オバマ大統領「広島演説」は一大叙事詩だった
オバマ大統領「広島演説」は一大叙事詩だった
魂をゆさぶる、神がかり的なコミュ力
岡本 純子 :コミュニケーションストラテジスト
2016年05月30日
見事なスピーチだった(写真:AP/アフロ)
米国の現職大統領として初めて広島を訪問したオバマ大統領。被爆者を抱きしめる姿や力強く情緒的なスピーチに心を震わせた人も多かったのではないか。
日本だけでなく、世界中が注目したまさに歴史的な出来事だったわけだが、その意義や重みを人々の心に強く印象付ける一因となったのが、オバマ大統領の圧倒的なコミュ力である。
もともと、スピーチの巧さでは高い評判を持つ天才的雄弁家であるが、そのカリスマぶりは今回の訪問でも遺憾なく発揮された。ケネディ、レーガン、クリントンなど歴代の米大統領の中には優れたスピーカーも多くいたが、オバマ大統領はもはや「神の領域」と言っていい。魂をゆさぶる「神がかり」的なコミュ力の秘密は何か。そして、今回の広島訪問の真の意図は何だったのか。彼の「言葉」と「ふるまい」から読み解いていこう。
スピーチを書いたのは「文学青年」
この連載の一覧はこちら
「71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、世界は一変した。閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を手にしたことがはっきりと示された」
まさに、舞台のオープニングシーンのような鮮やかな情景描写から始まるオバマ大統領のスピーチは、技術的・経済的発展を成し遂げながらも、戦争という愚行を止められない人類の「絶望的運命」を文学的な言葉と巧みなレトリックでつづった一大叙事詩だった。
人類はその歴史が始まった時から暴力的な衝突を始め、その後も絶え間なく戦争を繰り返してきたことに触れながら、「この空に立ち上ったキノコ雲の映像を見た時、私たちは人間の中核に矛盾があることを非常にくっきりとした形で思い起こした」と、自ら破滅を招く人間の不合理を憂うのである。
平家物語のようなもの悲しさと不条理観。しかし、ストーリーはここでは終わらない。
「私たちは、この街の中心に立ち、勇気を奮い起こして爆弾が投下された瞬間を想像する。私たちは、目の当たりにしたものに混乱した子どもたちの恐怖に思いを馳せる。私たちは、声なき叫び声に耳を傾ける」。この悲しい記憶こそが人類の道徳的な想像力をかき立て、希望をもたらす選択を将来にわたって続けようという意志につながるのだ、と説いたのだ。
だからこそ「核兵器廃絶」という理想を追い求め、広島を「核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地としなければならない」とスピーチを結んだ。
まさに、壮大な「絶望と希望」のストーリー。このスピーチを書いたのは、38歳のベン・ローズ大統領副補佐官(国家安全保障問題担当)と言われている。オバマ大統領の側近中の側近だ。もともとはニューヨーク大学の修士課程に在籍し、作家を目指す「文学青年」だった。その彼を政治の世界に駆り立てたのは2001年のあの出来事だった。
スピーチの最中に大統領の脳裏によぎったもの
「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」は、5月初旬にこのベン・ローズの大特集記事を組んだ。そこにはあの9月11日、マンハッタンの対岸から旅客機が超高層ビルに体当たりするのを自らの目で見た経験が語られている。「その日、すべてが変わった」。ショックと恐怖の経験は彼の価値観を根底から覆した。
オバマ大統領の広島スピーチに出てくる言葉の端々ににじみ出る人間の蛮行、愚行に対する憤り、絶望感は、眼前で何千人もの命が失われるシーンを目撃したローズ氏の原体験に紐づくものでもあるのだろう。この演説の中に、「どの偉大な宗教も、愛や平和、正義への道を約束するにもかかわらず、信仰こそ殺人許可証であると主張する信者たちから免れられない」といきなり宗教批判のような文言が出てきたことに違和感を覚えたが、これは、まさに9.11とその後のテロを指していると考えると合点がいく。
そして、あのスピーチを読み上げるオバマ大統領の悲痛さの裏には、アメリカが体験した9.11というある種の「敗戦」の悲劇を重ね合わせる心情が少なからずあったのではないか。そんな想像も働く。
同マガジンによれば、「優れた物語の語り手」であるローズ氏は「大統領のために考えるのではなく、大統領が何を考えているのか」がわかるのだという。「どこから僕が始まり、どこでオバマが終わるのか、わからない」とまで言う一心同体の存在にまでなったスピーチライターはまさにオバマ大統領の懐刀。ホワイトハウス随一のインフルエンサーとしてツィッターなどで情報を発信し、記者たちのオピニオンにも大きな影響を与える存在だ。
→次ページローズ氏が綴った広島訪問の意図とは?
