シアヌーク殿下の日本軍の映画
シアヌーク殿下の日本軍の映画
ヘンリー・S・ストークス著「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」を読んだ。『滞日50年、来日時には「日本=戦争犯罪国家」論、「南京大虐殺」を疑うことなく信じていたジャーナリスト』と帯にある。そんなストークスさんが、東京裁判は勝者の復讐であり、南京大虐殺があり得なかったこと、日本には日本の正義があると考え方が大きく変わっていく過程と、影響を及ぼした三島由紀夫との出会いや、命を懸けてでも三島が守りたかったものについての考察等、興味深いテーマを扱っている。大変読みやすく一気に読める。また、アジアのリーダー達についての著者の率直なコメントも面白い。中でも、カンボジア独立の父と言われるシアヌーク殿下制作主演した、日本軍を描いた映画「ボコールの薔薇」についての記述を読むと、シアヌーク殿下が日本軍と日本軍人をどう見ていたかがよく分かる。以下にその部分を抜粋した。なお、映画はカンボジアから追放されていたシアヌーク殿下が滞在先の北朝鮮で制作したものだという。
『シアヌークは昔から劇映画を制作して、自分が監督し、主演もする趣味を持っていた。1969年にシアヌークが作った「ボゴールの薔薇』という、作品がある。平壌の撮影所で撮ったものだ。
はじめ金日成の肖像と、金日成をたたえる字幕が出てくる。台詞はすべて、朝鮮語に吹き替えられている。
映画はカンボジアのボコールに、民衆が総出で沿道に並んで歓迎するなかを、日本軍が進駐する場面から始まる。シアヌークが日本軍の指揮官・長谷川一郎大佐を演じ、モニク王妃が町の有力者の娘で、大佐の恋人を演じている。シアヌークがカンボジアを解放した日本に、深く感謝していたことが感じ取れる。
映画の中の日本軍は、実に規律正しい。日本兵の役は、朝鮮人民軍の兵士がエキストラとして動員され、演じている。
日本軍が来ると、民衆が『解放者」として驚喜して迎える。フランス軍司令部の屋上から、フランス国旗が降ろされ、『君が代」が吹奏されるなかで、日の丸があがる。長谷川大佐は軍装に軍刀を吊り、凛々しい日本軍人として描かれている。
抜刀の礼を行う長谷川大佐が率いる、日本軍人を演じる数百人の朝鮮人民軍の兵士たちが、日の丸に対して捧げ銃を行うのは、奇観だった。
日本軍とフランス軍が交戦して、フランスの司令官が戦死すると、丘の上の小さな教会で葬儀が催される。長谷川大佐が参列し、棺が埋められるのを、挙手の礼で見送る。日本軍人は敵にも手厚いのだ。
長谷川大佐の執務室の机の上には、軍装で白馬を駆られる天皇のご真影が飾られている。
副官が広島に原爆が投下されたことを報告すると、副官が去った後に、大佐が慟哭する。
日本が降伏したという通信を受けると、大佐は町の恋人の家を訪れて、ピアノで「さくらさくら」を弾く。その旋律が流れるなかで、爛漫と桜が咲き誇る日本の春、紅葉に染まった秋の山河、白雪に覆われた冬の日本の風景が、次々と映し出される。
シアヌークは戦争に敗れても、日本の気高い精神が少しも変わらないということを、訴えた。
この映画の試写会には、金日成が長男の正日をともなってやってきた。上映が終わると、二人がシアヌークに「素晴らしい作品だ」と、口を揃えて褒めそやした。
私はこの話をシアヌークの側近から聞いた。その映画も見たが、金日成も金正日も、東南アジアの国々が、日本に感謝していることを、学んだに違いない。』
ヘンリー・S・ストークス著「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」から抜粋
http://yorunohito2014.blog.fc2.com/blog-entry-252.html
2009年07月 : シアヌーク映画の夢と現実
秋山 民雄
インターネットで見つけたカンボジアのシアヌーク前国王個人の公式サイトには殿下が監督、主演した映画を紹介しているコーナーがある。そのなかに40年たっても記憶に残っているタイトルがあった。シアヌーク殿下が旧日本軍将校役を演じる「ボコールのバラ」と、試写会で涙のラストシーンが思わぬ笑いを誘った「クレピュスキュール(たそがれ)」である。「たそがれ」の方は苦い思い出とも結びついている。
映画の製作はどちらも1969年。翌年のシアヌーク追放クーデターで戦争が始まり、さらにはポル・ポト派による大虐殺で苦しんだこの国が平和だった最後の年であり、殿下が映画を作った最後の年でもある。
隣国ベトナムで激戦が続く一方で、「ポストベトナム」をめぐる動きが始まっていた。中立主義外交は行き詰まり、国内では左派を追放したためにシアヌーク政治に批判的な右派の勢力が強くなっていた。
