フッ素入りで無い歯磨きチューブを探す方が難しいんだから!
少量のフッ素は人間にとって安全だという証拠は、そもそも原爆計画の科学者らにより意図的に作り出されたもの
フッ素 私のメモ (随時追加させて頂いております)
2013年10月27日 21:21
先ずはこちらをご覧ください。
http://bit.ly/1hkmIvs
奇怪な三角関係
フッ素と歯,そして原爆
著者 ジョエル・グリフィス、クリス・ブライソン
翻訳 村上 徹(歯科医師・医学博士)
わき上がる疑惑
合衆国が子どものむし歯を減らすために水道にフッ素を添加してから50年ほどたったが、機密リストから外された政府の公文書によると、フッ素と核時代の幕開けとの間に驚くべき結託があった事が明らかであり、今なお論争されているこの公衆衛生の一手段のルーツが新しい光で照らし出されている。
合衆国では全体の水道の約2/3がフッ素化されている。しかし、多くの自治体は今なおその実施に抵抗しており、政府のいう安全性に不信を投げかけている。
合衆国が世界で最初に原爆を製造して優位にたった第2次世界大戦以来、公衆衛生の指導者たちは、一貫して、フッ素は安全であり子どもの歯にはよいものだと言い続けてきた。しかし、この安全だという判断は、私たちが入手にした第2次大戦中の原爆の製造に関係した当時のマンハッタン計画の秘密文書を見てみると、大いに再検討しなければならない。
これらの文書によれば、フッ素は原爆製造のカギとなる物質であった。核兵器の製造には欠かせないウラニウムやプルトニウムの生産には、何百万.ポンドものフッ素が不可欠であった。このようにして、最も毒性が強い物質の一つであるフッ素は、合衆国の原爆の製造計画の中で、労働者や工場付近の地域住民に健康障害をもたらすな物質として急速にその姿を現してきた。秘密文書はこのことを明らかにしている。
さらに内幕をあばいてみよう。
少量のフッ素は人間にとって安全だという証拠は、そもそも原爆計画の科学者らにより意図的に作り出されたものであり、彼らは極秘裡に、フッ素により傷害を受けた市民らの提訴に対抗する訴訟の請負人のために、「訴訟が有利になる証拠」を提供するよう命令したのであった。原爆計画で国が告訴された最初の裁判は、放射能ではなく、フッ素による傷害をめぐってのものだったことをこれらの文書は示している。
そのためには人体実験が必要だった。原爆計画の科学者たちは、1945年~1956年にニューヨーク州ニューバーグ市で実施された合衆国のもっとも広範な水道フッ素化の人体研究のなかで主導的な役割を果たした。その後、「F計画」という暗号で呼ばれている研究のなかで、彼らは州保健部の総力をあげた協力の下にニューバーグ市民の血液や組織を集めて分析した。
1948年に、F計画の科学者の手でアメリカ歯科医師会雑誌に発表された報告書の極秘の原文によると(その極秘版は我々が入手したものである)、フッ素による健康傷害の数々の事実が、合衆国原子エネルギー諮問委員会( U.S.Atomic
Energy Commission )の手で検閲されていたという事実がよくわかる。この委員会こそ、冷戦下における最も強力な国家機関だったのであり、その理由は国家の安全のためなのであった。
原爆計画のフッ素の安全性研究はロチェスター大学で行われたのであるが、そのロチェスター大学こそ、冷戦時代に、放射能人体実験をやった所として最も悪名が高いものの一つである。その人体実験とは、何の関係もない入院患者に、中毒量の放射性プルトニウムを注射したというものである。このフッ素研究もそれと同一の考え方で実施したものであり、「国家の安全」が至上命令なのであった。
政府の矛盾する関心とフッ素は安全だという動機とは、1950年代以降この問題をめぐって今なお激烈な論争が続けられている一般社会と、民間の研究者や健康問題の専門家、ジャーナリストたちにはまだ明らかにはされていない。
解禁された秘密文書は、おびただしく蓄積し続けている科学的事実と共鳴し、環境フッ素の健康への影響に対して疑問の合唱を引き起こしてくるのだ。
人間が急速にフッ素に曝露されるようになったのは第2次世界大戦以後のことであるが、これは何も、フッ素化された飲料水やフッ素 入り歯みがき剤だけによるのではなく、アルミニウムから
殺虫剤の生産に至るまでの大企業による環境汚染にも原因がある。フッ素は危険な産業化学物質なのだ。
その悪影響は端的に子どもの笑顔のなかに見て取れる。合衆国の非常に多数の若い人たちが、(ある都市ではじつに80パーセントにも達している)、歯牙フッ素症にかかっており、合衆国研究協議会によれば、これこそ過剰フッ素の曝露の最初の兆候なのだ。(この兆候は、特に前歯に白っぽい斑点として現れ、重症のものでは黒ずんだ点や帯状の縞模様となる。)
一般にはよく知られていないが、フッ素は同時に骨に蓄積する。「歯は骨の窓ですよ」と、セント・ローレンス大学(ニューヨーク)の化学科のポール・コネット教授は説明している。小児科の骨の専門家は、合衆国の若者に骨折が増加していることについて警告的だ。コネット教授や他の科学者は、1930年代以降の骨の傷害に関する研究によって、その原因としてフッ素に関心を寄せている。
解禁された秘密文書を読むと、事態はさらに緊迫してくる。というのも、我々のこの調査によれば、少量のフッ素が子どもの骨にとって安全であるという証言は、原爆計画の科学者が言い出したものだからなのだ。
「情報は埋められてしまったのですよ」と、ボストンにあるフォーサイス・デンタル・センターの元首席毒物学者であり、現在フッ素化クリニックに勤めているフィリス・マレンニクス博士は結論した。1990年代の初めにフォーサイスで行った博士らの動物実験では、フッ素は強力な中枢神経毒であり、たとえ少量であっても、フッ素は人間の脳機能に有害だと考えられた。(現在では、中国の疫学研究で、子どもが少量のフッ素に曝露されるとIQの低下が起こるという関係性が示されており、この考えを支持をしている。)マレンニクス博士の研究は、ピア・レビューの完備した立派な科学雑誌に発表されている。(脚注1)(脚注2)
