Poromoko La Maji」もこの中の一曲です。

その後も、『Kenya Ya Africa』(1973)、『Mbali Africa』(1974)、『Swiss Air』(1975)、『Pamoja』(1976)と、アフリカンテイストのアルバムを続々とリリース。1977年にフュージョンシーンに移行するまで、貞夫さんは〝アフリカ音楽と融合するジャズ〟を磨きつづけました。

 そんな貞夫さんの〝アフリカンジャズ・プロジェクト〟の中間地点に位置するのがこの『Mbali Africa』です。

現地で耳にした音楽を数十巻のカセットテープに採録してもち帰ったといわれる貞夫さんは、それを徹底的に研究したはず。音楽理論にも精通していますから、おそらく音楽上の原理や特性についても種々の発見があったことでしょう。

しかし貞夫さんはそれを〝コピー〟しませんでした。彼がやったことは「消化」であり「濾過」であって、「再現」ではなかった。自身のソウルミュージックであるジャズに〝アフリカ成分〟を注ぎ込むことで、ワン&オンリーの「渡辺貞夫のジャズ」をつくろうとしたのです。そこに生まれたのは、かつてない「新しいジャズ」でした。

聴けばすぐにわかりますが、それは黒人のジャズとも白人のジャズともちがう、きわめて独創的なサウンドで、既存のいかなるジャズとも似ていません。当初は〝実験〟だったものが、わずか1〜2年でみごとに消化され、「渡辺貞夫のジャズ」になっている。『Mbali Africa』は、その瞬間をとらえた貴重な記録なのです。

ぼくがこのアルバムをリスペクトするのは、70年代の日本ジャズの精神をもっとも端的に体現しているからです。70年代に入ると、日本のジャズマンたちはそれまでの〝コピー・カルチャー〟から飛び出して、「自分だけのサウンド」を追い求めるようになりました。そうして個性とダイナミズムに満ちた「ジャズの時代」が到来したのです。

自分だけのサウンド…。『Mbali Africa』はその典型です。

アフリカ路線の最後を飾る『Pamoja』では、より完成度の高いみごとな演奏が残されています。2019年1月発売予定の〈Days of Delight〉のコンピレーション第2弾『Days of Delight―躍動―』に、オープニング曲「Vichakani」を収録しました。

 

                                                       平 野 暁 臣

レーベル第一弾は菊地雅章『EAST WIND』。斬新なジャケットデザインが未来を感じさせた。

 

 1970年代、〈Three Blind MiceTBM〉と並んで日本ジャズ界に旋風を巻き起こしたのが〈East WindEW〉です。

 フィリップス・レコードの日本法人〈日本フォノグラム〉と、ジャズ関連のマネジメントや招聘を行っていた「あいミュージック」により創設されたジャズ専門レーベルで、伊藤潔、伊藤八十八というふたりの名物プロデューサーを起用し、さまざまな企画でジャズ界に名を馳せていた「あいミュージック」の鯉沼利成氏がそれを支える、という強力な布陣でスタートしました。

 レーベルが誕生したのは1974925日。ぼくは高校1年で、本格的にジャズにハマってちょうど1年が過ぎたころでした。このときの衝撃をぼくはいまもはっきりと覚えています。掲げるヴィジョンが「いよいよ日本のジャズが新しいステージに飛躍する」ことを宣言するものだったからです。それはたんなる「新レーベルの誕生」にとどまらない大きなメッセージを放っていました。

 「いま、ジャズは日本から世界へ… イースト・ウィンドにのって大海原を渡るジャズの風」

 「東洋からの風」をヴィジュアライズしたロゴマークとともに打ち出されたこのコピーを読んで、ぼくは胸を躍らせました。日本ジャズのファンにとって、この「世界に出ていく宣言」はなににも増して心に響くフレーズだったのです。

 前のコラムに書いたように、60年代は「誰かになりたい」時代でした。ジャズミュージシャンは欧米のジャズアイコンをコピーしておなじように演奏できることを目指し、ファンは「まるでコルトレーンみたいだ」といって賞賛する。

