米軍はその話をするとすぐに、厚木基地のスーパーマーケットから調達し、ありったけの紙おむつをただち | 日本のお姉さん

米軍はその話をするとすぐに、厚木基地のスーパーマーケットから調達し、ありったけの紙おむつをただち

東北大震災の時の政府(民主党政権)は本当にカスだった。そのカス政党を選んだのは日本人だ。

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こんにちは。エンリケです。

きょうは脚気の話しです。

遠いところに去ってしまったかに思える脚気ですが、
わが軍を考えるとき、脚気は決してはずせないテーマだ
と強く感じます。

理由は、本文をお読みになり、思考をめぐらせると
お分かりになるはずです。

さっそくどうぞ

エンリケ

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『日露戦争の将兵は何を食べていたか?─またしても脚気の惨害─
日本陸軍の兵站戦(15)

荒木 肇
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□はじめに

5回目の3.11がやってきました。東日本大震災からもう5年経ちます。
犠牲になられた方々に心やすらかにお眠りくださることをお祈りいたします。
また、ご遺族の方々、復興途上、原発事故等で避難生活をお続けの
方々には満腔のお悔やみと応援する気持ちを捧げます。

読者の方々はご存じでしょうか。わたしは拙著『被害日本大震災と自衛隊』
の取材に現地を訪れ、また多くの隊員の方々からお話を伺いました。親しい
友人の映画プロデューサーの方から、貴重なお話を聞きました。盲点だった
と私自身も反省しました。

被災地で最も足りず緊急性を要求されたのは何だったか? 子供用の
紙おむつと女性の生理用品だったそうです。ところが、ボールペン1本の購入
までも予算で決められているのが国家の組織です。隊員が使う文書の罫紙、
掃除用の箒、はては食堂の紙ナプキンも認められた予算の執行になります。

子供用の紙おむつ、生理用品への支出を会計検査院から認めてもらえる
のでしょうか。それは無理でした。
問い合わせに対して、満18歳以上の男性が多く所属する自衛隊に紙おむつの支給は認めないという回答が来たそうです。

災害派遣で国民の最後の砦だと大声で叫ぶ政治家はいましたが、誰も心からの関心を持たなかったのでしょう。
「何とかしろ!」と怒鳴りまくる首相や閣僚はいても、現場の兵站の実情については何も理解していなかったのです。

助けてくれたのはアメリカ軍でした。
米軍はその話をするとすぐに、厚木基地のスーパーマーケットから調達し、ありったけの紙おむつをただちにヘリ搭載護衛艦に運んでくれたのです。
おかげで護衛艦から飛び立ったヘリは紙おむつを被災者のもとに運ぶことができました。

私たちは平時の生活に慣れてきました。私たちの平和と安定は、
実は突然の、たいていが不条理といっていい災害(戦争も含む)によって簡単
に覆されるものです。3月11日の朝も、まさか誰も赤ちゃんの紙おむつや
生理用品が手に入らない事態が起きるとは誰も考えてはいなかったことでしょう。
あれから5年、役所も私たちもどれほど変わったことでしょうか。「戦争法」が
作られるそうです(笑)。米軍の基地は要らないそうです。徴兵制も布かれ
るかも知れないそうです。そういう愚かな、まるで現実味のない考えを口に
する方々はこうした事実を想像したことがあるのでしょうか。

突然の非常事態への備えはされているのでしょうか? 暗澹たる思い
になるのはわたしだけではないと信じています。

□お便りを下さったA様へ

またまたご丁寧なお返事をありがとうございました。御曽祖父様が
後備砲兵大尉として応召され、兵站司令官になられたとのこと。なるほど、
まず補助輸卒隊の指揮官、つづいて兵站勤務ということだったのですね。
ありがとうございました。これから順々に、後世の基本となった日露戦争の
兵站の事情について書いていきます。少しでもお役に立てればいいと思います。
これからも御愛読、お願いいたします。


▼「酔っぱらう日本兵」という誤報

旅順要塞を攻撃中の第3軍に従軍した英国人記者は驚いた。攻囲軍の兵卒
が昼日中から千鳥足で歩いているのだ。よろめき、なかにはしゃがみ、
腰を落として、がっくり首を落としてという様子で休む姿が目についた。膝に力
が入っていない。まるで酔っ払いの行動そっくりだった。将校も下士も、それを
見とがめないどころか、下士までもふらつく者がいる。「べトン(コンクリート)に
血を投げつけるような激戦の恐怖を日本兵は酒で紛らわせているのだ」と考えて
無理はない。彼ら西欧人にとって脚気(かっけ)はよほどの専門家を除いて
聞いたことも、見たこともないアジアの米食地域だけの「風土病」だったからだ。