そんな内外の情勢をよそにシアヌーク殿下は映画作りを楽しみ、プノンペン国際映画祭(68,69年の2回で立ち消えになった)を開催したりしていた。活躍の場を狭められて、映画以外にやることがなかったというのが実情だったらしい。
◇
「ボコールのバラ」を撮影していると聞いて、ボコール平原に出かけて行った。撮影現場を探しているところへ突然、軍服姿の殿下が姿を見せた。
旧日本軍の軍服にしてはどこかおかしいような気がしたが、殿下は「この衣装は似合うかな」とにこやかだった。撮影現場にはジープ型の車があり、バンパーに「森部隊」と漢字で書かれていた。よく見ると中国の簡体字だった。
この映画はカンボジアに進駐した日本軍将校と「ボコールのバラ」と呼ばれる現地の美しい女性(演じるのはもちろんシアヌーク夫人のモニクさんである)の愛の物語である。
シアヌーク殿下は1941年に18歳で王位に就いた。日米開戦の年だが、日本軍がフランス領インドシナ南部に進駐した年でもある。即位式の場に日本軍がいる写真を見た記憶がある。フランス植民地軍を追い払った日本軍に若い殿下は強い印象を受けただろう。その殿下がこの時期に日本の将校を主人公にした映画を製作した動機は何だったのだろうか。日本に何かを期待していたのではないか、といまでも気になるときがある。
それというのも、映画以外にも動きがあったからである。日本の若者をこの国に集団入植させるという構想をひそかに日本側に打診したのである。日本人を中核にして農村を立て直し、それを基礎に国力を高め、共産主義ベトナムに対抗するという狙いだったとされている。打診を受けた日本側は具体的に対応を考えるような内容ではないとの判断だった。その反応を見た殿下の方もすぐに話を引っ込めたという。結局、どこまで本気だったのかわからないまま、いつものシアヌーク流だと受け取られて、相手にされずに終わったようだ。
日本はその後の1990年代には和平会議の東京開催、PKO活動への陸上自衛隊派遣など、カンボジアに対して積極的に関与する方針をとった。だがこの当時はそんな時代ではなかった。国際情勢も違うし、仮に現実味のある構想を提案されたとしても、残念ながら前向きに対応できる状況ではなかっただろう。
1992年に現地で陸上自衛隊を取材した時の雑談で、派遣期間終了後もカンボジアに残って、親しくなった女性と理髪店を営むという隊員がいることを聞いた。その時にこの話を思い出したのだが、すべての雰囲気がすっかり変わっていたので、古い話を持ち出す気にはならなかった。
◇
「たそがれ」の方は王宮での試写会に招かれ、それまでに入ったことのない趣味のよい調度の部屋で、この国にしては華やかな雰囲気のなかで見た。
こういう場合はそれなりの服装で行かなければならないのがシアヌーク時代のカンボジアだった。映画なら室内なので問題はないのだが、屋外になると熱帯の太陽の下で背広にネクタイという服装は苦行だった。それにクメール語で始まり、フランス語、英語に切り替わっていく演説(全体がわかるのは本人だけだったかもしれない)を聴かされるのだから、肉体的、精神的忍耐力を試されているようなものだった。
試写会では演説もなかった。その代わり、印象的な現実の場面を目撃することになった。
ストーリーはすっかり忘れてしまったが、最後のシーンは海に沈む夕日を眺めながら主人公が追憶にふけり、涙を流す場面である。ところが場内が静まりかえるはずのこの場面で、笑い声が起こった。笑ったのは閣僚や有力政治家、王族など上流階級のカンボジア人だった。失笑というようなものではなく、遠慮のない笑いだった。
外国人もいる前で国家元首に対して失礼ではないかと驚いたが、正直なところ笑うのも無理はなかった。小柄で小太り、童顔の殿下がいくら思い入れたっぷりに悲しそうな顔をしても、全くさまにならないのである。殿下の方を見ると、こちらは照れたような苦笑いのような表情だった。
それにしても国民の間で人気の高い殿下に対する態度としては、異様な情景に感じられた。古い伝統が残っていて、殿下の前では有力者でも卑屈にも見えるような姿勢をとることが多かったので、なおさらそう感じたのかもしれない。
この場面のことはいろいろな人と話をした。もともと大らかな社会であり、互いに親密な関係なのだから笑いたいときは笑うのは当たり前だと言う人もいたが、殿下の権威が失墜している証拠だと言う人もいた。
その後で現実にクーデターが起きたのだから、殿下の威信低下が思わぬ場面で露呈したと考えるのが正しかったのだろう。そういえば、笑った人たちのなかには、クーデターの首謀者ロン・ノル将軍やシリク・マタク殿下もいたはずである。「たそがれ」というタイトル自体がシアヌーク時代の終わりが近いことを予感しているからではないか、という陰口もささやかれていた。
◇
