自動車は陸上用移動運搬財物である。そしてその財物の基本運動として直線走行、曲線走行、停止運動を行う、仮にこの機能の1つでも欠落した場合には自動車と呼べるのだろうか、それはただの鉄、プラスチックを組み合わせ、接合した単なるオブジェだろう。このように考えると人間社会に存在する様々な財物がそのように成らしめる為の必須機能が存在しているということが考えられる。

そしてこの必須機能の構造を知る人間とその財物を構成する又はその代替になる材物を取得でき、その人間に材物と身体的継続があるのならその財物を作成できる可能性は0%ではない。

そして、同類財物の開発を計画するライブラリアンの個体数が増加してくると、人間という生命体は必須機能に対して、他者の同類財物と比べて優劣を自然に競い合う。そして

競争方法は、対象財物の必須機能の構成要素【車では速さ、加速度、2点を可能にする消費エネルギー量等】の数値を競争者どうしで争い、下層市民には競争者ほど財物の構成要素を吟味することが大概不可能なので、下層市民に宣伝や大概の財物の簡便で尚且つその両者の根源的源である価格で更に競争者は自然に競い合うのである。

この必須機能の構成要素を可能な限り極限まで突き詰めていく行為(鋭利化と呼称)、産業革命以後から現代まで時代を超えて利用されてきた有形財物を見ると顕著に見られる。

その鋭利化の中で前提条件があり、その財物の仕組みを起動させる自然現象を発生させる材物は限られており、その前提条件を確実に含み、数値向上と共に材の質量の減少や財物の空間を占有する面積を変化させることを鋭利化させる。

ここで疑問なのだが数値鋭利化、質量減少鋭利化、空間占有面積鋭利化は無限に続けることができるのだろうか、

まず簡単に証明できる、質量減少鋭利化、占有面積鋭利化なのだが、それぞれの物質1cm3の質量(密度)はという限界がある、その有形材財物の占有体積の大きさに応じてそれは決定されるだろう、そして質量減少鋭利化等を加速させていってもたどり着く先は、その限界から越えられないし、又ライブラリアンはその生命が続いているかそれに囚われている場合には、それを超える材物を地球上から探し出そうと試みるのである。

ある100gの有形物を仮に完全な0gにすればその物は形を有しているだろうか、それは形もなく、質量もない完全な零である。

数値鋭敏化を考えてみると、車の燃費を例にとるが、平均燃費10㎞から100㎞にすることは、現在にまで君臨する科学原典の反証不能な法則性を覆すことや、その科学の派生のツリーダイアグラムの元に生まれ続ける科学派生又は既存科学の融合体の学問により、ライブラリアンの脳の使用容量を増殖し続ける机上の玉石混合の理論の理解に時間を取られているようでは無理であろう。そしてシャドウ(後で説明、重要概念)ライブラリアンが有形財物鋭利化に参加している場合には、その数字の偽装を実行する可能性も含まれる。更にアクセルマスターも有形財物鋭利化の限界を理解しているが、その組織の存続、既定路線を優先する余りに、知識のない下層市民に対して旧生産有形財物と同じ新生産有形財物(鋭利化の限界点を超えている為)をあたかも前よりも進化した等と真実を曲げる大量宣伝=マーケティングを行うのである。

三角形があり、その頂点をきれいに尖らせようとして、紙やすりを削るが最終的に行き着くのは鋭角ではなく頂点が丸みを帯びた不格好な幾何学模様である。

そして次の有形財物の自然発展方式として、ある財物の機能Aがあり、そして他の財物の機能Bがあるとする、それをただ複合すること。これを機能複合化と呼称しよう。

機能複合化としては、そのユーザにとっては1つの有形財物の中に2つの機能を入れ、本来2つの財物を購入し、建物の中に2つの空間を確保しなければいけないのが、1つの空間確保でこと足りる、それ以上に人間が移動する際には建物より更に空間が狭まり、振動や落下を考慮しなければいけないが、それは限界寸前の質量、空間鋭利化が一助を担っている。つまり、機能複合化は鋭利化の空間占有面積に貢献しているのである。

そして、その機能を吸収された既存財物を生産するアクセルマスターは、最初は気分穏やかではないだろうが、冷静なアクセルマスターは資本の使い道の変更を考えるか、機能複合化財物の吸収機能がまだ限界まで鋭利化していないのなら、組織内のライブラリアンに指示し、その既存財物の唯一機能の鋭利化を実行し、その財物の愛好家や正確性を重視する人々に提供するかの2つの選択に悩まされるのである。