そんな彼が、ウェブジャーナリズムのプラットフォームとして知られる「Medium」に自ら、広島訪問の意図をこうつづっている。「(アメリカが)核兵器を使った決断について触れるのではなく、我々共通の未来に対し、前向きなビジョンを示し、戦争という、とんでもなく、また破壊的な行為が人類にもたらす犠牲にスポットライトをあてる」。さらに、「核兵器を使用した唯一の国として、核兵器の根絶による平和と安全な世界の実現を推し進める特別な責任がある」ことを示し、「終戦時には想像もしえなかった深く強固な同盟関係を象徴する訪問である」と明言している。
ガーディアン紙によれば、このスピーチはローズ氏が起草し、関係省庁などがチェックをした上で、さらにローズ氏が推敲し、オバマ氏が最終的に手を入れたものだという。その証拠に、読み上げた原稿の上には彼の手書きのメモがたくさん書き込まれていたそうだ。自らの原体験も踏まえ、強い思いがあふれ出るスピーチを紡ぎ出すスピーチライターと、その原稿を自分のものにし、情感をこめて語ることができる話し手。この最強のコンビネーションが生み出した歴史的演説だったのである。
さらなる超絶コミュニケーション技
筆者はアメリカに在住していた時期がある。そのときにオバマ氏のお茶目でチャーミングな側面をたっぷり見てきたため、まごうことなきオバマファンなのだが、今回、さらに新たな超絶コミュニケーションテクニックに気づかされ、感服することがあった。
まずこのビデオを見ていただきたい。これは広島スピーチのほんの数時間前、岩国基地で行ったオバマ氏のスピーチだ。
[動画を固定]
原爆ドーム前のスピーチの厳粛さと打って変わった明るさ、陽気さ、面白さだ。ジョークを交え、とにかく楽しく、聴衆からも笑いが絶えない。
以前、東京オリンピック招致のプレゼンコーチ役だったマーティン・ニューマン氏にインタビューした際に、プレゼンの要諦は「どのようなムードを作るか」であると教えられた。つまり、スピーチやプレゼン、あらゆるコミュニケーションにおいて、最初に考えなければいけないのは、「What mood do you want to create?」(どのようなムードを作っていきたいか)ということで、会場をどのような空気で包みたいか? 聴衆にどのような印象を持ってもらいたいか?をコントロールできる人こそが超一流のプレゼンターである、というわけだ。そういう意味で、このオバマ氏の「場」の作り方はまさに天才的だ。
これはまさに、三枚目を演じたかと思えば、次の場面では悲劇のヒーローに転じる「役者」のようなものだ。そう、オバマは天才的役者なのである。といっても、わざとらしく、自分でない他人の役を演じる、のではない。一流の役者はその役に「なり切る」ことができる。
ストイックなまでの役作りで知られるアメリカの俳優ブラッドリー・クーパーのブロードウェイの舞台を見に行ったことがある。「まさに乗り移ったような演技」にすっかり、魅了されたのだが、あるラジオ番組で「けいこをひたすら重ねていると、何かが空から降りてきて、自分にとり付く」と話していた。被爆者と自然に抱き合い、握手をするあの姿も、計算されたものではない心の底から湧き出る思いだったからこそ、心動かされたのだ。まさに、イタコ、いや、ありとあらゆる自分の分身(アバター)に化身できる。これがオバマ氏の真骨頂である。
翻って、日本人のプレゼンが面白くないのは「話している」か「読んでいる」からである。オバマ氏を目指すのはハードルが高すぎるとしても、グローバル競争に勝ち抜くため、日本の掲げる平和や環境保護のメッセージを世界に伝えていくためにも、国を挙げて、抜本的にコミュ力アップに取り組むべきだ。人の心、国そして世界を動かすのは結局のところコミュ力なのだから。
http://toyokeizai.net/articles/-/120308
確かに広島の被爆者を抱きしめているオバマ大統領の姿は、
映画の中の俳優のように男前だった。顔が変わった。
おととい、友人宅で観た「バック トゥ ザ フユーチャー」の中の天才科学者ドクが女性に一目ぼれする瞬間も、別の人のように男前だった。
役者とは、そういうモノである。
