日本は「格差社会」である前に「階級社会」だ | 日本のお姉さん

日本は「格差社会」である前に「階級社会」だ

日本は「格差社会」である前に「階級社会」だ
東洋経済オンライン 2月9日(火)6時0分配信
日本では「教育手法」ばかり述べられるが、「階級社会」の事実が認識されていない(写真:Graphs / PIXTA)

26歳でイギリスのケンブリッジ大学物理学部に留学し、博士号を取得、“Nature Materials”に論文を載せるなど物理学者としての実績を上げながら、2015年にはオックスフォードで近代日本社会の研究に取り組み、特に教育社会学を学んだ。
それらの経験を生かし、地元の鹿児島で起業家として教育系NPO法人を設立した31歳・岡本尚也氏が、新時代の「知」を語る!

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最近、子供3人を灘高から東大理Ⅲに合格“させた”母親の子育て本が話題になった。私も書店で手にとってみたが、正直「ここまでできるのは凄いなー」と思う。こういう子育てハウツー本や教育方法に関する本は、これまで何度も何度も出版されてきた(百瀬昭次著『受験子育て戦略――わが子を成功型人間に育てるために』〈プレジデント社、1984年〉など)。

学歴なんて関係ない、良い大学を出ても社会で役に立つわけではないと言いながら、自分自身やその子供には可能なかぎり良い学歴を求めるおもしろい国が日本なのだ。本のとおりの子育てをしたって良い子供が育つわけではないと思いつつも、こういった本を手に取る人は多いだろう。

今回も、教育に関して考えていきたい。特に、いまの日本で「教育手法」ばかりが論じられていること、教育に関する議論に社会的な要素、環境面がほとんど出てこないことの問題点を取り上げる。

■ 「格差社会」と「階級社会」の違い

少し話が飛んでしまうが、オックスフォード大学の社会学の試験に次のような問題が出題されたことがある。「”格差社会”と”Class Society”の違いを述べよ(日本語訳)」。英語圏で使われる言葉の意味と日本社会において使われる言葉の意味からそれぞれの社会について述べさせる問題である。皆さんにもその違いを考えてほしい(社会学に親しむ人であれば、はじめの話題とこの問題のつながりが見えるかもしれない)。

Class societyを日本語にするなら、適語は「階級(階層)社会」となるだろう。「格差」と「階級」の違いを簡単に説明すると、格差とは社会の中で所得や待遇に差が生じている「結果」に重点を置く言葉で、階級・階層とは育った環境のような「社会的背景」に重きを置いた言葉である。

サッカー選手のデビッド・ベッカム氏が日本に紹介されはじめたころ、しばしば「中流階級出身」という言葉が使われた。ベッカム氏は、結果を基準とする「格差社会」の中では最上位層に位置する一方、「階級社会」の議論では中流出身ということになる。しかし、サッカーを通じて社会階級を乗り越えたベッカム氏の子供は、上流階級の出身ということになるだろう。

日本の状況を述べる前に、まずはイギリス、アメリカの例を紹介しよう。筆者はケンブリッジ大学、オックスフォード大学で学んだが、両校が特殊な大学であることはそこにいる人々を見れば明らかだった。親が著名な学者だったり、政治家、医者、会社役員だったりという学生がとても多かった。そんな学生達と話をした後の帰り道では、ホームレスの人たちが日銭を求めて声をかけてくる。イギリスでは、労働者「階級」と、中流「階級」、資本家「階級」の存在を、日常からも歴史からも感じることができる。着ている服も違うし、話す言葉にも違いがある。

また、アメリカ社会においては人種によって明確に年収に差が出ている。肌の色という明確な違いにより、「階級・階層」はより強く社会の認識を生むのである。 生まれた階級による格差は、世代を越えて影響を及ぼすことが特徴である。そして、それが子供の教育に与える影響が大きいため、1960年代の公教育の量的拡大の頃からイギリス、アメリカでは盛んに議論され、対策が取られてきた。格差と犯罪発生率には相関があること、そして格差の是正に教育が果たす役割が大きいのもひとつの要因である。教育は社会的地位を高める手段として広く考えられているのだ。しかし、両国ともその対策はうまく機能していない。

■ 日本は「階級社会」である

さて、日本社会ではどうであろうか?

結論から言うと、日本ではイギリス、アメリカと同等かそれ以上に、親の経済力・学歴、出身地(都市のほうが有利)が子供の学歴に影響を与えている(苅谷剛彦著『大衆教育社会のゆくえ』〈中公新書、1995年〉に詳しい)。

確かに、大学時代を振り返っても、そうだった。

そんな現実の一方で、教育に関する話題の中心は最初に述べたような「子育て論」や「教育方法」ばかりなのである。

日本も、出自による格差が強く固定化した「階級・階層社会(Class Society)」化が進んでいるにもかかわらず、結果のみを見た「格差社会」という言葉ばかりが使われているのだ。

この事実を知らないかぎり、日本の学校生活の中で「階層」を感じることはあまりない。

制度上、とてもフェアな日本の受験で成功する者は「頭がよく、勤勉で優秀な人」と認識される。

そして、その成功の理由が子供の置かれた環境などの社会的要因ではなく、教育によるものだと信じられているから、最初に触れたような本が注目され、売れるのだ。

 確かに教育の影響もあるのだが、そもそも書籍で紹介されているほどの労力と時間を子供にかけることのできる家が日本にどれ程あるだろうか? 