研究しているうちに、マレンニクス博士は、フッ素の人間の脳に対する作用の研究が、それ以前のアメリカでは殆どといっていい程やられていないのを知ってびっくりした。その後、彼女は中枢神経研究に対する研究費の助成を申請したが、国立衛生研究所(National Institutes of Health)によって却下された。同研究所の評価委員らか
ら、彼女はニベもなくこういわれたという。「フッ素には中枢神経作用なんてありはしませんよ。」
原爆計画の機密文書には、他にもこんなことが書かれている。1944年4月29日のマンハッタン計画のメモ。「臨床的所見からみると、6フッ化ウランにはかなり強い中枢神経的作用があるようである。成分としてF(フッ素の暗号)は、T(ウランの暗号)よりも、よりその因子となりやすい。」
極秘のスタンプが押されたそのメモは、マンハッタン計画の医学部門の首席であるスタッフォード・ワレン大佐に提出された。ワレン大佐は、中枢神経に対する動物研究を許可するように要請された。「これらの成分を扱う仕事が不可欠な以上、これらに曝露されるとどんな心理状態が起こるかは、前もって知っておくことが必要である。これは、特定の誰彼を保護するということばかりではなく、取り乱した作業員が仕事をいい加減にし、そのために他人を傷害する事になるのを予防するという点からも重要である。」
同日、ワレン大佐はその研究計画を承認した。当時は1944年であって第2次大戦が最も熾烈を極わめ、世界で最初に原爆を持とうとする国家間の競争が最高潮に達した時でもあった。そんな重大な局面にフッ素の中枢神経研究が承認されたの考え合わせてみれば、メモに沿って提案書に述べられていた臨床的所見なるものは、よほど重大なものだったに違いない。
しかし、その提案書は合衆国国立公文書記録のファイルにはないのである。
「メモが見つかったとしても、それが言及している文書はありません。おそらく、まだ秘密扱いとなっているのでしょう。」と、メモが見つかった公文書舘アトランタ支部の主任書士であるチャールス・リーブは述べている。同様に、マンハッタン計画中で実施されたフッ素の中枢神経に関する研究の結果もファイルにはない。
このメモを検討したマレニックス博士は「びっくりしたなんてものじゃありません」という。
彼女はさらにこう言った。「なぜ衛生研は私に、『フッ素には中枢神経に対する作用はない』などと言ったのでしょうか。こんな文書がありながらですよ」。彼女は、中枢神経に対するフッ素研究はマッハッタン計画の中でやられたのに間違いないと言い、「原爆製造に従事するフッ素労働者の仕事がいい加減になって、それが原爆計画そのものに支障をきたすというこの警告が無視されたとは、とても考えられない」ともいう。しかし、この結果は極秘にされたのだ。恐らく、政府にとって国民との関係上、厄介な法律問題になると考えられたからなのであろう。
この中枢神経研究の提案書を書いた者は、H・C・ホッジ博士であった。彼は、この時期、マッハッタン計画のロチェスター大学部門のフッ素の毒性研究の主任であった。その50年近くも後になって、マレニックス博士は、ボストンのフォーサイス歯科センターで、彼女が行う中枢神経研究のコンサルタントだといわれて、物静かにゆっくりと歩く高齢な人物を紹介された。H・C・ホッジ博士だった。この時までには、ホッジは、フッ素の安全性に関する世界的権威者として名誉ある地位を確立していた。「しかし、彼は、私の相談に乗ってくれることになっていたのに、マンハッタン計画中の中枢神経研究には一言も触れませんでした」。とマレニックス博士は語る。この「ブラックホール」は、疑問を捨てきれないマレニックス博士には、到底受け入れられない。「現在でもフッ素の曝露は少なくないのに、私たちは、何が起こっているのか全く知らないでいるのです。ここから立ち去ることはできません。」という。
マレニックス博士の研究費の申請に関与した衛生研究所の科学評価担当者であるアントニオ・ノローラ博士は、彼女の申請は科学評価グループによって却下されたのだという。彼は、フッ素の中枢神経研究に対する研究所の見解には偏見があるという彼女の主張は「こじつけだ」といい、さらに言葉を継いで、「我々は事態の中に政治が介入してこないように、研究所のなかで懸命に努力しているのですよ」という。
フッ素と国家の安全
こうした一連の文書は、第2次世界大戦が最も熾烈を極めた1944年から始まっているが、丁度この時期は、ニュージャージー州ディープウォターにあるE・I・デュポン・ド・ヌムール会社の化学工場の風下に深刻な公害事件が起こった時である。その工場では、マンハッタン計画のために何百万ポンドというフッ素を製造していたのであるが、この事は世界で最初の原爆をつくり出すという競争の超極秘事項なのであった。
グローセスター郡とセーレム郡の風下にある農場は、その産物の質が極めてよいことで有名だった。桃はニューヨークのワルドルフ・アストリア・ホテルに直送され、トマトはキャンベル・スープによって買い占められていた程である。
しかし、1943年の夏あたりから作物は枯れ出し、農民たちの言葉によれば「このあたりの桃は何かで焼き尽くされてしまったようになった」のであった。
彼らは、雷雨が一晩中続いた後でアヒルが全滅したことがあったともいっている。ある農場の従業員は、その畑の産物を摘んで食べたため翌日まで一晩中嘔吐で苦しんだ。
「私は覚えていますが、馬は病気のようになり、硬直して動けなくなりました。」
私たちに、その時期に十代であったミルドレッド・ジォルナード氏はこう語った。牛はビッコになって立っていられなくなり、腹でイザって動いていたという。
この話は、フィラデルフィアのサドラー研究所のフィリップ・サドラーによって、彼が死去ぬ直前に行った録音インタビューのテープで確かめられている。サドラー研究所というのは、アメリカで最も古い化学コンサルタント会社であり、サドラーは、この被害に関する初期の研究を個人的に指導していたのである。