オバマ氏は役者だ。でも、いい役を演じたのだった。
友人のB子ちゃんは、オバマ氏が好きになったそうである。
確かにオバマ氏はディンゼル・ワシントンほどではなかったが、一瞬男前に見えた。
世界がヒロシマに意識を集中するのはいいけど、原爆を落とした人たちの目的は長崎のカトリックの総本山である浦賀天主堂と信者たちを潰すことでした。
戦後の日本を支配しやすくするために、自分たちの存在をたびたび指摘して、世界に警告を発していたカトリックは邪魔者でしかなかったから。
トランプ氏は、「大統領が広島に行っても謝らないなら行くのは彼の自由だ。誰が気にするか。」などと言っている姿がTVのニュースに出ていた。
B子ちゃんのママは、「アメリカは謝る必要が無い。戦争を始めたのは日本だから」と言った。
「でも、戦争が始まるように仕掛けたのはアメリカだよ。石油を売らないと言ったから、どうせ日本は数か月しか持たなかったんだから。日本が戦争を仕掛ける前に、アメリカが仕掛けてきてたんだから。」とわたしは反論したんだけど、無視された。
石油を売らないことは戦争ではないらしい。チュウゴクに戦争の費用を渡したり、フライングタイガーという飛行機部隊を派遣していたことは戦争ではないらしい。
戦争というのは、武器を使う前から始まっているんだよ。
オバマ大統領はたとえ謝ってくれても、アメリカが無差別に一般市民を大量に殺したことは変わらない。死んだ人間が生きかえるワケでもない。
謝らなくてもいいから、今後、原爆などの武器で一般市民を大量に殺すのはやめてほしい。
でも、人工地震と津波で、大量に一般市民を殺しているのなら、反省も無く同じことをしているということですが、、、。
魂をゆさぶる、神がかり的なコミュ力
岡本 純子 :コミュニケーションストラテジスト
2016年05月30日
見事なスピーチだった(写真:AP/アフロ)
米国の現職大統領として初めて広島を訪問したオバマ大統領。被爆者を抱きしめる姿や力強く情緒的なスピーチに心を震わせた人も多かったのではないか。
日本だけでなく、世界中が注目したまさに歴史的な出来事だったわけだが、その意義や重みを人々の心に強く印象付ける一因となったのが、オバマ大統領の圧倒的なコミュ力である。
もともと、スピーチの巧さでは高い評判を持つ天才的雄弁家であるが、そのカリスマぶりは今回の訪問でも遺憾なく発揮された。ケネディ、レーガン、クリントンなど歴代の米大統領の中には優れたスピーカーも多くいたが、オバマ大統領はもはや「神の領域」と言っていい。魂をゆさぶる「神がかり」的なコミュ力の秘密は何か。そして、今回の広島訪問の真の意図は何だったのか。彼の「言葉」と「ふるまい」から読み解いていこう。
スピーチを書いたのは「文学青年」
この連載の一覧はこちら
「71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、世界は一変した。閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を手にしたことがはっきりと示された」
まさに、舞台のオープニングシーンのような鮮やかな情景描写から始まるオバマ大統領のスピーチは、技術的・経済的発展を成し遂げながらも、戦争という愚行を止められない人類の「絶望的運命」を文学的な言葉と巧みなレトリックでつづった一大叙事詩だった。
人類はその歴史が始まった時から暴力的な衝突を始め、その後も絶え間なく戦争を繰り返してきたことに触れながら、「この空に立ち上ったキノコ雲の映像を見た時、私たちは人間の中核に矛盾があることを非常にくっきりとした形で思い起こした」と、自ら破滅を招く人間の不合理を憂うのである。
平家物語のようなもの悲しさと不条理観。しかし、ストーリーはここでは終わらない。
「私たちは、この街の中心に立ち、勇気を奮い起こして爆弾が投下された瞬間を想像する。私たちは、目の当たりにしたものに混乱した子どもたちの恐怖に思いを馳せる。私たちは、声なき叫び声に耳を傾ける」。この悲しい記憶こそが人類の道徳的な想像力をかき立て、希望をもたらす選択を将来にわたって続けようという意志につながるのだ、と説いたのだ。