この時点でクーデターの予兆を感じ取っていれば自慢できるのだが、実際にやったことはその逆になってしまった。恥ずかしいことに、クーデターの2カ月前に殿下が外遊に出発したとき、「これで政争は当面休戦の見通し」という情勢報告を本社に送っていたのだ。記事ではないので誤報とはいわれなかったが、実質は誤報のようなものである。いま考えても身の縮む思いだ。
当時の私にはクーデターの可能性は考えられなかった。シアヌーク政治には多くの問題があったのは事実だが、殿下なしではこの国は収拾のつかない大混乱に陥ることは確実だった。
クーデター後の20年ほどの間に起こったことはまさにその大混乱だったと思う。だがシアヌーク殿下は独特の政治感覚でこの時期を生き抜き、最初の即位から半世紀以上を経て王位に返り咲いた。いまは高齢で病気療養中の身だが、国民の人気はなお絶大のようである。(元共同通信 2009年7月記)
http://www.jnpc.or.jp/communication/essay/e00011900/
必読の書 連合国戦勝歴史観の虚妄
2014-03-03 03:54:26 | 読書と映画
私は月に5~6冊の本を読む。話題の小説もあるが、近頃は評論書と言えば言いのか、解説書と言うのかその種の本が多い。
月間で定期購読しているのはWILLであり、これは六年目に入っただろうか。
さて、この二ヶ月ほどは話題の「永遠の0」同じ作者の「黄金のバンタムを破った男」を読んだし「呆韓論」「日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ」「住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち」「同盟国アメリカに日本の戦争の異議を説く時がきた」等々を読んだ。
しかし、同時に読んだ今日のテーマ「英国人記者が見た 連合国戦勝歴史観の虚妄(祥伝社新書)」ほど、共鳴し感動した書物はない。
筆者のヘンリー・S・ストークス氏は英国人で『フィナンシャル・タイムズ』『ロンドン・タイムズ』『ニューヨーク・タイムズ』各東京支局長を歴任した。
奥様は日本人であるが、歴代の外国人マスコミ担当で最長の勤務をし、三島由紀夫氏との親交も深いなど異色の経歴の持ち主である。
英国人の彼は、来日時には「日本=戦争犯罪国家」論、「南京大虐殺」を疑うことなく信じていた。しかし、この大物ジャーリストは、以降歴史観を180度転換してゆく、何故か? この推移が興味深い。
「戦勝国史観」は、有色人種を蔑視した白人優位主義から発している。それなのに、日本国民の多くが、なぜ、そのような史観を信じているのか、理解に苦しんでいる。さらに著者は「戦勝国史観」は歴史をあざむいており、日本は侵略国家ではなかったと反論する。いわゆる「南京大虐殺」や「慰安婦」問題についても、日本がいわれのない非難を蒙(こうむ)っていることを、証している。
例えば「南京大虐殺」、今は日本軍が南京で三十万人を虐殺したことになっている。しかしこれは中国のプロパガンダ(諜略宣伝)であって、その理由を具体的事実をもって証明している。そして、韓国の光州事件を引き合いに局地で起こった事件(暴動)の実態解明がどれほど複雑怪奇で難しいかを解説している。
また大物ジャーナリストとして色々なリーダーと会っている、その描写も興味深い。
金大中、金日成、シアヌーク殿下、岸信介、安倍晋太郎、中曽根康弘等々の人物評価も、意外な事実に驚く。また、1943年に東京で開かれた「大東亜会議」にも触れ、”日本はアジアの希望の光”であったことを詳細に語っている。
私の生涯の愛読の書となるであろう、
以下はこの本を読んだ読者の感想文のコピペである。
「私は日本が大英帝国の植民地を占領したことに、日本の正義があると思った。それを戦後になって、まるで戦勝国が全能の神であるかのように、日本の罪を裁くことに違和感を感じた」。
イギリス人ジャーナリストの立場から、それぞれの国から見た太平洋戦争の正義の意味が異なることを指摘し、日本はどのように歴史と向かい合い、「戦後レジームからの脱却」を位置づけるべきかについての自説を述べた本。著者は『フィナンシャル・タイムズ』『エコノミスト』の東京特派員、『ロンドン・タイムズ』『ニューヨーク・タイムズ』の東京支局長を務めてきた経歴を持つ。
「侵略が悪いことなら、世界史で、アジア、アフリカ、オーストラリア、北米、南米を侵略してきたのは、西洋諸国だ。しかし、今日まで、西洋諸国がそうした侵略を謝罪したことはない。どうして日本だけが欧米の植民地を侵略したことを、謝罪しなければならないのか」。