農民たちは知らなかったのだが、私たちによって明かにされた機密解除文書によれば、マンハッタン計画と政府への配慮から、このニュージャージイ事件はクギづけで封印されてしまったのである。戦争が終了したあと、1946年3月1日づけのマンハッタン計画にの秘密メモのなかで、フッ素毒性研究の主任であったH・C・ホッジは、彼の上司でありかつ医学部門の長であったスタッホード・L・ワォレン大佐にあてて困惑気味にこう書いている。「ニュージャージイのある部門でのフッ素による環境汚染に関しては、明らかに4つの疑問がありました。」ホッジは次のように述べている。
1.1944年の桃の被害に関する疑問。
2.この地域で栽培された野菜中の異常なフッ素濃度の報告。
3.この地域の住民の血中のフッ素濃度の異常な上昇。
4.この地域の馬や牛に重症な中毒があったとの疑いを起こさせる報告。
ニュージャージイの農民らは戦争が終わるのを待ち、デュポン社とマンハッタン計画をフッ素被害により告発した。これは合衆国の原爆計画に対する最初の提訴であったといわれている。
この訴訟はごくありふれた裁判のよう思われたが、じつは政府を震撼させたものであったことを極秘文書は明らかにしている。
マンハッタン計画の長であったL・R・グルーブス大将の指示の下に、ワシントンで秘密会議が招集され、軍当局、マンハッタン計画当局、食品薬品局、農務省、法務省、合衆国化学戦当局、エッジウッド兵器厰、基準局、デュポン社の弁護士など、多数の科学者や官僚が強制的に出席させられた。
解禁されたこの会議の秘密メモを見ると、ニュージャージイの農民を裁判で負かすために、政府が極秘裡に全勢力を動員したことが明らかである。
マンハッタン計画に従事していたクーパー・B・ローデス中佐がグルーブス将軍にあてたメモで言明している所によれば、「これらの各部門は、ニュージャージーの桃園のオーナーによる訴訟に対抗して、政府の利益を守るために法廷で使用される証拠を獲得するための科学的研究を行った」のである。
1945年8月27日
1:ニュージャージー州ローヤー・ペンス・ネックにおける農作物被害の件。宛先:ワシントンDC、ペンタゴンビル、陸軍司令官殿。
陸軍大臣の要請により、農務省は、マンハッタン計画に関連するプラントの排煙に起因する農作物の被害の訴えを調査することに同意した。署名 合衆国陸軍大将 L・R・グルーブス
「司法省は、この訴訟から我々を防御することに協力している」と、グルーブス将軍は合衆国上院原子力委員会の委員長に提出した1946年2月28日のメモに記している。
なぜ、ニュージャージーの農民の提訴が、国家の安全上の緊急事態なのか。1946年には、合衆国は原爆の製造に全勢力を傾注しはじめていたのだ。アメリカ以外の国はまだどこも核兵器の実験を行ったところはなく、原爆はアメリカにとって戦後の国際社会での主導権を確保するために極めて重要と考えられていたのである。ニュウジャージーのフッ素訴訟は、この戦略に対する深刻な障害となったのである。
「際限のない訴訟の亡霊が軍を悩ませていたのである」と、ランシング・レイモントは、世間から喝采を浴びた「三位一体の日」という彼の本の中に書いている。彼はこの本で最初の原爆実験を描いている。
フッ素の場合に即していえば、「もし、農民が勝訴するようなことがあれば、さらに次々と訴訟が起こり、そうなれば、フッ素を使用する原爆計画そのものを妨げることになりかねなかったのでしょう」と、ジャックリーン・キッテルは述べる。彼女はテネシー州の核問題に詳しい弁護士で(彼女は放射能の人体実験裁判で原告に名を連ねた)、解禁されたフッ素文書を調査した。
彼女はさらにこう言う。
「人体の傷害に関する報告は、PR問題だけでなく莫大な和解費用を要することになるという点からも、政府にとっては脅威となったでしょう」。
1946年のマンハッタン計画の極秘メモによれば、このことは勿論デュポン社にとっても「心理的な反動が起こりかねない」という事で非常な関心事となった。その地域の農産物の「フッ素濃度が異常に高い」という理由で食品薬品局から通商停止になりかねないという危機に直面して、デュポン社はワシントンの食品薬品局に直ちに弁護士を派遣した。その結果、そこで急遽、会議が開かれた。
その翌日にグルーブス将軍に宛てられたメモによれば、デュポン社の弁護士はそこで次のような熱弁を奮った。「係争中のことがらに関して、もし、食品薬品局が何らかの行動をとるような事があれば、それはデュポン社にとって深刻な影響を及ぼしましょうし、弊社と一般社会との関係も非常に悪化するのは間違いありません。」会議が保留となった後で、マンハッタン計画の指揮官であったジョン・デービスは、食品薬品局の食品部門の主任であるホワイト博士と接触し、食品薬品局がとる処置によっては発生しかねない結果について、強い関心があることを表明した。
通商停止は起こらなかった。その代わり、ニュージャージィ地区におけるフッ素問題に関する新しい検査は、農務省ではなく、軍の化学戦当局が指揮をとることとなった。その理由は「化学戦当局の手によってなされる研究の方が、もし、原告による裁判が開始されれば、証拠としてより重要なものとなる」からであった。このメモにはグルーブス将軍のサインがしてある。
一方、一般社会との関係は未解決のまま残された。その地方の市民らはフッ素でパニックに陥っていた。
農民の代表者であるウィラード・キレは、個人的にグルーブス将軍に招待されて食事を共にした。グルーブス将軍は、1946年3月26日当時の戦争局では「最初に原爆をつくった男」として知られていた。キレは主治医からフッ素中毒症と診断されていたが、政府の良識を信じて昼食に出かけた。その翌日、彼は将軍にあてて、彼以外の農民もそこに出席できていたならとの希望を述べ、次のように書いた。「私以外の者もきっと、この特殊な事件に対する彼らの関心が、〔将軍のような〕誰もが納得する誠実さをもつ極めて地位の高い人によって保護されているという実感ももって立ち帰ったことでありましょう。」
それに くマンハッタン計画の極秘メモには、一般社会との関係に関する問題解決策が、フッ素毒性研究の主任研究員であったH・C・ホッジによって示唆されている。彼はワレン大佐に次のように書いている。「セーレム地区やグローセスター郡の住民が抱いているフッ素に対する恐怖感をやわらげるために、フッ素について、ひょっとしたらフッ素は歯の健康にはいいものだという趣旨の講演を企画してみたら如何がかと思いますが。」勿論こんな講演はニュージャージイ州ばかりでなく、冷戦時代のアメリカでは至るところで行われたのであった。