脚気という病はすでに奈良時代から存在していた。もともとは紀元前3世紀、
古代中国で米食の広がりと同時に発生していたと医学史の研究者はいう。
わが国でも奈良時代には上流階級の中に患者がいたことが確認できる。
白米を常食とし、仏教思想の影響で貧しい副食を摂るようになってからのこと
である。平安時代の文学書からも「キヤクキ」「アシノケのぼる」「カクビヤウ
いたはりて」などという記述があることが確認される。

鎌倉時代、この病気は上層階級、天皇家の人々や公卿たちに罹患者が
多かった。それが、室町期になると将軍家や上層の幕臣たちに広がっていった。
江戸期になると、まず徳川幕府の上層部に病気は発生する。三代将軍家光
の死因は、おそらく脚気による「衝心(急性心臓麻痺)」に違いないという研究
もある。この後、徳川将軍家では13代家定、14代家茂も脚気衝心で亡くなって
いる。皇女和宮も夫と同じく、明治の初めに脚気で夫の後を追ったことはよく
知られていることだ。

一般の階層にも脚気は広がっていった。富裕な町人や都市に住む上級武士
がまず患者になった。元禄時代(18世紀初頭)にはすでに流行し、幕末の
文化・文政時代(19世紀初めころ)には地方都市でも広まっていた。しかし、
爆発的なともいえる罹患者が増えたのは、皮肉なことに文明開化の明治からだった。

脚気は神経障害(感覚が鈍くなる)や筋肉障害(力が入らない)から始まる。
循環器障害(心臓の障害)、水腫(むくみ)、胃腸障害を併発しながら最後には
心臓麻痺を起こして死亡する。初めは脚が重くなる。続いて動きが悪くなり、
膝に力が入りにくくなる。浮腫(むくみ)が起こり、食欲がなくなる。心臓の動悸
が高まり、動くと息切れがする。

筆者が子供のころ、昭和30年代(1960年前後)にも内科医はゴム製の
検査器具を使っていた。椅子に腰かけさせて、脚をぶらぶら脱力させ、膝の下
を叩くのだ。反射でつま先がピンと上がれば脚気の疑いは晴れた。それが
いつの間にか行なわれなくなり、脚気などという病気はすっかり忘れられて
しまった。社会全体が豊かになり、食生活が向上し、多様な食物を誰もが
口にするようになったからである。

驚いたことに数年前の新聞記事に脚気の記事が載った。アルバイトに夢中
になっていた大学生が病院を訪れた。症状は脚の感覚が鈍くなり、食欲が減退し、
動悸がして、脚がむくむというものだった。医者たちは困惑した。そんな訴えは
長い間、聞いたこともない。古い医学書を見ていた大学病院の医師は、「さては」
と気がついたという。コンビニ弁当やカップ食品が中心の食生活にひたっていた
若者の病名は『江戸わずらい』だったのだ。

ビタミンという微量栄養素は20世紀になって発見された。『江戸わずらい』と
いわれた脚気はビタミンB1の欠乏が原因だった。健康だった地方の若者が
江戸に出てくる。しばらくすると脚気になる。故郷に帰った者だけは健康を回復した。

おそらく都会の生活環境が問題だと考えられた。目に見えないものは、人にとって
は存在しない。栄養バランスという考え方もなく、白米を腹いっぱい食べることが
贅沢だとされた時代は長く続いた。

江戸時代になると、都会の食事では毎日が精白された白米が主流だった。
江戸の町には搗米屋(つきごめや)という店があった。送られてきた玄米を、臼で
精白する商売である。地方にいては食べられない白米を食べられる。
それが江戸時代の、大坂や江戸ではふつうになっていった。

おかずは白米を多く食べられる塩辛い漬物や、具のない味噌汁、せいぜい干物
の魚、野菜の煮つけなどだった。こうした貧しい副食では、ビタミンが不足して脚気が

起きても不思議ではなかった。現在のような時代でも、腹をふくらませればそれで
足りるといった食事をしていれば、確実に脚気は忍び寄ってくる。

▼西南戦争で起きた脚気

熊本城は反政府軍に包囲された。陸上自衛隊第8師団修親会が研究した
『西南戦争史』によると、明治10(1877)年2月21日から4月14日までの戦闘で、
籠城した軍人などは約4500名、そのうち2460名が戦闘死傷者となっている。
半分以上が負傷し亡くなった。大変な激戦だったことが分かる。