 最近、子供の貧困が話題になっているが、そもそも学歴に対する意識の低い家庭では、経済的な成功に結びつきやすい学歴を求めて努力する姿勢を身につけることすら、難しいだろう(もちろん「高い学歴=よく育っている」ではないが)。

 また、相対的に所得の低い「地方」の子供たちが東京の大学に行くには、学費の他に仕送りも必要だ。

相対的に所得の高い大都市圏の子供たちは学費のみで済む。

筆者はいま、生まれ育った鹿児島で教育に関わる活動をしているが、大きな可能性を感じる生徒に「大学はどこを目指しているの?」と聞いても、「鹿児島から出てはいけないと家族に言われる」「勉強していると、親から嫌な顔をされる」と答える生徒が進学校にさえ相当数いる。

この問題については、トップ大学に合格させる方法や主体的に物事を考えさせる方法の本を手に取って読んでも解決しないだろう。

高度な教育手法の下で努力することができるという環境も、決して当り前ではないのだ。

■ 真の「エリート意識」は階級を自覚したときに芽生える

 東大入学者シェアトップ20の高校は、首都圏(90%)か地方の名門私立高校である。

そこにいる学生の多くが同じような階層にいることは想像に難くないだろう(もちろん、例外もあり人々に希望を与えている)。

しかし、親も子供も階層の意識のない日本社会において、階層から得られた「特権・権利」に気付く機会は少なく、受験の成功者にしても自分の成功については「自分は頑張った!」という感情を持つ者が多くを占める。

特権を得た意識がないからこそ、そこから生じる「義務」についても考えが及びにくいだろう。

この連載の第7回ではオックスフォードで出会ったニコラス・デュボアを紹介した。南アフリカに生まれ、人種による階級・階層を目の当たりにして育った彼は、「自分は頑張ったけど、それ以上に”幸運”だった」と語る。「僕は、南アフリカの中では本当に恵まれた環境にいた。幸運だったと思う。南アフリカでいい教育を受けた人の多くは、よりよい収入を求めて国外に出て、いつの間にか故郷を忘れ、時にはさげすむ人もいる。でも、今の僕がいるのは、間違いなく南アフリカのおかげ。これだけいい環境で教育を受けられている。語学が得意だから、いろんな国のいろんな情報を知ることができる。南アフリカには僕にしかできないことがあるはずなんだ」と言っていた。
南アフリカほどではなく目にも見えにくいが、日本でもすでに世代を超える「階級・階層化」が起こっている。それでは、誰がこの問題を解決できるのか?  

悪い意味で階級意識のない、日本の学歴エリートたちには“見えない”問題かもしれない。

しかし、階級や階層など目を背けたくなるような問題でも、それを事実として受け止めない限り、解決は難しい。

これらの問題を事実として受け止めれば、「何のために学ぶのか」の意味もきっと変わってくるだろう。

 教育政策・方針の議論が難しい理由は、どの視点に立つかによって答えがさまざまな上、それぞれの立場では「正しい」ことが多い点にある。上位校では、より良い教育の議論になるし、下位層の通う学校では経済面や、不登校や非行に関する議論になりやすい。

会社に置き換えてみても、大企業と中小零細企業、業界トップとそれを追う企業では議論のテーマが異なるだろう。それと同じく、学校を一くくりにすることは難しい。

 大切なことは、ミクロな視点から出た解答は必ずしもマクロな視点での解答と一致しないということだ。各学校が目の前の生徒を前提に採る教育方針と国全体で行うべき適切な方針は決して同じではない。

 私が専門とする物理学では、統計力学の手法によってミクロとマクロの世界を繋ぐことができるのだが、教育の分野でそれを行うのは難しい。だからこそ、感覚的な議論に陥ることなく公教育の大方針とそれを評価・測定する指標を設定し、実態をもとに政策も決定をしていく必要があるのだ(戦後の教育政策では、「教育機会の均等」という方針のもと、地域・学校ごとのカリキュラム、教員の数や免許、学校の設備などがその指標となった。その結果、地域ごとの学力差も小さくなった)。

■ 「公」教育の役割とは? 

 学校の先生と話をすると、教育とは「環境」を作ってあげることだという言葉が出てくる。「環境」には、教育の機会や経済面も含まれる。目が向きがちな「教育手法」も土台となる「環境」が整っていなければ機能しづらい。

個人で環境を整えることが難しい場合は、公教育にその「環境」づくりを頼るほかない。

私はこの階級・階層化された社会的な環境を、革命を起こしてすぐさま改めよ!! という類の人ではないため、地元鹿児島で可能な限り「環境」を整えようと活動を行っている(具体的に何を行っているかは次回に記す)。

 「公」の精神があるといわれる日本社会において、一部しか知られていない「階級・階層化」という事実を、人々が広く認識した上でどのような変化が生まれるのかを見てみたい。

何かにつけて「主体的に考える」という言葉を使い、「教育手法」ばかりを主張する日本の「公」教育の役割を、もう一度考えなければならないのだ。

岡本 尚也
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160209-00103434-toyo-soci&p=1

貧乏な家に生まれたら、いくら頭が良くても、大学に行ける余裕は無いだろうから高卒でどこかの中小企業に入ろうとするでしょうね。
それでも、奨学金制度もある。
留学生は、頭が悪くてもコネで日本に入ってきて、月々14万円もらえるし、国費留学生なら22から24万円もらって余裕で貯金できるらしい。今はもっと額が増えているかも。
しかも、そういう留学生は、日本の大学に入ったら、直ぐにアメリカの大学に入学するんです。(日本の大学からアメリカの大学に移動するのは簡単)留学生だけを優遇しすぎかもね。
貧乏だけども頭のいい日本の学生は、もっと優遇されてもいいと思います。