日本人は、太平洋戦争で戦った相手というとまずアメリカを思い浮かべるが、実はイギリスがこの戦争をきっかけに失ったものは実に膨大だった。著者が子供の頃に地球儀を使って説明されたという栄光の大英帝国の基盤の要はアジアの植民地であり、しかし、日本の快進撃とともにその数百年の支配が一気に崩れ、その後これらの地域が独立に向かって大英帝国は消えることになった。そこに、日本軍捕虜収容所での英兵の扱いの問題が加わり、イギリスの日本への戦後の国民感情は相当ひどいものであったそうだ。同様に、オランダ、フランス、アメリカもアジアの植民地を失った。著者は、そのような歴史を振り返りながら、引用した上記のようなごく基本的な問いかけを行っている。他にも、南京や朝鮮半島における歴史的争点や、靖国神社参拝といったことについて、著者の見解が次々と書き連ねられている。
50年間の長きにわたって欧米を代表する一流紙の記者であったため、たくさんの有名人に会っていて、その思い出話を披露しているのも本書の特徴である。特に親交が深かった三島由紀夫については多くのページを割いており、三島が命を賭けて伝えようとしていたものを今を生きる日本人に改めて問いかけている。他にも戦後の重要人物が目白押しである。田中角栄、岸信介、安倍晋太郎、中曽根康弘、白洲次郎、麻生和子、シアヌーク、スカルノ、金大中、金日成。例えば、シアヌーク殿下が、みずから日本軍将校を主役にした映画を監督・主演して作って、金日成・正日親子の前で上映して賞賛されたというようなエピソードも登場する。また、駆け出しのころには、後にイギリスの首相になるエドワード・ヒースにも会っているし、戦後日本を世界に紹介する上で大きな貢献を果たしたドナルド・キーン、エドワード・サイデン・ステッカー、アイヴァン・モリスのことも語っている。
これは本文において著者が書いているだけでなく、解説部分において加藤英明氏も全く同じことを書いているが、敗戦国であるという以外に日本が誤解を受けている理由として、日本から正しい情報があまり発信されていない点を上げているのは気になった。現在、日本が中国や韓国から非難を受けているあの時代の論点のいくつかは、元をたどれば日本のメディアが火付け役になっているものだ。また、著者は「日本の主張が、英語で発信されてこなかったことが大きい」とも述べている。
内容を要約すると、大東亜戦争はアジア解放戦争だった、
南京大虐殺や慰安婦はただの捏造、東京裁判は無効。
亡命中の故シアヌーク殿下が「ボゴールの薔薇」という映画を撮影、
自ら日本軍将校を演じ、日本軍を解放軍として描いた・・・
北朝鮮兵が演じる日本兵が「捧げ銃」をする姿は奇観・・・
という小話がかなり気に入った。
歴史の予備知識がなくとも読めるので幅広い方々にお勧めする。
色々な意味で優れたジャーナリストだなぁと思う。
日本人には持ち得ない新鮮な視点で、元々フェアな人が、より一層フェアであろうと努力して、書き上げたと感じられた。
youtube「ハリー杉山 Henry Scott-Stokes 息子へのまなざし」がいい。
こんな人を父に持った人は、さぞ誇らしいだろうなぁと思う。
(他人に誇るのではなく、胸の内、密かに誇る誇らしさ)
優れたレビューが既に幾つもついており、付け加えたいことなどほとんどない。
本筋ではないけれども、既についたレビューの中で、あまり触れられていない事柄に、クエーカー教徒のことがあった。
p.209
私(筆者)が・・・、日本人に親しみを感じるのは、クエーカー教徒だからかもしれない。
クエーカー教徒も差別を受けてきた。・・・役人にも、軍人にも、法律家にもなれなかった。土地も所有できなかった。キリスト教新教の一派だが・・・・。
特色は、権威に対して頭を下げないことだ。自由と独立を信条としている。・・・一方で真摯で、礼儀正しいことで知られる。
少数派・・・。
クエーカー教には神職がいない。集まって瞑想し、霊感を受けた者が、立ち上がって感じたままを話す。
一人が話しすぎた場合は先達が穏やかな語り口調で終えるよう促す。賛美歌を歌うこともない。教義を押しつけることもなく個人が霊感することを尊重する。一人ひとりが良心と向き合う。
クエーカーの集会所は、木で建築され、派手な装飾が一切ない。素朴なところが、神道の神社と結びつく。聖書も丸呑みにすることがない。キリストを信仰するが、盲信よりも、「いったいキリストは、どういう方か」と問い続ける。形式や教義がない。
戦中までのドナルド・キーン氏の経歴に触れた箇所も、面白かった。
禍福は糾える縄の如し(Good luck and bad luck alternate like the strands of a
rope.)だなと思った。
p.211
戦後の日本兵の気高さに打たれたドナルド・キーン
エドワード・サイデンステッカー、アイヴァン・モリスの三人が、日本文学を世界に紹介するうえで、大きな貢献をした外国人として、よく知られている。
http://blog.goo.ne.jp/arashigeru3/e/38bc3b147a4b1944413fcf385eadcb0c
