日本は近未来の半島、大陸からの難民と如何に対応するのか | 日本のお姉さん

日本は近未来の半島、大陸からの難民と如何に対応するのか

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成27年(2015)10月9日(金曜日)
通算第4677号
ヨーロッパを襲う蝗の大群=「難民」は対岸の火事ではない
日本は近未来の半島、大陸からの難民と如何に対応するのか
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「難民」というやっかいな難題は、歴史開闢以来、どの地域であれ政治が抱えてきた。
古代フェニキアの女王は地中海からギリシアへ上陸し、中欧を目指した。中国の歴史は換言すれば難民大量発生の歴史であり、近年、アジアでもベトナムのボートピーポル、ミャンマーからの少数民族とウィグル族のタイへの密航がいまも続く。
中東からの難民はシリアとイラクが主で、戦争、内乱、圧政を逃れるため家財道具をたたき売って闇で調達したユーロで密航業者に大金を払い、欧州を目指す。彼らはひたすら自由と雇用をもとめて家族ぐるみでやってくる。密航船の転覆事故もあとを絶たない。
もとはと言えば欧米の傲慢でちぐはぐな中東政策の失敗に起因し、その災禍がブーメランのように跳ね返ってきたのである。
ブッシュ(父)政権が湾岸戦争、クリントン政権がNATO軍としてセルビア空爆、アフガニスタン介入。そしてブッシュ(息子)政権の対イラク戦争。くわえてオバマ政権での「アラブの春」への無原則的な関与とイランへの譲歩がサウジアラビアなどをして対米不信を増大させ、一方でロシアへの異様な接近をもたらした。
シリア空爆を英国が日和り、米国もためらった結果、ISISの跳梁跋扈をうみ、四百万をこえる難民がトルコ、ヨルダン、レバノンへ雪崩れ込んだ。とくにトルコは二百万人もの難民で、経済的苦境が深まっていた。
米国の中東外交は連続して失敗に帰結し、リビア、チュニジアは無政府状態となり、エジプトには軍事政権が帰り咲く。北アフリカの政情不安も数十万の難民が地中海を渡り、イタリアへと密航を重ねる。
九月になって大量の難民が地中海を越え、ギリシアーマケドニアーハンガリー経由でドイツを目ざすようになると、ドイツはEU諸国に難民割り当て制を言いだし、英仏は前向きだが他の諸国から総スカンとなった。
ドイツの身勝手さが攻撃され、英国や大英連邦下の豪、ニュージーランドまでが難民の受け入れを表明した。日本は当然のように金銭的負担を迫られる。かれらの失敗の尻ぬぐいを強要される不条理!
第一に大量の難民を斡旋する悪徳業者の存在がある。
第二にトルコの変心を指摘しなければならない。ISIS空爆を渋々承知したトルコは、主としてクルド武装勢力の拠点を空爆している。同時にトルコ国内の空軍基地を米軍に使用させ、見返りに難民の欧州への密航を黙認、というより奨励しているフシがある。厄介者を追い払おうとしているのだ。
こうした欧州への難民を日本は他山の石として教訓化する必要がある。軍事的緊張の高まる朝鮮半島が有事の際、悪質な密航業者が暗躍し、対馬、壱岐や五島列島など警備の薄い日本領土をめざすだろうことは火を見るより明らかである。
くわえて中国大陸に政変が起きれば、もっと大量の難民が日本を目指すであろう。そのとき、どうするのか。日本にはノウハウの蓄積が欠落している。
欧州への難民問題は対岸の火事ではない。
(この文章は『北国新聞』10月5日「北風抄」からの再録です)
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「大東亜戦争」終結70年「出陣学徒壮行の地」碑前における戦没学徒追悼献花式
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大東亜戦争終結70年「出陣学徒壮行の地」碑前における戦没学徒追悼献花式のご案内