だからこそ「核兵器廃絶」という理想を追い求め、広島を「核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地としなければならない」とスピーチを結んだ。
まさに、壮大な「絶望と希望」のストーリー。このスピーチを書いたのは、38歳のベン・ローズ大統領副補佐官(国家安全保障問題担当)と言われている。オバマ大統領の側近中の側近だ。もともとはニューヨーク大学の修士課程に在籍し、作家を目指す「文学青年」だった。その彼を政治の世界に駆り立てたのは2001年のあの出来事だった。
スピーチの最中に大統領の脳裏によぎったもの
「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」は、5月初旬にこのベン・ローズの大特集記事を組んだ。そこにはあの9月11日、マンハッタンの対岸から旅客機が超高層ビルに体当たりするのを自らの目で見た経験が語られている。「その日、すべてが変わった」。ショックと恐怖の経験は彼の価値観を根底から覆した。
オバマ大統領の広島スピーチに出てくる言葉の端々ににじみ出る人間の蛮行、愚行に対する憤り、絶望感は、眼前で何千人もの命が失われるシーンを目撃したローズ氏の原体験に紐づくものでもあるのだろう。この演説の中に、「どの偉大な宗教も、愛や平和、正義への道を約束するにもかかわらず、信仰こそ殺人許可証であると主張する信者たちから免れられない」といきなり宗教批判のような文言が出てきたことに違和感を覚えたが、これは、まさに9.11とその後のテロを指していると考えると合点がいく。
そして、あのスピーチを読み上げるオバマ大統領の悲痛さの裏には、アメリカが体験した9.11というある種の「敗戦」の悲劇を重ね合わせる心情が少なからずあったのではないか。そんな想像も働く。
同マガジンによれば、「優れた物語の語り手」であるローズ氏は「大統領のために考えるのではなく、大統領が何を考えているのか」がわかるのだという。「どこから僕が始まり、どこでオバマが終わるのか、わからない」とまで言う一心同体の存在にまでなったスピーチライターはまさにオバマ大統領の懐刀。ホワイトハウス随一のインフルエンサーとしてツィッターなどで情報を発信し、記者たちのオピニオンにも大きな影響を与える存在だ。
→次ページローズ氏が綴った広島訪問の意図とは?
そんな彼が、ウェブジャーナリズムのプラットフォームとして知られる「Medium」に自ら、広島訪問の意図をこうつづっている。「(アメリカが)核兵器を使った決断について触れるのではなく、我々共通の未来に対し、前向きなビジョンを示し、戦争という、とんでもなく、また破壊的な行為が人類にもたらす犠牲にスポットライトをあてる」。さらに、「核兵器を使用した唯一の国として、核兵器の根絶による平和と安全な世界の実現を推し進める特別な責任がある」ことを示し、「終戦時には想像もしえなかった深く強固な同盟関係を象徴する訪問である」と明言している。
ガーディアン紙によれば、このスピーチはローズ氏が起草し、関係省庁などがチェックをした上で、さらにローズ氏が推敲し、オバマ氏が最終的に手を入れたものだという。その証拠に、読み上げた原稿の上には彼の手書きのメモがたくさん書き込まれていたそうだ。自らの原体験も踏まえ、強い思いがあふれ出るスピーチを紡ぎ出すスピーチライターと、その原稿を自分のものにし、情感をこめて語ることができる話し手。この最強のコンビネーションが生み出した歴史的演説だったのである。
さらなる超絶コミュニケーション技
筆者はアメリカに在住していた時期がある。そのときにオバマ氏のお茶目でチャーミングな側面をたっぷり見てきたため、まごうことなきオバマファンなのだが、今回、さらに新たな超絶コミュニケーションテクニックに気づかされ、感服することがあった。
まずこのビデオを見ていただきたい。これは広島スピーチのほんの数時間前、岩国基地で行ったオバマ氏のスピーチだ。
[動画を固定]
原爆ドーム前のスピーチの厳粛さと打って変わった明るさ、陽気さ、面白さだ。ジョークを交え、とにかく楽しく、聴衆からも笑いが絶えない。