ニュージャージイの農民の訴訟は、結局は、裁判を和解に導いたかもしれない決定的な情報、つまり、戦争中にデュポン社がどれほどのフッ素を環境中に放出していたかを明らかにする事を政府が拒否したため、困難な立場に追い込まれた。マンハッタン計画のC・A・タニー二世少将は「この情報開示は合衆国の軍事上の安全に対して有害である」と書いている。この農民の子孫はまだこの地区に住んでいるが、この人たちに行ったインタビューによれば、農民らは経済的な賠償で和解するように懐柔されたという。
「私たちが知っていることの全ては、とにかくデュポン社がこの周辺の桃の木を枯れつくさせるような何らかの化学物質を排出したという事だけなのです」と、アンジェロ・ジオルダーノは当時を振り返って言う。彼の父のジェームスは、最初の原告の一人であった。「それ以後、桃の木はとにかくダメになりまして、我々は桃を諦めるより仕様がなかったのでした。」彼の妹さんのミルドレッドも、当時を思い出しながら「馬も牛も体が硬直して、うまく動けないようでしたわ」といった。「それもこれもフッ素のせいだったのかしらね」。(獣医学の毒物の専門家に聞くと、彼女が私にくわしく話した家畜の症状は、フッ素中毒の主な兆候だということである。)
ジオルダーノ家の人たちも、骨や関節の病気で悩まされた、とミルドレッドは言葉を足した。ジオルダーノ一族が受け取った和解金について、アンジェロは思い出しながら私たちにこう語っている。「父が言っていましたっけ。受け取った金は200ドルだったってね。」
農民たちが情報を求めようとしても、ことごとく妨害された。それ以後、彼らの訴えは長い間忘れられていたのである。しかし、知らない間に彼らは足跡を歴史に刻んでいたのであった。すなわち、彼らの健康が障害されたという訴えは、ワシントンの権力の回廊を通じて広がってゆき、原爆計画の中で行われたフッ素の健康への影響に関する徹底的な極秘研究の引き金を引いたのである。マンハッタン計画の副官であったローデス大佐がグルーブス将軍に宛てた1945年の極秘メモにはこう書いてある。
「動物や人間が〔ニュージャージイ〕地方でフッ化水素の排煙で障害を受けたという訴えがある以上、これに関する訴訟が現在は差し迫ってはいないといえ、ロチェスター大学はフッ素の毒作用を決定する実験を指導すべきであります。」
少量のフッ素は安全だとする証明の多くは、原爆計画が人間に障害を与えたという訴訟の対策としてロチェスター大学で行われた戦後の研究によっているのである。
フッ素と冷戦
フッ素の安全性に関する研究がロチェスター大学に委託されたのは、別に驚くべきことではない。第2次世界大戦の期間中、政府は初めて、政府系の研究所や私立大学での科学研究に対して、大規模な資金援助をするようになったのである。そしてその優先権は、軍の秘密の要請に多く与えられたのであった。
特にニューヨークの北方にある名門のニューヨーク大学は、戦時下ではマンハッタン計画の重要部局を収容しており、新しい「特殊な材料」であるウラニウム、プルトニウム、ベリリウム、フッ素など原爆の製造に使用される物質の健康への影響を研究していた。これらの研究は戦後も継続され、マンハッタン計画やその後継機関である原子力委員会から、何百万ドルもの資金が流れていたのである。(もちろん、原爆は1940年代から50年代にかけての合衆国の全ての科学に消しがたい痕跡を残しており、ノアム・コムスキーの1996年の著書「冷戦と大学」によれば、大学の研究費の90%近くが、この時期の防衛当局や原子力委員会から注ぎ込まれていたのである。)
ロチェスター大学医学部は、原爆計画の古参科学者にとってはまさに回転ドア同様であった。戦後の教授団には、マンハッタン計画の医学部門のトップであったスタッホード・ワォレンが参加しており、原爆計画のフッ素研究の主任であったH・C・ホッジもいた。
しかし、軍の機密と医科学の結婚は奇っ怪な子供を産み落とした。プログラムFという暗号で呼ばれたロチェスター大学の極秘フッ素研究は、原子力計画の指導の下で原子力委員会出資の秘密施設をストロング記念病院に備えていた。冷戦下の最も悪名高い実験の一つである、無関係な入院患者への中毒量の放射性プルトニウムの注射を行ったのもまさにここであった。この実験をあばいたアイリーン・ウエルサムは、それでピューリッツアー賞を受賞した。この事件は1995年に大統領調査にまで発展し、被害者への和解金は数百万ドルにも昇った。
プログラムFは子どもの歯について研究したのではなかった。まさしくそれは原爆計画に対する訴訟から発芽したものだ。その主目的は、政府や核の請負人らが、人間に対する障害で告訴された裁判において相手をうち負かすため、有利な情報を提供するところにあった。プログラムFの指導者は他ならぬH・C・ホッジその人であった。
この人物はニュージャージーのフッ素汚染事件で、強く主張された人体への障害に関するマンハッタン計画中のフッ素研究を指導したことがあった。
プログラムFの目的は、1948年の極秘文書のなかで語られている。それは次のようなものだ。「数年前に強く主張された果実の減産から巻き起こった訴訟に対して、被告(政府)が有利となるような証拠を供給すること。その問題の多くは既に公開されている。同地域の住民の血液中に過剰なフッ素があったことが報告されている以上、我々の主な努力は、血液中のフッ素と毒作用との関連性を記述することに注がれる」。
ここで言及されている訴訟と人体への障害に関する訴えというのは、もちろん、原爆計画とその請負人に対してのものであったことはいうまでもない。そうである以上、プログラムFの目的は、原爆計画への告訴に対して有利な反証を獲得するということになる。そのため、この研究は、被告によって指導されるということになったのである。
利害の核心がどこにあるかは明らかであった。もし、障害を与えるフッ素の量の下限が発見されたなら、(これはプログラムFの危険性ということに他ならない)、それは原爆計画そのものを明らかにすることになり、計画の請負人らは、人間の健康に対する傷害という罪で告発され、社会の抗議の対象となったであろう。 (原文太字)