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今年は終戦70年に当りますが、昨年秩父宮ラグビー場構内に移設された「出陣学徒壮行の地」碑前において、追悼献花式を下記の通り開催いたしますのでご案内いたします。
主催は早大、慶大、明大、その他各大学OB有志によりつくられた日本戦没学徒追悼会実行委員会です。祖国のために尊い命を捧げられた先輩戦没学徒に対して共に心をこめて慰霊追悼を行いたいと存じます。
是非多くの方々のご参列を呼びかけます。
実行委員は玉川博己(慶大OB)、杉浦利重(早大OB)、比留間誠司(明大OB)のいずれもわが同志がつとめます。
日時 平成27年10月21日(水)正午より
場所 秩父宮ラグビー場内「出陣学徒壮行の地」碑前
東京都港区北青山2-8-35
(秩父宮ラグビー場正門よりお入りください。)
銀座線「外苑前」徒歩5分。銀座線・大江戸線「青山一丁目」徒歩10分
JR「千駄ヶ谷」、「信濃町」徒歩15分
内容 黙祷、献花、追悼挨拶(所要時間30分)
主催 日本戦没学徒追悼会実行委員会
連絡先 〒108-0073
東京都港区三田2-9-5 みずほビル2F
玉川博己(代表幹事・慶應義塾大OB)
? 090-1611-9839
Eメール tamagawah@fuga.ocn.ne.jp
(読者の声1)西尾幹二氏著「維新の源流としての水戸学」を貴誌の書評で見て、講読させていただきました。素晴らしい本を書かれた西尾氏と興味を惹起する名書評をお書きくださった宮崎さんに感謝いたします。
読んで気になったところを以下に指摘させていただきます。
まず尊皇を第一とする大日本史を編纂することができたのは、水戸藩が御三家のひとつであったからだという指摘が複数個所で記述されています。私は、編纂が可能であったのは、水戸藩だったからであり、尾張藩や紀伊藩であれば、将軍家からの妨害に遭っていたと考えます。
徳川家康が定めた御三家は、将軍家、尾張徳川家、紀伊徳川家の三家で、将軍家は将軍職を継ぐが、徳川一門の中での家格は同じでした。
三代将軍家光が、御三家から将軍家を外し、代わりに水戸徳川家を入れ、御三家は将軍家より家格が下としました。
これは、尾張徳川家と紀伊徳川家を牽制するためでした。
こういった事情だったので、水戸徳川家が尊皇思想に基づく大日本史を編纂しても許容していたのでしょう。
つぎに徳川光圀の時代には幕府と呼ばれる機構は存在しませんでした。幕府とは武家政権が守護と地頭を任命して日本を統治するための機構です。
徳川将軍家は守護も地頭も任命せず、老中、大目付、寺社奉行、勘定奉行といったものはあくまでの徳川将軍家の家政機構でした。
しかし実質的には室町時代の幕府と匹敵するくらいの政治権力を持つようになったので、18世紀になると幕府と呼ばれることが多くなりました。例外的に17世紀でも幕府と呼ばれることがありましたが、あくまで例外です。
したがって、徳川光圀の時代に於いて幕府という呼び名を使うことは不正確です。
藤田幽谷の正名論は、論語の子路篇にある孔子の正名論を引用していますが、他にも明確に引用と分からない形での引用、つまり翻案が多くみられます。
最初の部分で孔子の正名論を引用しているのは、内容に関する批判を避けるためでしょう。孔子からの引用であることに加え「名」(大義名分)に関してであり、「体」(実相)や「用」(働き)に関してではないので、
あからさまな「徳川幕府」への批判であるととられることを避けるためです。
以下藤田幽谷の正名論からの引用は、岩波書店刊「日本思想大系35 水戸学」を使用します。藤田幽谷の正名論に以下のとおり記述されています。
「中葉以来、藤氏、権を専らにし、その幼主を輔くるや、号して摂政と曰う。然れどもただその政を摂するのみ、その位を摂するにあらざるなり。
政を天子に還すに及べば、すなはち号して関白と曰う。万機の政、その人に関白するなり。