だが、機能鋭利化と機能複合化にも、その財物内での複数企業の生産数が多く、財物に興味がある人間が少数であり、国の人口が少数の場合には、売れ残りというのが出てくる。

だが、その売れ残った機能鋭利化、複合化させる為に集中力と試行錯誤にかけた時間から、その機能複合化はライブラリアン(開発者)にとって、自分の分身のようなものであり、それを否定されるのは自身又はライブラリアンの新密度の高い補助者達を否定されるものであり、その時代の社会常識的な模範解答で繕ってはみても、例えばテロで使用されるマシンガンを搭載した装甲車等、社会にその財物の自制コントロールを行えない下層市民に悪影響を与えようとも、生産をやめようとはせず、その創造財物より客観的に優れた財物でも頑なに否定し、挙句の果てには、資本や権力を持っているシャドウアクセルマスターシャドウライブラリアンに成り果てた場合には、その財物に有利な情報に何らかの形で支援し、悪質な場合には別の本質を反らすような理由を作り上げたりするのである。

つまり勘違いの少数派ライブラリアンとアクセルマスターの悦楽の為に、多くの下層国民が迷惑を被っているのである。

つまり、命を奪う行為は下層市民でも判断できるのだろうが、これらは中々下層国民では判断できない。むしろ最初は歓迎されるのだろう、

そして最初は疑念を持っていた下層市民も長期間そのような宣伝を大量に聞くと、それを本質として錯覚してしまうのである。そして下層市民がその財物(このような財物を人害物と呼称しよう)を実際に生命維持には関係ない財物なのに、学のない下層市民はその財物の最終的にはその人間自身の破滅と精神の堕落を導くかもしれないのに、下層市民の身体的な欲求度合が勝り、結局は人害物を創造したライブラリアンの手元にはさらに資本が入って来るのである。

産業革命以後、家内制手工業から動力機関の同一反復作業を行い、下層の人間でも財物が上の本流から下に流されるように物が毛細血管のように流通してきた。ただ産業革命から200年が経過してから、1947年米国・ベル研究所で人類が世紀の発明と認識している半導体を完成させたのだが、その開発には偶然の産物で有り、森羅万象の宇宙に存在する材物の組合せ、地球上にその材物が存在し、たまたま下層生活人間よりも自然物理の動きに敏感な人間がその場所と時代に存在しているという、ただそれだけのことなのに、それをあたかも経営者と政治家(この2種の人間の集合体をアクセルマスターと呼称。この呼称には意味がある)は資本さえあれば新創造物ができるかのように盲信し、莫大な研究投資を出資し、新創造財物開発時間を最大限に短縮しようと計画というアルゴリズムを経営者、政治家(アクセルマスター)の権力と金に媚びるような技師、開発者(この2種類の人間をライブラリアンと呼称する)と企てる。

それが運よく成功した場合には、不安定な精神・健康状態や無知で過大賃金を要求する生身の労働者より何の文句も言わない同一反復動作ができる電気等を動力源とした機械使用を管理のしやすさから選好し、この機械の回転率を加速させ、その新創造財物を多量に下層人間に財物を流そうと計画する。その財物の等価交換でアクセルマスターと拝金主義のライブラリアンは大金を彼ら一族のみで配分し、更に人々の畏敬や財物の快楽に浸りたいという全人類共通の根源的快楽に帰結する。

アクセルマスターの能力で、根源的快楽を隠すような多数の言語表現や勇断的行動を見せつけても、アクセルマスターに疑問を無限に投げ続ければ、使用可能言語表現が枯渇し、彼らを隠していた建前言葉が崩れ落ち根源的快楽が顔を出すのである。だが、大概彼らはそのような大損害を与える疑問の攻撃に対し回避行動は非常に強力である。そして彼らはその所属している労働者のライフラインを掌握しているので、ライフラインを交換条件として所属している人間の能力の加速(アクセル)を握っているのである。故に彼らは車の加速を決めるアクセルのように、例え高尚な地位についていようが、人間であるので根源的快楽を達成させようと自然に動く。

そして大組織のアクセルマスターは下層市民より時間と物量が多いので容易に実行する。

電子自動計算器を下層市民に流した人間は単なるガレージでその作業を開始した。

これは計画化されたことだろうか?

この200年で車が空を飛んだだろうか?