フッ素 私のメモ (随時追加させて頂いております)
2013年10月27日 21:21
先ずはこちらをご覧ください。
http://bit.ly/1hkmIvs
奇怪な三角関係
フッ素と歯,そして原爆
著者 ジョエル・グリフィス、クリス・ブライソン
翻訳 村上 徹(歯科医師・医学博士)
わき上がる疑惑
合衆国が子どものむし歯を減らすために水道にフッ素を添加してから50年ほどたったが、機密リストから外された政府の公文書によると、フッ素と核時代の幕開けとの間に驚くべき結託があった事が明らかであり、今なお論争されているこの公衆衛生の一手段のルーツが新しい光で照らし出されている。
合衆国では全体の水道の約2/3がフッ素化されている。しかし、多くの自治体は今なおその実施に抵抗しており、政府のいう安全性に不信を投げかけている。
合衆国が世界で最初に原爆を製造して優位にたった第2次世界大戦以来、公衆衛生の指導者たちは、一貫して、フッ素は安全であり子どもの歯にはよいものだと言い続けてきた。しかし、この安全だという判断は、私たちが入手にした第2次大戦中の原爆の製造に関係した当時のマンハッタン計画の秘密文書を見てみると、大いに再検討しなければならない。
これらの文書によれば、フッ素は原爆製造のカギとなる物質であった。核兵器の製造には欠かせないウラニウムやプルトニウムの生産には、何百万.ポンドものフッ素が不可欠であった。このようにして、最も毒性が強い物質の一つであるフッ素は、合衆国の原爆の製造計画の中で、労働者や工場付近の地域住民に健康障害をもたらすな物質として急速にその姿を現してきた。秘密文書はこのことを明らかにしている。
さらに内幕をあばいてみよう。
少量のフッ素は人間にとって安全だという証拠は、そもそも原爆計画の科学者らにより意図的に作り出されたものであり、彼らは極秘裡に、フッ素により傷害を受けた市民らの提訴に対抗する訴訟の請負人のために、「訴訟が有利になる証拠」を提供するよう命令したのであった。原爆計画で国が告訴された最初の裁判は、放射能ではなく、フッ素による傷害をめぐってのものだったことをこれらの文書は示している。
そのためには人体実験が必要だった。原爆計画の科学者たちは、1945年~1956年にニューヨーク州ニューバーグ市で実施された合衆国のもっとも広範な水道フッ素化の人体研究のなかで主導的な役割を果たした。その後、「F計画」という暗号で呼ばれている研究のなかで、彼らは州保健部の総力をあげた協力の下にニューバーグ市民の血液や組織を集めて分析した。
1948年に、F計画の科学者の手でアメリカ歯科医師会雑誌に発表された報告書の極秘の原文によると(その極秘版は我々が入手したものである)、フッ素による健康傷害の数々の事実が、合衆国原子エネルギー諮問委員会( U.S.Atomic
Energy Commission )の手で検閲されていたという事実がよくわかる。この委員会こそ、冷戦下における最も強力な国家機関だったのであり、その理由は国家の安全のためなのであった。
原爆計画のフッ素の安全性研究はロチェスター大学で行われたのであるが、そのロチェスター大学こそ、冷戦時代に、放射能人体実験をやった所として最も悪名が高いものの一つである。その人体実験とは、何の関係もない入院患者に、中毒量の放射性プルトニウムを注射したというものである。このフッ素研究もそれと同一の考え方で実施したものであり、「国家の安全」が至上命令なのであった。
政府の矛盾する関心とフッ素は安全だという動機とは、1950年代以降この問題をめぐって今なお激烈な論争が続けられている一般社会と、民間の研究者や健康問題の専門家、ジャーナリストたちにはまだ明らかにはされていない。
解禁された秘密文書は、おびただしく蓄積し続けている科学的事実と共鳴し、環境フッ素の健康への影響に対して疑問の合唱を引き起こしてくるのだ。
人間が急速にフッ素に曝露されるようになったのは第2次世界大戦以後のことであるが、これは何も、フッ素化された飲料水やフッ素 入り歯みがき剤だけによるのではなく、アルミニウムから
殺虫剤の生産に至るまでの大企業による環境汚染にも原因がある。フッ素は危険な産業化学物質なのだ。
その悪影響は端的に子どもの笑顔のなかに見て取れる。合衆国の非常に多数の若い人たちが、(ある都市ではじつに80パーセントにも達している)、歯牙フッ素症にかかっており、合衆国研究協議会によれば、これこそ過剰フッ素の曝露の最初の兆候なのだ。(この兆候は、特に前歯に白っぽい斑点として現れ、重症のものでは黒ずんだ点や帯状の縞模様となる。)
一般にはよく知られていないが、フッ素は同時に骨に蓄積する。「歯は骨の窓ですよ」と、セント・ローレンス大学(ニューヨーク)の化学科のポール・コネット教授は説明している。小児科の骨の専門家は、合衆国の若者に骨折が増加していることについて警告的だ。コネット教授や他の科学者は、1930年代以降の骨の傷害に関する研究によって、その原因としてフッ素に関心を寄せている。
解禁された秘密文書を読むと、事態はさらに緊迫してくる。というのも、我々のこの調査によれば、少量のフッ素が子どもの骨にとって安全であるという証言は、原爆計画の科学者が言い出したものだからなのだ。
「情報は埋められてしまったのですよ」と、ボストンにあるフォーサイス・デンタル・センターの元首席毒物学者であり、現在フッ素化クリニックに勤めているフィリス・マレンニクス博士は結論した。1990年代の初めにフォーサイスで行った博士らの動物実験では、フッ素は強力な中枢神経毒であり、たとえ少量であっても、フッ素は人間の脳機能に有害だと考えられた。(現在では、中国の疫学研究で、子どもが少量のフッ素に曝露されるとIQの低下が起こるという関係性が示されており、この考えを支持をしている。)マレンニクス博士の研究は、ピア・レビューの完備した立派な科学雑誌に発表されている。(脚注1)(脚注2)