これ皆上の命ずるところにして、敢へて僭号をなすにあらず。而して天子垂拱の勢も、また由来あり。鎌倉氏の覇たるや、。。。。。。」
これは、新井白石著「読史余論」に関白を初めておくに際して「六月五日詔して、応に奏すべき応に下すべきの事、必ず先づ諮り稟けよ。朕将に垂拱して成を仰がんとすと云々。」、とあります。
その少し後に「又按ずるに、当代の老臣、ことごとく関白或は内覧の臣のごとくなる歟。不審。」とあります。
正名論の「中葉以来、。。。また由来あり。」が「六月五日詔して。。。。朕将に垂拱して成を仰がんとすと云々。」の翻案で、「鎌倉氏の覇たるや、。。。」以降が「又按ずるに、当代の老臣、ことごとく関白或は内覧の臣のごとくなる歟。不審。」の翻案であることは明白です。
ここで、「垂拱」に対して岩波書店刊「日本思想大系35 水戸学」には「衣を垂れ手を拱く。無為。尚書、武成『垂拱而天下治』。」と
註がありますが、これは間違いです。これは、「読史余論」にもあるとおり尚書、畢命「予小人垂拱仰成」から来ています。つまり、成王ではなくその子の康王に関する話が原典です。
もうひとつ、藤田幽谷の正名論の最後の部分に以下の通り記述されています。ここは敢て漢文のまま引用させていただきます。
名正言順、然後禮樂興、禮樂興、然後天下治
これは、藤田幽谷の正名論の結論であり最重要な論点です。一見すると孔子の正名論の中の以下の部分の云い直しであると思えます。
事不正、則禮樂不興、禮樂不興、則刑罰不中
しかし、孔子はかなり限定された事象を述べています。私は、以下の山鹿素行の中朝事実神知章の結論部分の一文の翻案と考えます。
則政體正而衆備豫禮樂興而風俗厚矣
ここで、「豫」は易経の豫の卦のことで、意味は「禮樂興」です。修辞上「禮樂興、禮樂興」と書く代わりに「衆備豫禮樂興」としたのでしょう。中朝事実は「名」(大義名分)だけではなく、「体」、「用」そして「礼」の全てを含む観点から論じたので表現が少し違っています。実質的に禁書であった中朝事実を藤田幽谷が読む可能性があったか、という疑問もあります。
藤田幽谷の弟子の会沢正志斎が書いた「新論」で日本と中国と呼んでいます。これは、山鹿素行が中朝事実の中で初めておこなったことです。おそらく、師の藤田幽谷も中朝事実を読んでいたと思います。
ところで、水戸藩は、当初25万石、それが、28万石、1701年からは35万石に加増されました。
御三家のひとつとしての体面を保つため、表高を高めにしていましたが、実際の石高「内高」はそれより低かったと言われています。
35万石しかも御三家としての家格にふさわしくするために、支出は多く、さらに大日本史編纂のための出費があり、藩士への俸禄は他藩と比べてかなり低かったようです。江戸で町人に対して代金を踏み倒す藩士もいて、町民から水戸藩士は嫌われていたという話を読んだことがあります。また、領民からの取立ても厳しかったそうです。藩が小生瀬村の住人約五百人を皆殺しにする事件も置きました。
西尾氏の著書に「ここ(朝井まかて氏著「恋歌」)にも書かれていたように藩財政の窮乏が終始心のゆとりを奪っていました」とあります。
これは、表高よりはるかに内高が多く、財政に余裕があった尾張藩との違いです。
島崎藤村の「夜明け前」にもあるとおり、この余裕によって尾張藩の領民の税負担は軽く、明治維新後税金が高くなって尾張藩の旧領民は明治維新に不満を持ちました。逆に領民と江戸の町民の怨嗟を受けた水戸藩士たちが、子年のお騒ぎ、つまり天狗党の乱で多くの藩士とその家族が塗炭の苦しみを潜り抜けることになったのかもしれません。
「三島由紀夫の総合研究 合本第34号」に玉川博己氏が西尾氏の著書の書評を書かれていますが、その中で尾張藩と水戸藩の尊王論の共通点を記述されています。
一方、私は違いを述べさせていただきました。しかし、置かれた状況が違ったのが根本原因で尾張藩士が水戸に生まれていたら水戸藩士のようになったのでしょう。そして、その逆も。
(當田晋也)

樋泉克夫の「知道中国」シリーズ