病死者も出た。コレラ21名、腸チフス13名、脚気7名、赤痢・痘瘡いずれも
5名、各種発熱による者も5名、胃カタル4名、腸カタル3名、自殺は3名である。
その他も合わせて75名だった。脚気の死亡率は、もともとたいへん低い。
およそ1~2%だから、脚気の死者が7名ということは、罹患者は100倍も
いたのだろう。700人から1400人が患者なら、籠城軍全体のざっと16%から
32%の人間が脚気症状を訴えていたわけだ。

この時の鎮台会計部の記録を見ると、籠城戦最末期を除いて毎日1人あたり
6合(900グラム)ないし7合(1050グラム)の白米を支給している。おかずは

塩、味噌、たまに干魚という。これではビタミン不足の脚気が出ても少しもおかしく
ない。では城外の野戦軍はどうかというと、大繃帯所といわれる野戦病院に収容
された患者の第1位はやはり脚気。後方の軍団病院でも脚気患者が最も多かった。

脚気の死者は正確な統計が残っている明治末期から調べると、全国では毎年
1万から3万人にのぼっているという(乳幼児脚気を推定で含む)。腸チフス、赤痢
という当時の致死性が高い伝染病の死者がそれぞれ6000~7000人だから、
脚気は十分に死病といえたのだ。そして、死亡率が1%から2%だから、実際の
患者数はたいへんな数にのぼっていたわけだ。しかも、脚気は不思議と青壮年の
男性に多く発生した。このことは労働力を奪い、家庭の働き手を失わせ、国民生活
に大きな影を落としていた。

▼目に見えない大敵

1882(明治15)年7月、朝鮮の壬午(じんご)軍乱で仁川湾(済物浦・さいもっぽ)
に進出した軍艦金剛、日進、比叡、清輝は清国軍艦と睨み合っていた。40日余りの
緊迫した事態が続いたが、金剛、比叡の両艦では、その間、乗組兵員の3分の1以上
が脚気に倒れた。他の2艦も大差ない状態だった。戦闘力を喪失していたといって
いい状況だったのである。品川沖で応援のため待機していた軍艦扶桑(ふそう)でも
兵員309名のうち、180名が脚気症状を訴えていた。戦闘どころか航海もできる
ような状況ではなかったのが実態だった。

さらにこの年、上層部を衝撃が襲った。12月に日本を発ち、ニュージーランドの
ウェリントン、南米チリ、ペルー、太平洋のハワイを巡航し、翌年9月に帰国した
練習艦龍驤(りゅうじょう)の惨事である。271日間の航海で376名の乗員中、
脚気患者169名、うち死亡者25名を出してしまった。ハワイに向かう途中では、
ついに人手不足で汽罐から十分に蒸気が上がらず、帆走でようやくホノルルに
たどり着くという状態だった。この2つの事件から海軍では英国から帰国したばかり
の軍医高木兼寛(たかぎかねひろ)の改革は始まるのだった。

一方、陸軍は1870(明治3)年に大阪の陸軍兵学寮(士官学校の前身)で
生徒たちに脚気患者が大発生した。続いて翌年には東京の御親兵(のちの近衛兵)
の部隊でも脚気が大流行する。『明治七、八年頃には脚気病が非常に多く、夏期
になると殆ど五分の一は脚気という有様』とは軍医団の回顧記事の一節である。
対策としては転地療養しかなく、仮病院も多く開かれた。東京の郊外にあたる、
音羽の護国寺(いまの豊島区)、小石川の伝通院(同文京区)、戸山学校(同新宿区)

などに患者を収容し、軽井沢(長野県)や箱根(神奈川県)などに転地させた
という記録がある。

これほどの大惨害があった。国民皆兵、富国強兵が叫ばれても、戦えない
軍艦、動けない部隊では戦えない。では、当時の対策はどうだったのか。今から
考えれば白米中心の貧しい副菜が原因というのは当たり前だが、その時代には
ビタミンの重要性に気づくどころか、その存在すら想像もできていなかったのだ。
では脚気の原因はどのように考えられていたのか。原因はどうして分からなかった
のか、その理由を知らねばならない。