ヘンリー・S・ストークス著「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」を読んだ。『滞日50年、来日時には「日本=戦争犯罪国家」論、「南京大虐殺」を疑うことなく信じていたジャーナリスト』と帯にある。そんなストークスさんが、東京裁判は勝者の復讐であり、南京大虐殺があり得なかったこと、日本には日本の正義があると考え方が大きく変わっていく過程と、影響を及ぼした三島由紀夫との出会いや、命を懸けてでも三島が守りたかったものについての考察等、興味深いテーマを扱っている。大変読みやすく一気に読める。また、アジアのリーダー達についての著者の率直なコメントも面白い。中でも、カンボジア独立の父と言われるシアヌーク殿下制作主演した、日本軍を描いた映画「ボコールの薔薇」についての記述を読むと、シアヌーク殿下が日本軍と日本軍人をどう見ていたかがよく分かる。以下にその部分を抜粋した。なお、映画はカンボジアから追放されていたシアヌーク殿下が滞在先の北朝鮮で制作したものだという。
『シアヌークは昔から劇映画を制作して、自分が監督し、主演もする趣味を持っていた。1969年にシアヌークが作った「ボゴールの薔薇』という、作品がある。平壌の撮影所で撮ったものだ。
はじめ金日成の肖像と、金日成をたたえる字幕が出てくる。台詞はすべて、朝鮮語に吹き替えられている。
映画はカンボジアのボコールに、民衆が総出で沿道に並んで歓迎するなかを、日本軍が進駐する場面から始まる。シアヌークが日本軍の指揮官・長谷川一郎大佐を演じ、モニク王妃が町の有力者の娘で、大佐の恋人を演じている。シアヌークがカンボジアを解放した日本に、深く感謝していたことが感じ取れる。
映画の中の日本軍は、実に規律正しい。日本兵の役は、朝鮮人民軍の兵士がエキストラとして動員され、演じている。
日本軍が来ると、民衆が『解放者」として驚喜して迎える。フランス軍司令部の屋上から、フランス国旗が降ろされ、『君が代」が吹奏されるなかで、日の丸があがる。長谷川大佐は軍装に軍刀を吊り、凛々しい日本軍人として描かれている。
抜刀の礼を行う長谷川大佐が率いる、日本軍人を演じる数百人の朝鮮人民軍の兵士たちが、日の丸に対して捧げ銃を行うのは、奇観だった。
日本軍とフランス軍が交戦して、フランスの司令官が戦死すると、丘の上の小さな教会で葬儀が催される。長谷川大佐が参列し、棺が埋められるのを、挙手の礼で見送る。日本軍人は敵にも手厚いのだ。
長谷川大佐の執務室の机の上には、軍装で白馬を駆られる天皇のご真影が飾られている。
副官が広島に原爆が投下されたことを報告すると、副官が去った後に、大佐が慟哭する。
日本が降伏したという通信を受けると、大佐は町の恋人の家を訪れて、ピアノで「さくらさくら」を弾く。その旋律が流れるなかで、爛漫と桜が咲き誇る日本の春、紅葉に染まった秋の山河、白雪に覆われた冬の日本の風景が、次々と映し出される。
シアヌークは戦争に敗れても、日本の気高い精神が少しも変わらないということを、訴えた。
この映画の試写会には、金日成が長男の正日をともなってやってきた。上映が終わると、二人がシアヌークに「素晴らしい作品だ」と、口を揃えて褒めそやした。
私はこの話をシアヌークの側近から聞いた。その映画も見たが、金日成も金正日も、東南アジアの国々が、日本に感謝していることを、学んだに違いない。』
ヘンリー・S・ストークス著「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」から抜粋
http://yorunohito2014.blog.fc2.com/blog-entry-252.html
2009年07月 : シアヌーク映画の夢と現実
秋山 民雄
インターネットで見つけたカンボジアのシアヌーク前国王個人の公式サイトには殿下が監督、主演した映画を紹介しているコーナーがある。そのなかに40年たっても記憶に残っているタイトルがあった。シアヌーク殿下が旧日本軍将校役を演じる「ボコールのバラ」と、試写会で涙のラストシーンが思わぬ笑いを誘った「クレピュスキュール(たそがれ)」である。「たそがれ」の方は苦い思い出とも結びついている。
映画の製作はどちらも1969年。翌年のシアヌーク追放クーデターで戦争が始まり、さらにはポル・ポト派による大虐殺で苦しんだこの国が平和だった最後の年であり、殿下が映画を作った最後の年でもある。
隣国ベトナムで激戦が続く一方で、「ポストベトナム」をめぐる動きが始まっていた。中立主義外交は行き詰まり、国内では左派を追放したためにシアヌーク政治に批判的な右派の勢力が強くなっていた。