研究しているうちに、マレンニクス博士は、フッ素の人間の脳に対する作用の研究が、それ以前のアメリカでは殆どといっていい程やられていないのを知ってびっくりした。その後、彼女は中枢神経研究に対する研究費の助成を申請したが、国立衛生研究所(National Institutes of Health)によって却下された。同研究所の評価委員らか
ら、彼女はニベもなくこういわれたという。「フッ素には中枢神経作用なんてありはしませんよ。」
原爆計画の機密文書には、他にもこんなことが書かれている。1944年4月29日のマンハッタン計画のメモ。「臨床的所見からみると、6フッ化ウランにはかなり強い中枢神経的作用があるようである。成分としてF(フッ素の暗号)は、T(ウランの暗号)よりも、よりその因子となりやすい。」
極秘のスタンプが押されたそのメモは、マンハッタン計画の医学部門の首席であるスタッフォード・ワレン大佐に提出された。ワレン大佐は、中枢神経に対する動物研究を許可するように要請された。「これらの成分を扱う仕事が不可欠な以上、これらに曝露されるとどんな心理状態が起こるかは、前もって知っておくことが必要である。これは、特定の誰彼を保護するということばかりではなく、取り乱した作業員が仕事をいい加減にし、そのために他人を傷害する事になるのを予防するという点からも重要である。」
同日、ワレン大佐はその研究計画を承認した。当時は1944年であって第2次大戦が最も熾烈を極わめ、世界で最初に原爆を持とうとする国家間の競争が最高潮に達した時でもあった。そんな重大な局面にフッ素の中枢神経研究が承認されたの考え合わせてみれば、メモに沿って提案書に述べられていた臨床的所見なるものは、よほど重大なものだったに違いない。
しかし、その提案書は合衆国国立公文書記録のファイルにはないのである。
「メモが見つかったとしても、それが言及している文書はありません。おそらく、まだ秘密扱いとなっているのでしょう。」と、メモが見つかった公文書舘アトランタ支部の主任書士であるチャールス・リーブは述べている。同様に、マンハッタン計画中で実施されたフッ素の中枢神経に関する研究の結果もファイルにはない。
このメモを検討したマレニックス博士は「びっくりしたなんてものじゃありません」という。
彼女はさらにこう言った。「なぜ衛生研は私に、『フッ素には中枢神経に対する作用はない』などと言ったのでしょうか。こんな文書がありながらですよ」。彼女は、中枢神経に対するフッ素研究はマッハッタン計画の中でやられたのに間違いないと言い、「原爆製造に従事するフッ素労働者の仕事がいい加減になって、それが原爆計画そのものに支障をきたすというこの警告が無視されたとは、とても考えられない」ともいう。しかし、この結果は極秘にされたのだ。恐らく、政府にとって国民との関係上、厄介な法律問題になると考えられたからなのであろう。
この中枢神経研究の提案書を書いた者は、H・C・ホッジ博士であった。彼は、この時期、マッハッタン計画のロチェスター大学部門のフッ素の毒性研究の主任であった。その50年近くも後になって、マレニックス博士は、ボストンのフォーサイス歯科センターで、彼女が行う中枢神経研究のコンサルタントだといわれて、物静かにゆっくりと歩く高齢な人物を紹介された。H・C・ホッジ博士だった。この時までには、ホッジは、フッ素の安全性に関する世界的権威者として名誉ある地位を確立していた。「しかし、彼は、私の相談に乗ってくれることになっていたのに、マンハッタン計画中の中枢神経研究には一言も触れませんでした」。とマレニックス博士は語る。この「ブラックホール」は、疑問を捨てきれないマレニックス博士には、到底受け入れられない。「現在でもフッ素の曝露は少なくないのに、私たちは、何が起こっているのか全く知らないでいるのです。ここから立ち去ることはできません。」という。
マレニックス博士の研究費の申請に関与した衛生研究所の科学評価担当者であるアントニオ・ノローラ博士は、彼女の申請は科学評価グループによって却下されたのだという。彼は、フッ素の中枢神経研究に対する研究所の見解には偏見があるという彼女の主張は「こじつけだ」といい、さらに言葉を継いで、「我々は事態の中に政治が介入してこないように、研究所のなかで懸命に努力しているのですよ」という。
フッ素と国家の安全
こうした一連の文書は、第2次世界大戦が最も熾烈を極めた1944年から始まっているが、丁度この時期は、ニュージャージー州ディープウォターにあるE・I・デュポン・ド・ヌムール会社の化学工場の風下に深刻な公害事件が起こった時である。その工場では、マンハッタン計画のために何百万ポンドというフッ素を製造していたのであるが、この事は世界で最初の原爆をつくり出すという競争の超極秘事項なのであった。
グローセスター郡とセーレム郡の風下にある農場は、その産物の質が極めてよいことで有名だった。桃はニューヨークのワルドルフ・アストリア・ホテルに直送され、トマトはキャンベル・スープによって買い占められていた程である。
しかし、1943年の夏あたりから作物は枯れ出し、農民たちの言葉によれば「このあたりの桃は何かで焼き尽くされてしまったようになった」のであった。
彼らは、雷雨が一晩中続いた後でアヒルが全滅したことがあったともいっている。ある農場の従業員は、その畑の産物を摘んで食べたため翌日まで一晩中嘔吐で苦しんだ。
「私は覚えていますが、馬は病気のようになり、硬直して動けなくなりました。」
私たちに、その時期に十代であったミルドレッド・ジォルナード氏はこう語った。牛はビッコになって立っていられなくなり、腹でイザって動いていたという。
この話は、フィラデルフィアのサドラー研究所のフィリップ・サドラーによって、彼が死去ぬ直前に行った録音インタビューのテープで確かめられている。サドラー研究所というのは、アメリカで最も古い化学コンサルタント会社であり、サドラーは、この被害に関する初期の研究を個人的に指導していたのである。
農民たちは知らなかったのだが、私たちによって明かにされた機密解除文書によれば、マンハッタン計画と政府への配慮から、このニュージャージイ事件はクギづけで封印されてしまったのである。戦争が終了したあと、1946年3月1日づけのマンハッタン計画にの秘密メモのなかで、フッ素毒性研究の主任であったH・C・ホッジは、彼の上司でありかつ医学部門の長であったスタッホード・L・ワォレン大佐にあてて困惑気味にこう書いている。「ニュージャージイのある部門でのフッ素による環境汚染に関しては、明らかに4つの疑問がありました。」ホッジは次のように述べている。
