偽物の日系人が半数はいると偽物日系人が言っていたよ。 | 日本のお姉さん

偽物の日系人が半数はいると偽物日系人が言っていたよ。

ブラジルやペルー人は日本に来るために日系という戸籍を「買う」。
「日本人はバカだから直ぐ騙せる」とブラジル人が笑いながら言った。
弟から聞いた話ですから本当です。

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◎「良い日本人」に「悪い非日本人」という常識について考える。

にしゃんた | 羽衣国際大学教授・社会学者・タレント

「多文化が共に楽しみ、力にかえ、共に笑える世を願う人間にとって、最
も見聞きしたくないのは、共生をマイナスとして捉えられかねない報道で
ある。過去の教訓や現状を参考に、平和で持続可能な未来日本像について
真摯に考えるほどその気持ちが強くなる。

生憎ながら、私などの30年ほどの日本滞在中にも何度かこれらの不都合な
真実(報道)を耳にした。もっとも最近のものだと「ペルー人男性による殺
人事件(ママ)」がそうだった。「日本において、外国出身者による犯罪な
どは起きてほしくない」と願っている身としてこれほどショックなことは
ない。事件の報道を聞いた瞬間、内心「しまった」と悔しい思いをした。

私は「違いを楽しみ、力にかえる、多文化共生"新"時代」などの題名を
引っさげて、日本のあちこちで講演をしているが、この手の事件が起きて
しまうと、「共生」について語っても、誰も聞く耳をもってくれないので
はないか、と自問自答をした。

それにしても、世の中の報道について素朴な疑問を抱くことも少なくな
い。そこには一種の偏りが見える。そこにはいつも共通して存在している
キーワードがある。個人として持ち合わせている言葉で言うと、それは
「多数派本位」ということになる。報道の一つ大きな特徴は、社会の多数
派に向けて、多数派によって、多数派視点で発せられているということで
ある。2005年にも広島で「ペルー人による事件」(ママ)があったが、それ
から10年が経っていても報道の立ち位置に変化はない。

報道に対して違和感を感じる点はいくつかある。

1つは、加害者の名前と出身国(国籍)をかならずセットにして、しかも1ヶ
月近く繰り返し報道されていることである。国家が、産み落とした1人の
人間のためにどこまで責任を負わなければならないか。成人した子の行い
に対して親がいつまで経っても追っかけられ、責任を負わされている妙に
も似ている。加害者を表現するにあたって、国籍とセットで○○人として表
現することが絶対的に必要なのかを再考しても悪くない。

「ペルー」と「殺人」のキーワードがセットになった報道が繰り返されて
は、受け手の多数派日本人は、国としての「ペルー」やペルー関連全般に
対して、無意識に拒否反応をもつのではないか。そのことで日本の多数派
が自ら視野を狭めてしまうだけではなく、ペルー人自身も、例えば、日本
に住む5万人近くのペルー人全員に対しても偏見をもたれかねない。多数
派も少数派も、自他ともに被る損失が大きい。

2つ目の報道に対する違和感は、報道におけるペルー人のアイデンティ
ティは断片的であると言うことである。彼は「日系」であることが紹介か
ら省かれている。彼は「日系ペルー人」である。ペルー人であると同時に
日系人でもある。実は、彼が現在、日本に在住できる最大の理由は、彼は
「日系人」ということにある。彼が日本に入国出来たのも、滞在資格の取
得を可能にした最大の理由も彼が日系人であるということにある。日本の
報道は加害者が「日系」であると言わないことによって、「日本人は悪い
ことをしない」と真実を歪曲させているとも思える。

報道する側が、国籍を重んじていると仮に言ったとしても疑わしい。日本
のメディアにおける報道の立ち位置は一定していない。そこには常にご都
合主義が存在している。例えば、同じ日系ペルー人のアルベルト・フジモ
リが大統領になった時は、大々的に「日本人」として報道されたことを記
憶している。2014年にノーベル物理学賞を受賞した、中村修二が米国籍で
あるにも関わらず日本人と報じた。日本人は優秀であると言いたいに違い
ない。