そんな内外の情勢をよそにシアヌーク殿下は映画作りを楽しみ、プノンペン国際映画祭(68,69年の2回で立ち消えになった)を開催したりしていた。活躍の場を狭められて、映画以外にやることがなかったというのが実情だったらしい。
◇
「ボコールのバラ」を撮影していると聞いて、ボコール平原に出かけて行った。撮影現場を探しているところへ突然、軍服姿の殿下が姿を見せた。
旧日本軍の軍服にしてはどこかおかしいような気がしたが、殿下は「この衣装は似合うかな」とにこやかだった。撮影現場にはジープ型の車があり、バンパーに「森部隊」と漢字で書かれていた。よく見ると中国の簡体字だった。
この映画はカンボジアに進駐した日本軍将校と「ボコールのバラ」と呼ばれる現地の美しい女性(演じるのはもちろんシアヌーク夫人のモニクさんである)の愛の物語である。
シアヌーク殿下は1941年に18歳で王位に就いた。日米開戦の年だが、日本軍がフランス領インドシナ南部に進駐した年でもある。即位式の場に日本軍がいる写真を見た記憶がある。フランス植民地軍を追い払った日本軍に若い殿下は強い印象を受けただろう。その殿下がこの時期に日本の将校を主人公にした映画を製作した動機は何だったのだろうか。日本に何かを期待していたのではないか、といまでも気になるときがある。
それというのも、映画以外にも動きがあったからである。日本の若者をこの国に集団入植させるという構想をひそかに日本側に打診したのである。日本人を中核にして農村を立て直し、それを基礎に国力を高め、共産主義ベトナムに対抗するという狙いだったとされている。打診を受けた日本側は具体的に対応を考えるような内容ではないとの判断だった。その反応を見た殿下の方もすぐに話を引っ込めたという。結局、どこまで本気だったのかわからないまま、いつものシアヌーク流だと受け取られて、相手にされずに終わったようだ。
日本はその後の1990年代には和平会議の東京開催、PKO活動への陸上自衛隊派遣など、カンボジアに対して積極的に関与する方針をとった。だがこの当時はそんな時代ではなかった。国際情勢も違うし、仮に現実味のある構想を提案されたとしても、残念ながら前向きに対応できる状況ではなかっただろう。
1992年に現地で陸上自衛隊を取材した時の雑談で、派遣期間終了後もカンボジアに残って、親しくなった女性と理髪店を営むという隊員がいることを聞いた。その時にこの話を思い出したのだが、すべての雰囲気がすっかり変わっていたので、古い話を持ち出す気にはならなかった。
◇
「たそがれ」の方は王宮での試写会に招かれ、それまでに入ったことのない趣味のよい調度の部屋で、この国にしては華やかな雰囲気のなかで見た。
こういう場合はそれなりの服装で行かなければならないのがシアヌーク時代のカンボジアだった。映画なら室内なので問題はないのだが、屋外になると熱帯の太陽の下で背広にネクタイという服装は苦行だった。それにクメール語で始まり、フランス語、英語に切り替わっていく演説(全体がわかるのは本人だけだったかもしれない)を聴かされるのだから、肉体的、精神的忍耐力を試されているようなものだった。
試写会では演説もなかった。その代わり、印象的な現実の場面を目撃することになった。
ストーリーはすっかり忘れてしまったが、最後のシーンは海に沈む夕日を眺めながら主人公が追憶にふけり、涙を流す場面である。ところが場内が静まりかえるはずのこの場面で、笑い声が起こった。笑ったのは閣僚や有力政治家、王族など上流階級のカンボジア人だった。失笑というようなものではなく、遠慮のない笑いだった。
外国人もいる前で国家元首に対して失礼ではないかと驚いたが、正直なところ笑うのも無理はなかった。小柄で小太り、童顔の殿下がいくら思い入れたっぷりに悲しそうな顔をしても、全くさまにならないのである。殿下の方を見ると、こちらは照れたような苦笑いのような表情だった。
それにしても国民の間で人気の高い殿下に対する態度としては、異様な情景に感じられた。古い伝統が残っていて、殿下の前では有力者でも卑屈にも見えるような姿勢をとることが多かったので、なおさらそう感じたのかもしれない。
この場面のことはいろいろな人と話をした。もともと大らかな社会であり、互いに親密な関係なのだから笑いたいときは笑うのは当たり前だと言う人もいたが、殿下の権威が失墜している証拠だと言う人もいた。
その後で現実にクーデターが起きたのだから、殿下の威信低下が思わぬ場面で露呈したと考えるのが正しかったのだろう。そういえば、笑った人たちのなかには、クーデターの首謀者ロン・ノル将軍やシリク・マタク殿下もいたはずである。「たそがれ」というタイトル自体がシアヌーク時代の終わりが近いことを予感しているからではないか、という陰口もささやかれていた。
◇