 「コピーと学習」の時代にあって、すべてを支配していたのはジャズを生んだ本場アメリカに対する憧憬と畏怖の念だったにちがいありません。キャッチアップの時代には仕方がないことですが、いっぽうではそうした精神的隷属に対する負い目や悔しさの感情も潜んでいたように思います。ぼく自身、日本のジャズをリスペクトしながらも、シーンを包む“Bクラス感”にモヤモヤとした思いをもっていました。そんな状況に颯爽と切り込んだのがEWだったのです。

 東洋から西洋に新風を送る。

 そう語るEWの宣言文には、日本からジャズを「輸出」するのだ、という野心と決意が明快に示されています。視座が「世界」にセットされている。世界をマーケットと考えている。先行するTBMと大きくちがう点がここでした。

 「隷属的なポジションにあった日本のジャズが、ついに欧米と肩を並べる日がきた!」。

 いま思えば、そう実感したぼくたちがEWのヴィジョンに共感し、そのダイナミズムに興奮したのはとうぜんでした。

 EWの戦略の背景にあったのは、日本人ジャズマンのアメリカ進出です。秋吉敏子や渡辺貞夫がバークリー音楽院に留学した50年代〜60年代とはフェーズが大きく変わり、70年代に入るとすぐに日本人ミュージシャンが続々とアメリカ修行に出て行ったのです。

 菊池雅章、日野皓正、増尾好秋、大野俊三、川崎燎、峰厚介、鈴木良雄…。

 彼らは「留学」ではなく、最初から「仕事」を求めてアメリカに渡り、じっさいにニューヨークのジャズ界で生活をはじめます。なかには第一線のミュージシャンとの共演はもとより、アート・ブレーキーやソニー・ロリンズといったジャズの巨人に雇われ、レギュラーメンバーとして世界ツアーに出る者も現れます。ミュージシャンサイドの視座も「世界」に照準が向けられていたのです。

 EW の戦略は、こうしたムーヴメントと軌を一にするものでした。それはたんに日本人ミュージシャンの演奏を海外に紹介することにとどまらず、欧米ミュージシャンのオリジナルアルバムを製作し、それを欧米でリリースするという、それまでの日本のジャズレーベルでは想像さえできなかった壮大な構想でした。

 じっさい日本人ミュージシャンの新作を次々にリリースするだけでなく、オリバー・ネルソン、シダー・ウォルトン、アート・ファーマー、アンドリュー・ヒルといったトッププレイヤーたちの新譜を続々と発表していきました。その光景を目の当たりにしたぼくたちが、とても嬉しく、誇らしく感じたことは容易に想像いただけるでしょう。

 19749月にリリースされた第一弾は、菊池雅章の『イースト・ウィンド』とダラー・ブランド(のちにアブドゥーラ・イブラヒムに改名)の『アフリカン・ブリーズ』の2枚。いずれも素晴らしいアルバムです。以降、EWは日本ジャズ史にその名をとどめる数多くの名作を送り出しました。

 あまりのカッコよさにのけぞった本田竹曠『サラーム・サラーム』、スリリングな展開にブッ飛んだ峰厚介『アウト・オブ・ケイオス』、個性的なテイストにシビれた渡辺貞夫『パモジャ』、手に汗握る躍動感が生々しい日野皓正『ホイール・ストーン』、はじめて触れる美しいサウンドに引き込まれた冨樫雅彦『スピリチュアル・ネイチャー』…。EWはぼくの愛聴盤の宝庫です。

 従来のジャズアルバムの定番とはまったくちがう抽象的なジャケットデザインも新鮮でした。米ジャズレーベルの名門〈Bluenote〉や〈Impulse〉がそうであったように、しっかりとレーベルのカラーを打ち出していて、一目で EWとわかるアイデンティティを備えていたからです。音質も素晴らしいものでした。

 演奏内容、録音技術、アートワークがいずれも高い水準にあり、三位一体となってひとつの世界観を醸し出す。それがレーベルのブランドイメージをつくる。

 構図はTBMとおなじです。数あるレーベルのなかで、三者が高い水準でバランスしていたのはEWTBMだけだったと思います。両レーベルは、ジャズがアート感性と親和性が高いことを実証しました。

 両レーベルをリスペクトする〈Days of Delight〉が目指しているのも、もちろん三位一体となった独自の世界観の構築です。

 

                                  平