【知道中国 1305回】
――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡46)
岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
李鴻章を評して「五年の後を待たん」と岡が記したのは日清戦争勃発10年前の明治17(1884)年。開戦から馬関条約締結までの間、日本との交渉を取り仕切ったのが李鴻章だったことを思えば、「五年の後」の2倍の10年にはなったものの、当時の「中土」にはやはり李鴻章しかいなかった。であればこそ、昨今の中国における李鴻章再評価の動きも頷ける。これを「実事求是(ただしくすなおなみかた)」というのだろうか。
天津で残された日々は少ない。早速、世話になった友人に別離の手紙を綴る。
――「中土」には自強を主張しない者はいない。自強の本来は自治にこそある。聖人は自治の本然を「格致」といい「正誠」と説いた。今般、「中土」を旅したが、「格致の學」を説く者に1人として出会うことはなかった。また1人として「正誠の教」を持つ者にお目にかかることはなかった。そんなことはないかも知れないが、少なくとも私が接した限りでは、そういう人物はいなかった。かくも自治を疎かにして自強の成果を求めようなどは、全く以て笑止千万。これでは、渇望したところで得られる訳がないだろうに。私が去った後、中堂公(李鴻章)からご下問があったなら、ここに記した我が説をお伝え願いたい。(11月26日)――
同じ内容の挨拶文を、天津を管轄する周道台にも認めた。
「格致」といい「正誠」といい、なにやら朱子学の神髄のような観念だが、敢えて「格致(どうり)」「正誠(まごころ)」と読み替えることは出来ないだろうか。道理も真心もない。あるのは急場凌ぎの利害打算であり、自己満足であり、喧々諤々の口から出まかせ。立身出世であり、「昇官発財」、つまり官途に就いてのカネ儲け。これでは堕ち行くばかりで、とうに先は見えている。勇ましくも高らかに自強を口にする者は多いが、自治の本然を極めようという者は見当たりそうにない。この期に及んでも“死に学問”とは、呆れ果てて、開いた口が塞がらない。懸命に防備を固め、道理を極め真心を尽くし、右顧左眄することなく、軽佻浮薄に奔らず、確固とした自らを築くこと。これこそが「格致」であり「正誠」であり、「自強」であり「自治」というものだ――これが、岡の言いたかったことではなかっただろうか。
翌日(27日)、「早起」して別の友人を訪ねるが、まだ寝ていた。そこで今日の出立を告げる。すると「急遽出見」した友人が「新たに繁職(ようしょく)を解雇された」と口にした後、「貴国は『法虜』と取引して、この機に乗じて台湾を略取しようとしているのでは」と問い質す。そこで岡は
――「中人」の猜疑心は極まった。常軌を逸しているというものだ。たとえるなら「中土」は奥部屋で日本は玄関だ。奥の部屋と玄関とがあって、一つの家だろう。「日東」は「中土」の廡の下に国を建てて2000年。所謂「輔車、相(たがい)に依(たよ)る」の関係というのに、この機に乗じて狡猾に奔り目先の利益を求めるわけがない。いまや安南はフランスの手に落ちた。朝鮮は気息奄々として滅亡は免れそうにない。
「中土」にとっての「同文の隣国」のなかで「氣力」を有するは僅かに「日東」だけだ。「中土」が何事かを為さんとして共に謀ることができるのは、やはり「日東」のみ。琉球は末界微事(ちいさいこと)だ。小事に拘って大きな好を失ってもいいのか。
戦というものは「危事」だ。膿汁を絞り、ありとあらゆる策を事前に講じ、いざ国論を決した後は一切の動揺を見せてはならない――
岡の乗る豊順号は凛然たる風のなか天津を離れ、冰の混じった白河の流れを下る。河口に到着したのは夜半。両岸の砲台は、来着時より固められている。戦は近い・・・のか。
《QED》
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