この時点でクーデターの予兆を感じ取っていれば自慢できるのだが、実際にやったことはその逆になってしまった。恥ずかしいことに、クーデターの2カ月前に殿下が外遊に出発したとき、「これで政争は当面休戦の見通し」という情勢報告を本社に送っていたのだ。記事ではないので誤報とはいわれなかったが、実質は誤報のようなものである。いま考えても身の縮む思いだ。
当時の私にはクーデターの可能性は考えられなかった。シアヌーク政治には多くの問題があったのは事実だが、殿下なしではこの国は収拾のつかない大混乱に陥ることは確実だった。
クーデター後の20年ほどの間に起こったことはまさにその大混乱だったと思う。だがシアヌーク殿下は独特の政治感覚でこの時期を生き抜き、最初の即位から半世紀以上を経て王位に返り咲いた。いまは高齢で病気療養中の身だが、国民の人気はなお絶大のようである。(元共同通信 2009年7月記)
http://www.jnpc.or.jp/communication/essay/e00011900/
必読の書 連合国戦勝歴史観の虚妄
2014-03-03 03:54:26 | 読書と映画
私は月に5~6冊の本を読む。話題の小説もあるが、近頃は評論書と言えば言いのか、解説書と言うのかその種の本が多い。
月間で定期購読しているのはWILLであり、これは六年目に入っただろうか。
さて、この二ヶ月ほどは話題の「永遠の0」同じ作者の「黄金のバンタムを破った男」を読んだし「呆韓論」「日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ」「住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち」「同盟国アメリカに日本の戦争の異議を説く時がきた」等々を読んだ。
しかし、同時に読んだ今日のテーマ「英国人記者が見た 連合国戦勝歴史観の虚妄(祥伝社新書)」ほど、共鳴し感動した書物はない。
筆者のヘンリー・S・ストークス氏は英国人で『フィナンシャル・タイムズ』『ロンドン・タイムズ』『ニューヨーク・タイムズ』各東京支局長を歴任した。
奥様は日本人であるが、歴代の外国人マスコミ担当で最長の勤務をし、三島由紀夫氏との親交も深いなど異色の経歴の持ち主である。
英国人の彼は、来日時には「日本=戦争犯罪国家」論、「南京大虐殺」を疑うことなく信じていた。しかし、この大物ジャーリストは、以降歴史観を180度転換してゆく、何故か? この推移が興味深い。
「戦勝国史観」は、有色人種を蔑視した白人優位主義から発している。それなのに、日本国民の多くが、なぜ、そのような史観を信じているのか、理解に苦しんでいる。さらに著者は「戦勝国史観」は歴史をあざむいており、日本は侵略国家ではなかったと反論する。いわゆる「南京大虐殺」や「慰安婦」問題についても、日本がいわれのない非難を蒙(こうむ)っていることを、証している。
例えば「南京大虐殺」、今は日本軍が南京で三十万人を虐殺したことになっている。しかしこれは中国のプロパガンダ(諜略宣伝)であって、その理由を具体的事実をもって証明している。そして、韓国の光州事件を引き合いに局地で起こった事件(暴動)の実態解明がどれほど複雑怪奇で難しいかを解説している。
また大物ジャーナリストとして色々なリーダーと会っている、その描写も興味深い。
金大中、金日成、シアヌーク殿下、岸信介、安倍晋太郎、中曽根康弘等々の人物評価も、意外な事実に驚く。また、1943年に東京で開かれた「大東亜会議」にも触れ、”日本はアジアの希望の光”であったことを詳細に語っている。
私の生涯の愛読の書となるであろう、
以下はこの本を読んだ読者の感想文のコピペである。
「私は日本が大英帝国の植民地を占領したことに、日本の正義があると思った。それを戦後になって、まるで戦勝国が全能の神であるかのように、日本の罪を裁くことに違和感を感じた」。
イギリス人ジャーナリストの立場から、それぞれの国から見た太平洋戦争の正義の意味が異なることを指摘し、日本はどのように歴史と向かい合い、「戦後レジームからの脱却」を位置づけるべきかについての自説を述べた本。著者は『フィナンシャル・タイムズ』『エコノミスト』の東京特派員、『ロンドン・タイムズ』『ニューヨーク・タイムズ』の東京支局長を務めてきた経歴を持つ。
「侵略が悪いことなら、世界史で、アジア、アフリカ、オーストラリア、北米、南米を侵略してきたのは、西洋諸国だ。しかし、今日まで、西洋諸国がそうした侵略を謝罪したことはない。どうして日本だけが欧米の植民地を侵略したことを、謝罪しなければならないのか」。