車はいまだに地を這う遠距離移動目的+重量物運搬目的の財物である。

だが車は、ある進化が脈々と実行、成果がでているように思われる。

それを次で解明していこうと思う。

我々は、地球に生きている。この目には自分以外の人間やペット等の生き物が視界に入る、そして人間の目にはそれ以上に家、鍋、包丁、時計、ラジオ、車や視野を広大にしてみると川、植物、木々等があり、地球という箱庭の中には我々の世界を彩る様々な「物」が存在している。

 これらを一括して「物」と呼称しているが、植物等の分類があったように何かを基準点として、地球に点在する無数の「物」を分類してみたいと思う。

 まず、大前提として「物」は生命体ではないということから始まる。人間やその他の生命体は形状や大きさの程度は違いがあるが、これらは気候の変化により渡り鳥が場所を移動するように、自身の生命機能に悪影響が及ぶ場合に自己意思で回避するようにできている。確かに煙を感知するセンサー等は人間に知らせる機能があるがセンサー自身は逃げようともせず、ましてや逃げるという意思すらないのだ。

物と生命の区別は分かったので、次の段階に進むが仮に原初の地球に立ち返った場合には、現代のように立派な構造物があったわけではなく、地球の至る所で緑の木々に覆われていただろう。その中で木々などは自然と育つわけだが、テーブルは木々のように地面から出てくることはなく、人間の便益の一助となっている。

木々は切り倒され、正確な長方形に加工し最終的にはテーブル等となり人間が食事を楽しむ目的で使用される。それが正しい流れである。

つまり「物」の木は、地面から人間の加工を必要とせず、長い月日をかけて高く育ち、原初の状態ではそびえたつ木を怪力で倒し棍棒にする怪物のような人間がいるなら使用目的だが、現実に存在するそびえたつ木々本来の状態では人間に何の便益も与えない。だが、ある物を人間が作成しようとする際には、そのものに組み込む材料となる。

こういった直接的な便益はなく、自然のペースで増加する物を材物と呼称しよう。

逆に、現実にその物があるだけで人間に便益を与える。仮にその場にあるならば木のテーブルは食事を置くことがすぐできる。そしてこれは人間の数や加工技術に依存して作成数は増減する。つまり、人間のペースに依存しているのである。

こういった直接的な便益があり、人間のペースで増加する物を財物と呼称しよう。

そしてこの財物は分類でき、人間に最終的には便益をもたらすのであるが、その財物を使用しなければ確実に使用できない財物が存在する。例えば懐中電灯があるがこれを使用するには、電池という財物を必要とする。そして、自動車では石油から精製されたガソリンという材物を使用する。というように財物が材財物を必要としているものがある。

こう考えると地球に自然状態で存在する全ての水、土、鉱石、草木は材物を生産又は貯蔵し、その後、人に加工され便益を与える財物ということになるのだ。これを簡単な図に書いてみると。

 

①    The earth & nature(材物)→② Human(財物)

※生産者を英字で記入し、()は生産又は貯蔵物

 

ここで、①と②の生産や貯蔵のスピードを考えていくのだが、原始の時代では明らかに人間の個体数が少なく、財物も地表に落ちている石やその石を削り木の棒で槍を等、財物も各々が作り、それだけを黙々と作る者はいたかもしれないが、現代のように何千や何万もの財物は必要ではなかった。つまり①の方が勝っていたのだ。だが、産業革命が始まりこの200年では、動力源の誕生や労働者の分業等により、明らかに①の生産スピードよりも②の生産スピードが速くなった。確かに産業革命初期には綿花のように、大量の貯蔵量があり、生産できる財物ならばいいが、今現在の大概の財物に含まれている金属類の財物を抽出させてくれる鉱石等は①の場合、生産も貯蔵もできず、地球と自然から削られていくだけである。

 つまり、①と②は、同じ歩調ではないことは明らかであり、材物=地球を削って使用する理由を作り出すのは人間達であり、そして材物は木々のように時間はかかるが循環する物ばかりではなく、その材物は地球から抽出されるだけであって、そこから自然と生成されることはなくそれで作成された財物に含まれたままか、最悪の場合は、石油に代表される消費され形状が無くなる、材財物に対しては、科学的には消滅しないと言い張るが、実質粒子化して見えなくなったものに使用目的がどこにあるというのだろうか。

 我々は財物に対して、ただ現状維持にふけるだけでなく、財物というものを再定義し、これは必要なのか不必要なのかを全ての人類は考える段階になったのかもしれない。確かに前時代での享楽の後掃除をなぜ我々がするのかと苛立ちを覚えるかもしれない。だが、前時代の人々は自分たちの楽しみもあったのだろうが、それが未来につながると盲目的に信じていただけで気持ちは善人気取りであり、我々がこの問題を解決し、更に新しい価値基準を作ったとしても、又後世では問題扱いされているかもしれない。

そしてこれは後世だけでなく、今現代に生きる我々にも降りかかってくる災いで、イースター島の原住民のようにその島だけで滅びるのではなく、イースター島が地球全体に成り代わって滅びる可能性を示唆している。