▼原因追求が難しかった理由

まず、第1に脚気の症状が複雑で変化が大きかったこと。いろいろな症状が
複雑に絡み合い、病気の症状が変わりやすかった。また、栄養状態が良さそうな
元気なはずの若者、とくに男子に患者が多い。老人、女性、子供、もともと虚弱
な人など、体力の弱そうな人は発病しないといった複雑さがあった。

第2には、いつも粗食をしていると思われている人は発病しない。上等な食物
である精白米を食べている人が罹り、玄米や粗精米(そせいまい)や麦などを
食べている人は脚気にならなかった。現に麦飯を支給されていた監獄(刑務所)
の囚人は脚気にはまるで縁がなかったのである。社会の上中層の人が患者に
なるので、食物が関係しているとは考えられなかったのだ。

第3には、西洋医学には脚気に関する研究がろくになかったことがある。
明治維新は西洋崇拝の改革だった。医学も蘭法といわれたオランダ医学、
ドイツ医学がもてはやされた。それまでの漢方医はいっさいの権威を失い、
時代遅れとされた。その西洋医学には脚気という病気は知られていなかったのだ。
せっかく招かれた外国人医師たちもまるで初めて見る脚気の症状に戸惑うばかり
だった。

そして、何より最大の理由こそ、当時の医学界、栄養学界にはビタミンという
微量栄養素の存在すら知られていなかったことだ。日露戦争の時代、20世紀
初頭までは、タンパク質、脂肪、炭水化物と塩類さえあれば栄養は十分だと
考えられていた。身体の調子を整える栄養と今なら説明されるビタミンなど
誰もが想像すらしていなかったのである。

▼明治時代の主な原因説

幕末から明治にかけて、漢方の脚気専門医として信頼を集めていたのは
遠田澄庵(とおだ・ちょうあん)である。遠田(1819~89)は千葉県佐倉藩士
の家に生まれた。医学を幕府奥医師に学び、美作国津山藩の侍医となり、
のちに招かれて幕府奥医師になった。独自の脚気原因説、つまり米食が元で
あると正論を唱えた。米の代わりに麦飯を食べさせることで症状を軽くし、
しまいには完治させるという実績があった。しかし、この完璧な正論も西洋医学
崇拝の中で、漢方医の旧い俗説とされて葬られてしまうのである。

当時のヨーロッパ医学では細菌学が盛んだった。ふつうでは目に見えない
細菌が多くの病気を引き起こすということから、脚気もまた細菌繁殖による
伝染病だとされたのだ。これを主導したのは、ドイツ人医師ベルツとショイベで
ある。ベルツはのちの帝国大学医科大学、ショイベは京都療病院のお雇い
外国人だった。2人はそれぞれに有能で熱意のある医師だったが、当時の
最先端にいた人々であるがゆえに、かえって漢方医の意見を封じてしまう
権威者になった。そして存在しない細菌を探すという大迷走に医学界は陥っていく。

ありもしない細菌を探すという無駄な努力はなかなか報われなかった。
そこで中毒説が出された。脚気患者の様子は中毒症と似ていた。乳児脚気
の症状は中毒症と同じである。犯人とされたのは変質した青魚、米についた
黴(かび)などである。これを主張したのは、帝国大学の医学者たちだった。
この説もかなり熱心に支持され、今度は脚気毒が探されるようになった。

米食原因説と同じように日陰者扱いの説があった。栄養障害によるものだ
という考え方である。食事の中の脂肪とタンパク質の不足が原因とされるという
ものだった。食餌(しょくじ)が原因という点では鋭い視点といえたが、ビタミン
という存在が知られていないのだから、脂肪とタンパク質の不足という考察では
説得力に欠けるといえた。肉、卵、牛乳、乳製品が伝統的な和食には少ない
ということは明らかである。しかし、それでは西洋崇拝、白人優越主義になって
しまう。これもまた、なかなか世の中全体に支持されるわけではなかった。

ところが、この栄養障害説を果敢に実践に取り入れた勇敢な医師がいた。
海軍軍医だった高木兼寛である。

▼海軍の栄養障害説と陸軍の伝染病説

1880(明治13)年11月、5年間の英国留学から帰ってきた
高木兼寛(1849~1920)はただちに栄養障害説の見方に立った。日本人の
食事にはタンパク質が少なく、炭水化物が多いという点に着目して、食餌を
変えていこうとする主張である。高木はとりあえず、タンパク質を摂ることを
増やしていくという方向で海軍の脚気対策を考えていったのだった。