1.1944年の桃の被害に関する疑問。
2.この地域で栽培された野菜中の異常なフッ素濃度の報告。
3.この地域の住民の血中のフッ素濃度の異常な上昇。
4.この地域の馬や牛に重症な中毒があったとの疑いを起こさせる報告。
ニュージャージイの農民らは戦争が終わるのを待ち、デュポン社とマンハッタン計画をフッ素被害により告発した。これは合衆国の原爆計画に対する最初の提訴であったといわれている。
この訴訟はごくありふれた裁判のよう思われたが、じつは政府を震撼させたものであったことを極秘文書は明らかにしている。
マンハッタン計画の長であったL・R・グルーブス大将の指示の下に、ワシントンで秘密会議が招集され、軍当局、マンハッタン計画当局、食品薬品局、農務省、法務省、合衆国化学戦当局、エッジウッド兵器厰、基準局、デュポン社の弁護士など、多数の科学者や官僚が強制的に出席させられた。
解禁されたこの会議の秘密メモを見ると、ニュージャージイの農民を裁判で負かすために、政府が極秘裡に全勢力を動員したことが明らかである。
マンハッタン計画に従事していたクーパー・B・ローデス中佐がグルーブス将軍にあてたメモで言明している所によれば、「これらの各部門は、ニュージャージーの桃園のオーナーによる訴訟に対抗して、政府の利益を守るために法廷で使用される証拠を獲得するための科学的研究を行った」のである。
1945年8月27日
1:ニュージャージー州ローヤー・ペンス・ネックにおける農作物被害の件。宛先:ワシントンDC、ペンタゴンビル、陸軍司令官殿。
陸軍大臣の要請により、農務省は、マンハッタン計画に関連するプラントの排煙に起因する農作物の被害の訴えを調査することに同意した。署名 合衆国陸軍大将 L・R・グルーブス
「司法省は、この訴訟から我々を防御することに協力している」と、グルーブス将軍は合衆国上院原子力委員会の委員長に提出した1946年2月28日のメモに記している。
なぜ、ニュージャージーの農民の提訴が、国家の安全上の緊急事態なのか。1946年には、合衆国は原爆の製造に全勢力を傾注しはじめていたのだ。アメリカ以外の国はまだどこも核兵器の実験を行ったところはなく、原爆はアメリカにとって戦後の国際社会での主導権を確保するために極めて重要と考えられていたのである。ニュウジャージーのフッ素訴訟は、この戦略に対する深刻な障害となったのである。
「際限のない訴訟の亡霊が軍を悩ませていたのである」と、ランシング・レイモントは、世間から喝采を浴びた「三位一体の日」という彼の本の中に書いている。彼はこの本で最初の原爆実験を描いている。
フッ素の場合に即していえば、「もし、農民が勝訴するようなことがあれば、さらに次々と訴訟が起こり、そうなれば、フッ素を使用する原爆計画そのものを妨げることになりかねなかったのでしょう」と、ジャックリーン・キッテルは述べる。彼女はテネシー州の核問題に詳しい弁護士で(彼女は放射能の人体実験裁判で原告に名を連ねた)、解禁されたフッ素文書を調査した。
彼女はさらにこう言う。
「人体の傷害に関する報告は、PR問題だけでなく莫大な和解費用を要することになるという点からも、政府にとっては脅威となったでしょう」。
1946年のマンハッタン計画の極秘メモによれば、このことは勿論デュポン社にとっても「心理的な反動が起こりかねない」という事で非常な関心事となった。その地域の農産物の「フッ素濃度が異常に高い」という理由で食品薬品局から通商停止になりかねないという危機に直面して、デュポン社はワシントンの食品薬品局に直ちに弁護士を派遣した。その結果、そこで急遽、会議が開かれた。
その翌日にグルーブス将軍に宛てられたメモによれば、デュポン社の弁護士はそこで次のような熱弁を奮った。「係争中のことがらに関して、もし、食品薬品局が何らかの行動をとるような事があれば、それはデュポン社にとって深刻な影響を及ぼしましょうし、弊社と一般社会との関係も非常に悪化するのは間違いありません。」会議が保留となった後で、マンハッタン計画の指揮官であったジョン・デービスは、食品薬品局の食品部門の主任であるホワイト博士と接触し、食品薬品局がとる処置によっては発生しかねない結果について、強い関心があることを表明した。
通商停止は起こらなかった。その代わり、ニュージャージィ地区におけるフッ素問題に関する新しい検査は、農務省ではなく、軍の化学戦当局が指揮をとることとなった。その理由は「化学戦当局の手によってなされる研究の方が、もし、原告による裁判が開始されれば、証拠としてより重要なものとなる」からであった。このメモにはグルーブス将軍のサインがしてある。
一方、一般社会との関係は未解決のまま残された。その地方の市民らはフッ素でパニックに陥っていた。
農民の代表者であるウィラード・キレは、個人的にグルーブス将軍に招待されて食事を共にした。グルーブス将軍は、1946年3月26日当時の戦争局では「最初に原爆をつくった男」として知られていた。キレは主治医からフッ素中毒症と診断されていたが、政府の良識を信じて昼食に出かけた。その翌日、彼は将軍にあてて、彼以外の農民もそこに出席できていたならとの希望を述べ、次のように書いた。「私以外の者もきっと、この特殊な事件に対する彼らの関心が、〔将軍のような〕誰もが納得する誠実さをもつ極めて地位の高い人によって保護されているという実感ももって立ち帰ったことでありましょう。」
それに くマンハッタン計画の極秘メモには、一般社会との関係に関する問題解決策が、フッ素毒性研究の主任研究員であったH・C・ホッジによって示唆されている。彼はワレン大佐に次のように書いている。「セーレム地区やグローセスター郡の住民が抱いているフッ素に対する恐怖感をやわらげるために、フッ素について、ひょっとしたらフッ素は歯の健康にはいいものだという趣旨の講演を企画してみたら如何がかと思いますが。」勿論こんな講演はニュージャージイ州ばかりでなく、冷戦時代のアメリカでは至るところで行われたのであった。