以前、東京オリンピック招致のプレゼンコーチ役だったマーティン・ニューマン氏にインタビューした際に、プレゼンの要諦は「どのようなムードを作るか」であると教えられた。つまり、スピーチやプレゼン、あらゆるコミュニケーションにおいて、最初に考えなければいけないのは、「What mood do you want to create?」(どのようなムードを作っていきたいか)ということで、会場をどのような空気で包みたいか? 聴衆にどのような印象を持ってもらいたいか?をコントロールできる人こそが超一流のプレゼンターである、というわけだ。そういう意味で、このオバマ氏の「場」の作り方はまさに天才的だ。
これはまさに、三枚目を演じたかと思えば、次の場面では悲劇のヒーローに転じる「役者」のようなものだ。そう、オバマは天才的役者なのである。といっても、わざとらしく、自分でない他人の役を演じる、のではない。一流の役者はその役に「なり切る」ことができる。
ストイックなまでの役作りで知られるアメリカの俳優ブラッドリー・クーパーのブロードウェイの舞台を見に行ったことがある。「まさに乗り移ったような演技」にすっかり、魅了されたのだが、あるラジオ番組で「けいこをひたすら重ねていると、何かが空から降りてきて、自分にとり付く」と話していた。被爆者と自然に抱き合い、握手をするあの姿も、計算されたものではない心の底から湧き出る思いだったからこそ、心動かされたのだ。まさに、イタコ、いや、ありとあらゆる自分の分身(アバター)に化身できる。これがオバマ氏の真骨頂である。
翻って、日本人のプレゼンが面白くないのは「話している」か「読んでいる」からである。オバマ氏を目指すのはハードルが高すぎるとしても、グローバル競争に勝ち抜くため、日本の掲げる平和や環境保護のメッセージを世界に伝えていくためにも、国を挙げて、抜本的にコミュ力アップに取り組むべきだ。人の心、国そして世界を動かすのは結局のところコミュ力なのだから。
http://toyokeizai.net/articles/-/120308
確かに広島の被爆者を抱きしめているオバマ大統領の姿は、
映画の中の俳優のように男前だった。顔が変わった。
おととい、友人宅で観た「バック トゥ ザ フユーチャー」の中の天才科学者ドクが女性に一目ぼれする瞬間も、別の人のように男前だった。
役者とは、そういうモノである。
オバマ氏は役者だ。でも、いい役を演じたのだった。
友人のB子ちゃんは、オバマ氏が好きになったそうである。
確かにオバマ氏はディンゼル・ワシントンほどではなかったが、一瞬男前に見えた。
世界がヒロシマに意識を集中するのはいいけど、原爆を落とした人たちの目的は長崎のカトリックの総本山である浦賀天主堂と信者たちを潰すことでした。
戦後の日本を支配しやすくするために、自分たちの存在をたびたび指摘して、世界に警告を発していたカトリックは邪魔者でしかなかったから。
トランプ氏は、「大統領が広島に行っても謝らないなら行くのは彼の自由だ。誰が気にするか。」などと言っている姿がTVのニュースに出ていた。
B子ちゃんのママは、「アメリカは謝る必要が無い。戦争を始めたのは日本だから」と言った。
「でも、戦争が始まるように仕掛けたのはアメリカだよ。石油を売らないと言ったから、どうせ日本は数か月しか持たなかったんだから。日本が戦争を仕掛ける前に、アメリカが仕掛けてきてたんだから。」とわたしは反論したんだけど、無視された。
石油を売らないことは戦争ではないらしい。チュウゴクに戦争の費用を渡したり、フライングタイガーという飛行機部隊を派遣していたことは戦争ではないらしい。
戦争というのは、武器を使う前から始まっているんだよ。
オバマ大統領はたとえ謝ってくれても、アメリカが無差別に一般市民を大量に殺したことは変わらない。死んだ人間が生きかえるワケでもない。
謝らなくてもいいから、今後、原爆などの武器で一般市民を大量に殺すのはやめてほしい。
でも、人工地震と津波で、大量に一般市民を殺しているのなら、反省も無く同じことをしているということですが、、、。