高木の生まれには諸説あるが、日向国(宮崎県)出身、貧しい郷士格の大工の
家で育ったともいう。医者を志し、鹿児島の蘭法医石神良策(豊民)の門下で医学
を学んだ。その後、戊辰戦争では薩摩軍所属の軍医として東北地方を転戦する。
薩摩に帰り、1869(明治2)年には鹿児島藩医学校で英国人医師ウィリスに学ぶ。

1872(明治5)年に石神の世話で海軍に出仕することとなった(翌年の名簿には
海軍少医監=少佐相当として載っている)。同75年には英国に派遣、ロンドンの
セント・トーマス病院医学校に入学、優秀な成績をおさめた。同80(明治13)年
に帰国後、ただちに東京海軍病院長を命じられた。

この高木の留学中には大きな改革があった。1876(明治9)年には『海軍省
職制』の制定で、海軍省は軍務局、会計局、主船局、水路局、医務局、兵務局
の六局制となった。医務局は庶務、薬剤、計算の3課で発足した。
また、これまで文官だった医官は「海軍軍医」とされて武官となった。医官の養成
制度も整備され、同73(明治6)年にはセント・トーマス病院の外科助教授、
英国人アンデルソンが招かれ軍医寮学舎の教官になる。同79(明治12)年には
海軍軍医学舎と改称されていたここから14名を卒業させてアンデルソンは帰国
した。つづいて翌明治13年には、正規の第1期生15名が卒業する。高木の
実践を支えたのは、この英国流医学を学んだ若い後輩たちの力が大きかったと
思われる。

高木は果敢に、勇気をもって自分の信念にそった行動をとった。彼はまず、
現場に出向き、脚気流行の現場を直に見た。すると艦船によって発生状況に
大きな差があること、下士兵卒に多く患者が出て士官には見られないことを
発見した。そこから各艦船で購入している食糧の違いではないかと考えた。
さらに高木は海軍卿(海軍省の長官)に直訴して、広く調査を行なった。
すると、買われた食糧のうち、タンパク質の割合が高く、炭水化物が少ない
艦船や団隊では発生率が低いことが分かった。逆に患者発生が多い艦船や団隊
では、タンパク質の割合が低く、炭水化物が多いことが判明した。

こうして高木は衛生行政担当官として兵食の改革を実行に移すのである。
ちなみに、1883(明治16)年まで海軍兵食は「無標準金給時代」といわれた
ように、食費を金銭で支給していた。下士兵員はそれぞれ勝手に好きなものを
買い、勝手な食事をとっていたのである。もちろん、グループ制でメンバーの
意見を尊重しながら代表が買い込んでいたのだろう。そうなると、下士兵卒は
食費を節約する。差額を戻され、貯金し、あるいは家族に送金するといった
ことになった。当時の食費は艦船乗り組み中には日額18銭、陸上勤務は
同じく15銭、航海中は30銭である。これをおおよそ10銭程度に切りつめて
いたらしい。

なお、士官には「食卓料」が支給されたが、将官は1日1円20銭、
上長官(佐官)同80銭、士官(尉官)同40銭だった。彼らは英国流の貴族生活
を行なっており、金を出し合って委員を選び、コックも雇い、洋食を食べ、バランス
のとれた食事をとっていた。脚気にはまったく縁がなかったのだ。現在からみれば
支給額の違いに驚くかもしれないが、欧州海軍との交際もあり、わが海軍ばかり
が「民主的」にはなれなかった。また、下士兵卒にも外国航海中は日額36銭
が支給された。そこから見ても、対外的には立派な海軍をもたねばならない
明治国家の貧しさがうかがい知れるのである。

次回は兵食改革と陸軍の改革の様子を比べてみよう。
以下次号
(あらき・はじめ)
著者の最新刊
「あなたの習った歴史はもう古い」
http://okigunnji.com/url/zu33cgsm/

●著者略歴
荒木肇(あらき・はじめ)
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜市立学校
教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員等を歴任。
退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師、
現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に関する研究を続ける。
2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、陸自部隊・司令部・
学校などで講話をしている。

◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」「自衛隊
就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日本陸軍と自衛隊」
「子供にも嫌われる先生」「東日本大震災と自衛隊」「あなたの習った歴史は
もう古い」(いずれも並木書房 http://www.namiki-shobo.co.jp/ )

「日本人はどのようにして軍隊をつくったのか」
(出窓社 http://www.demadosha.co.jp/ )

追伸
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