ニュージャージイの農民の訴訟は、結局は、裁判を和解に導いたかもしれない決定的な情報、つまり、戦争中にデュポン社がどれほどのフッ素を環境中に放出していたかを明らかにする事を政府が拒否したため、困難な立場に追い込まれた。マンハッタン計画のC・A・タニー二世少将は「この情報開示は合衆国の軍事上の安全に対して有害である」と書いている。この農民の子孫はまだこの地区に住んでいるが、この人たちに行ったインタビューによれば、農民らは経済的な賠償で和解するように懐柔されたという。
「私たちが知っていることの全ては、とにかくデュポン社がこの周辺の桃の木を枯れつくさせるような何らかの化学物質を排出したという事だけなのです」と、アンジェロ・ジオルダーノは当時を振り返って言う。彼の父のジェームスは、最初の原告の一人であった。「それ以後、桃の木はとにかくダメになりまして、我々は桃を諦めるより仕様がなかったのでした。」彼の妹さんのミルドレッドも、当時を思い出しながら「馬も牛も体が硬直して、うまく動けないようでしたわ」といった。「それもこれもフッ素のせいだったのかしらね」。(獣医学の毒物の専門家に聞くと、彼女が私にくわしく話した家畜の症状は、フッ素中毒の主な兆候だということである。)
ジオルダーノ家の人たちも、骨や関節の病気で悩まされた、とミルドレッドは言葉を足した。ジオルダーノ一族が受け取った和解金について、アンジェロは思い出しながら私たちにこう語っている。「父が言っていましたっけ。受け取った金は200ドルだったってね。」
農民たちが情報を求めようとしても、ことごとく妨害された。それ以後、彼らの訴えは長い間忘れられていたのである。しかし、知らない間に彼らは足跡を歴史に刻んでいたのであった。すなわち、彼らの健康が障害されたという訴えは、ワシントンの権力の回廊を通じて広がってゆき、原爆計画の中で行われたフッ素の健康への影響に関する徹底的な極秘研究の引き金を引いたのである。マンハッタン計画の副官であったローデス大佐がグルーブス将軍に宛てた1945年の極秘メモにはこう書いてある。
「動物や人間が〔ニュージャージイ〕地方でフッ化水素の排煙で障害を受けたという訴えがある以上、これに関する訴訟が現在は差し迫ってはいないといえ、ロチェスター大学はフッ素の毒作用を決定する実験を指導すべきであります。」
少量のフッ素は安全だとする証明の多くは、原爆計画が人間に障害を与えたという訴訟の対策としてロチェスター大学で行われた戦後の研究によっているのである。
フッ素と冷戦
フッ素の安全性に関する研究がロチェスター大学に委託されたのは、別に驚くべきことではない。第2次世界大戦の期間中、政府は初めて、政府系の研究所や私立大学での科学研究に対して、大規模な資金援助をするようになったのである。そしてその優先権は、軍の秘密の要請に多く与えられたのであった。
特にニューヨークの北方にある名門のニューヨーク大学は、戦時下ではマンハッタン計画の重要部局を収容しており、新しい「特殊な材料」であるウラニウム、プルトニウム、ベリリウム、フッ素など原爆の製造に使用される物質の健康への影響を研究していた。これらの研究は戦後も継続され、マンハッタン計画やその後継機関である原子力委員会から、何百万ドルもの資金が流れていたのである。(もちろん、原爆は1940年代から50年代にかけての合衆国の全ての科学に消しがたい痕跡を残しており、ノアム・コムスキーの1996年の著書「冷戦と大学」によれば、大学の研究費の90%近くが、この時期の防衛当局や原子力委員会から注ぎ込まれていたのである。)
ロチェスター大学医学部は、原爆計画の古参科学者にとってはまさに回転ドア同様であった。戦後の教授団には、マンハッタン計画の医学部門のトップであったスタッホード・ワォレンが参加しており、原爆計画のフッ素研究の主任であったH・C・ホッジもいた。
しかし、軍の機密と医科学の結婚は奇っ怪な子供を産み落とした。プログラムFという暗号で呼ばれたロチェスター大学の極秘フッ素研究は、原子力計画の指導の下で原子力委員会出資の秘密施設をストロング記念病院に備えていた。冷戦下の最も悪名高い実験の一つである、無関係な入院患者への中毒量の放射性プルトニウムの注射を行ったのもまさにここであった。この実験をあばいたアイリーン・ウエルサムは、それでピューリッツアー賞を受賞した。この事件は1995年に大統領調査にまで発展し、被害者への和解金は数百万ドルにも昇った。
プログラムFは子どもの歯について研究したのではなかった。まさしくそれは原爆計画に対する訴訟から発芽したものだ。その主目的は、政府や核の請負人らが、人間に対する障害で告訴された裁判において相手をうち負かすため、有利な情報を提供するところにあった。プログラムFの指導者は他ならぬH・C・ホッジその人であった。
この人物はニュージャージーのフッ素汚染事件で、強く主張された人体への障害に関するマンハッタン計画中のフッ素研究を指導したことがあった。
プログラムFの目的は、1948年の極秘文書のなかで語られている。それは次のようなものだ。「数年前に強く主張された果実の減産から巻き起こった訴訟に対して、被告(政府)が有利となるような証拠を供給すること。その問題の多くは既に公開されている。同地域の住民の血液中に過剰なフッ素があったことが報告されている以上、我々の主な努力は、血液中のフッ素と毒作用との関連性を記述することに注がれる」。
ここで言及されている訴訟と人体への障害に関する訴えというのは、もちろん、原爆計画とその請負人に対してのものであったことはいうまでもない。そうである以上、プログラムFの目的は、原爆計画への告訴に対して有利な反証を獲得するということになる。そのため、この研究は、被告によって指導されるということになったのである。
利害の核心がどこにあるかは明らかであった。もし、障害を与えるフッ素の量の下限が発見されたなら、(これはプログラムFの危険性ということに他ならない)、それは原爆計画そのものを明らかにすることになり、計画の請負人らは、人間の健康に対する傷害という罪で告発され、社会の抗議の対象となったであろう。 (原文太字)