日本人は、太平洋戦争で戦った相手というとまずアメリカを思い浮かべるが、実はイギリスがこの戦争をきっかけに失ったものは実に膨大だった。著者が子供の頃に地球儀を使って説明されたという栄光の大英帝国の基盤の要はアジアの植民地であり、しかし、日本の快進撃とともにその数百年の支配が一気に崩れ、その後これらの地域が独立に向かって大英帝国は消えることになった。そこに、日本軍捕虜収容所での英兵の扱いの問題が加わり、イギリスの日本への戦後の国民感情は相当ひどいものであったそうだ。同様に、オランダ、フランス、アメリカもアジアの植民地を失った。著者は、そのような歴史を振り返りながら、引用した上記のようなごく基本的な問いかけを行っている。他にも、南京や朝鮮半島における歴史的争点や、靖国神社参拝といったことについて、著者の見解が次々と書き連ねられている。
50年間の長きにわたって欧米を代表する一流紙の記者であったため、たくさんの有名人に会っていて、その思い出話を披露しているのも本書の特徴である。特に親交が深かった三島由紀夫については多くのページを割いており、三島が命を賭けて伝えようとしていたものを今を生きる日本人に改めて問いかけている。他にも戦後の重要人物が目白押しである。田中角栄、岸信介、安倍晋太郎、中曽根康弘、白洲次郎、麻生和子、シアヌーク、スカルノ、金大中、金日成。例えば、シアヌーク殿下が、みずから日本軍将校を主役にした映画を監督・主演して作って、金日成・正日親子の前で上映して賞賛されたというようなエピソードも登場する。また、駆け出しのころには、後にイギリスの首相になるエドワード・ヒースにも会っているし、戦後日本を世界に紹介する上で大きな貢献を果たしたドナルド・キーン、エドワード・サイデン・ステッカー、アイヴァン・モリスのことも語っている。
これは本文において著者が書いているだけでなく、解説部分において加藤英明氏も全く同じことを書いているが、敗戦国であるという以外に日本が誤解を受けている理由として、日本から正しい情報があまり発信されていない点を上げているのは気になった。現在、日本が中国や韓国から非難を受けているあの時代の論点のいくつかは、元をたどれば日本のメディアが火付け役になっているものだ。また、著者は「日本の主張が、英語で発信されてこなかったことが大きい」とも述べている。
内容を要約すると、大東亜戦争はアジア解放戦争だった、
南京大虐殺や慰安婦はただの捏造、東京裁判は無効。
亡命中の故シアヌーク殿下が「ボゴールの薔薇」という映画を撮影、
自ら日本軍将校を演じ、日本軍を解放軍として描いた・・・
北朝鮮兵が演じる日本兵が「捧げ銃」をする姿は奇観・・・
という小話がかなり気に入った。
歴史の予備知識がなくとも読めるので幅広い方々にお勧めする。
色々な意味で優れたジャーナリストだなぁと思う。
日本人には持ち得ない新鮮な視点で、元々フェアな人が、より一層フェアであろうと努力して、書き上げたと感じられた。
youtube「ハリー杉山 Henry Scott-Stokes 息子へのまなざし」がいい。
こんな人を父に持った人は、さぞ誇らしいだろうなぁと思う。
(他人に誇るのではなく、胸の内、密かに誇る誇らしさ)
優れたレビューが既に幾つもついており、付け加えたいことなどほとんどない。
本筋ではないけれども、既についたレビューの中で、あまり触れられていない事柄に、クエーカー教徒のことがあった。
p.209
私(筆者)が・・・、日本人に親しみを感じるのは、クエーカー教徒だからかもしれない。
クエーカー教徒も差別を受けてきた。・・・役人にも、軍人にも、法律家にもなれなかった。土地も所有できなかった。キリスト教新教の一派だが・・・・。
特色は、権威に対して頭を下げないことだ。自由と独立を信条としている。・・・一方で真摯で、礼儀正しいことで知られる。
少数派・・・。
クエーカー教には神職がいない。集まって瞑想し、霊感を受けた者が、立ち上がって感じたままを話す。
一人が話しすぎた場合は先達が穏やかな語り口調で終えるよう促す。賛美歌を歌うこともない。教義を押しつけることもなく個人が霊感することを尊重する。一人ひとりが良心と向き合う。
クエーカーの集会所は、木で建築され、派手な装飾が一切ない。素朴なところが、神道の神社と結びつく。聖書も丸呑みにすることがない。キリストを信仰するが、盲信よりも、「いったいキリストは、どういう方か」と問い続ける。形式や教義がない。
戦中までのドナルド・キーン氏の経歴に触れた箇所も、面白かった。
禍福は糾える縄の如し(Good luck and bad luck alternate like the strands of a
rope.)だなと思った。
p.211
戦後の日本兵の気高さに打たれたドナルド・キーン
エドワード・サイデンステッカー、アイヴァン・モリスの三人が、日本文学を世界に紹介するうえで、大きな貢献をした外国人として、よく知られている。
http://blog.goo.ne.jp/arashigeru3/e/38bc3b147a4b1944413fcf385eadcb0c