2005年に起きた「中国人妻による保険金目当ての殺人(ママ)」についての
報道を思い出す。彼女は日本国籍を取得していたので、国籍上は日本人だ
が、メディアは彼女の元々の国籍までさかのぼり外国籍として扱った。逆
に、野球の王貞治の場合は、国籍はいまだ中華民国(台湾)であるにもか
かわらず、初となる国民栄誉賞まで与え、日本人として讃えた。

「日本の報道を注意深く観察すると、「良いことは日本人」、「悪いこと
は非日本人」という、単純なロジックの上で成り立っていることに気づ
く。日本のメデイアにおける多数派本位の傾向は、「外国人犯罪(マ
マ)」を強調した番組づくりなどでも見られる。日本の国際化に伴い海外
にルーツのある人間も増えてきた。確かに海外出身者による犯罪も起きて
いる。必ずや食い止める必要がある。

しかし、メディアにおいて展開されている「良い日本人」に「悪い非日本
人」という演出は社会を騙しているに過ぎず、社会に幸せをもたらすとも
思わない。メディア側の多数派に照準を合わせた報道をしたくなる気持ち
は筆者としても心情的には理解できる。しかしメディアとして、多数派視
点に凝り固まった報道は許されるべきものではない。
2015年9月27日 9時45分


2015-09-29 16:43:58
タレン トのにゃしんたさんの記事はひどいですね。
テーマ:紹介

読 者 の 声
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1)「話 の 福 袋」 覧の羽衣国際大学教授・社会学者・タレントのにゃしんたさんの記事はひどいですね。

にゃしんたさんは日本の報道は外国人だけを悪者にして、良いことをしたのは皆日本人にしていると指摘し、多文化が共生する社会を日本で実現するためには、ニュースなどで犯人が外国人であることを隠すべきと主張されてます。

しかし、にゃしんたさんの指摘は誤りです。
日本の犯罪者もちゃんと報道されているではないですか。
犯人の国籍が日本人なら省略されているだけです。
犯人が日本人だった場合、外国籍と偽って報道してるのなら、悪いことはみんな外国人の仕業であるように報道しているといえるかもしれません。
しかしそうではありません。ま
た良いことをした外国人を全て日本人と偽って報道しているわけでもありません。

もし、不公平だというのなら、国籍問わず人が良いことをしたときも悪いことをしたときも、「○○系○○人男性(あるいは女性)」と書くよう、主張 なさればよいのでは?

にゃしんたさんのいう、『「良い日本人」に「悪い非日本人」という常識』自体が、にゃしんたさん個人による単なる思いこみなのです。

そんな「常識」など日本人の誰も持っていないし、そういったロジックも存在しません。

にゃしんたさんは「多文化共生」なる美名を盾に、一方的に架空の常識をでっち上げ、濡れ衣によって日本社会を告発しているのです。

元日本人であっても良いことをした人が日本に関わりがある場合、親しみを感じて当然でしょう。
にゃしんたさんはそういった機会を奪おうというのでしょうか。

にゃしんたさんは「違いを楽しみ、力にかえる、多文化共生"新"時代」という講演を日本のあちこちでしているそうですが、国籍や出自などの基本的な情報を隠蔽して、どうして多文化の違いを楽しめなどと主張できるのでしょうか。

文章の最初と最後で言ってることが矛盾しています。

それでよく大学で教えることができるものです。

また日本人でも日本人ではなくても日本に暮らす人々には知る権利があります。

真実を「不都合」というだけで報道を抑制するのは検閲です。

社会学が理想の社会を追い求めるのは良いでしょう。

しかし理想からの逸脱を告発の対象とするのは旧ソ連とその衛星国が行っていた全体主義です。

社会学という学問自体に、全体主義に陥りやすい弱点があるのです。

社会学者を名乗るなら、社会を批判して得意になる前に、このような自らの弱点を自覚すべきでしょう。

私も社会科学で博士号をとり、大学でも教えてきましたが、私の見るところ社会学者を名乗る人間のほとんどが、こういった基本ができていない
(学者としての基本ではなく人としての基本です)。

社会学者を肩書きにする人物が告発を帯びた主張をするときは、善意の影に自由を抑圧する幼
稚な尊大さがあるのです。

この点注意が必要です。(匿名希望) AD