日本人200人超虐殺の通州事件 中国指摘する南京事件と酷似 | 日本のお姉さん

日本人200人超虐殺の通州事件 中国指摘する南京事件と酷似

西安事件の張学良 蒋介石ら国民党が共産党に負けた理由語る
2015.01.12 07:00

日中戦争時代、中国東北部の馬賊、張作霖の長男で、中国国民党の蒋介石・軍事委員長の身柄を拘束した西安事件の首謀者、張学良氏が晩年、中国国民党が中国共産党に敗北した原因について、「国民党は中心的な思想をもっていなかったからだ。それに比べて、共産党は共産主義思想を信仰にまで高めており、それが革命の原動力になった」と指摘し、共産主義を高く評価していたことが分かった。北京市政府機関紙「北京日報」が報じた。

張学良は国共合作を主張していたが、これに反対する蒋介石が1936年12月、張学良を説得するため、西安を訪れた際、蒋介石を捕らえ、国共合作を実行するよう説得。蒋介石が納得したため、張学良は蒋介石の身柄を解放したが、反逆罪で逮捕され、懲役10年の刑を受けた。その後、恩赦で釈放処分を告げられるが、蒋介石は張学良を幽閉し続け、自由を奪われた期間は50年に及んだ。

張学良は晩年、釈放され、ハワイで過ごし、自身の死後、公開することを条件に米コロンビア大学の研究者のインタビューに応じて、西安事件の内幕などを語っていた。張学良が共産主義を評価していたことは、このインタビューで明らかにしていた。

それによると、張学良は国民党の方が共産党よりも数倍も強力な軍隊や兵器、さらに資金をもっていたが、結局、国民党が勝てなかったのは、中心的な思想がなかったためで、共産党軍は一種の信仰に近い共産主義思想をもっていたことを評価。張学良は後に首相になる周恩来ら共産党の最高幹部と接するうちに、「共産党は明確な目標があり、理想がある」として、張学良自身も共産主義に共鳴し、思想をともにするようになったという。

これに比べて、国民党は孫文が提唱した三民主義(民族主義,民権主義,民生主義)を党の指導理念としたが、党の指導者が各自、自身の利益を優先し、共産主義のように信仰の部分にまで高めることができなかったと分析。

最高指導者の蒋介石自身も利己主義的な傾向が強く、有用な人材を登用せず、蒋介石に媚びる人々を重用した結果、国民党軍内で厭世的な気風が蔓延して、汚職がはびこり、戦いの士気が上がらず、共産党軍に敗北する大きな要因となったと指摘。

「中国国民党軍に人材がいなかったのではなくて、蒋介石が活用できなかっただけだ」と苦言を呈している。
http://www.news-postseven.com/archives/20150112_295507.html

台湾の蒋介石総統の妻・宋美齢氏の米旧居 1000万ドルで売却
2015.09.12 07:00

台湾の蒋介石総統の妻で、中国近代史に大きな影響を与えた宋美齢が1975年から1995年までの20年間、生活を過ごした米ロングアイランド島の豪邸が今年7月、売りに出され、すでに1000万ドル以上の値で買い取られていたことが分かった。

豪邸は宋美齢記念館として改装されるとの話もあったが、結局、基金が集まらず途中で立ち消えになった。宋美齢が2003年10月に死去して、すでに12年。蒋介石、孫文、孔祥熙の妻となった宋ファミリーの3姉妹の記憶もすでに風化しつつあるようだ。台湾各紙が報じた。

宋ファミリーの3姉妹とは、財閥で国民政府財政部長(閣僚)を務めた孔祥熙の夫人の宋靄齢と、孫文夫人で二女の宋慶齢、それに三女の宋美齢。このなかでも、宋美齢は蒋介石夫人として、国民党政権時代やその後の台湾政治にも強い発言力を有した。

しかし、1975年に蒋介石が死去すると、その後継者として、蒋介石の前妻との子である蒋経国が総統の座につくと、宋美齢は台湾を去り、米国に移住。ロングアイランドの孔祥熙の豪邸で生活をするようになった。

この豪邸は敷地面積が約15万平方メートル、廷内にはベッドルーム9室、トイレも9室。ゴルフ場のほか、サウナやジム、プール、映画鑑賞室などが完備。

今年7月、1180万ドル(約14億4000万円)で売りに出され、8月中に売買契約がまとまったが、その額は明らかにされていない。

宋美齢が1995年にニューヨークに移り、2003年に死去したあと、一時、ロングアイランドの豪邸を宋美齢記念館あるいは宋ファミリーに関する展示館にするとの情報もあったが、資金が集まらず、豪邸を手放することになったという。

一時は大きな権勢を振るった宋美齢や宋靄齢だが、台湾でも忘れられた存在となっており、二女の宋慶齢は1949年の中国共産党政権成立後、中国人民政治協商会議(政協)副主席として、来るべき中台統一の象徴的存在として祭り上げられ、政治的な影響力はほとんどないまま、1981年に死去。一時代を風靡した「宋氏(家)3姉妹」の記憶は中国大陸、台湾ともにほとんど残っていないようだ。
(文中一部敬称略)
http://www.news-postseven.com/archives/20150912_348995.html

中国で抗日戦争を戦ったのは国民党軍 共産党は成果を横取り
2015.08.19 07:00

今年の9月3日、中国共産党は北京で「戦争勝利70周年記念」の式典と軍事パレードを行う。しかし、そもそも中国共産党が日本に勝利したという話自体が嘘なのだ。1937年7月の盧溝橋事件を発端に始まった日中戦争は、中国国内の内戦に日本が干渉する形で始まった。

当時、中国では、日本が支援していた汪兆銘の南京国民政府と、蒋介石の国民党、毛沢東の共産党が三つ巴の内戦を繰り広げたが、すでに共産党軍は内戦で疲弊し弱体化していた。

同年9月の国共合作で国民党と共産党は手を結んだが、毛沢東の戦略は「夷をもって夷を制す」。すなわち、敵同士につぶし合いをさせることだった。

日本軍と国民党軍が戦闘になるよう工作し、共産党は非戦闘地帯で勢力を拡大させた。ゆえに、日本軍と共産党軍が正面きって戦火を交えた記録は残っていない。

1945年8月に日本が降伏し、蒋介石の中華民国は戦勝国となった。だが、戦争で戦力を消耗した国民党と、勢力を復活させた共産党との間で内戦となり、蒋介石は台湾へ逃げ、共産党は中華人民共和国を樹立した。

つまり、抗日戦争を戦ったのは国民党軍であり、中国共産党は国民党の“成果”を横取りしたに過ぎない。

※SAPIO2015年9月号
http://www.news-postseven.com/archives/20150819_340495.html

中国の日本人虐殺「通州事件」 鼻に針金通し青竜刀で体抉る
2015.04.07 16:00

戦後70年、中国は自らが犯した戦争犯罪をひた隠しにしてきた。その一つが、多数の在留邦人が虐殺された「通州事件」だ。残されたわずかな記録からその封印を解く。

その凄惨な事件は、日中が本格的な軍事衝突を始めた盧溝橋事件(*注1)直後の1937年7月29日、北平(現在の北京)近郊の通州で発生した。

【*注1/1937年7月7日、日本軍と中国の国民党軍の間で起きた武力衝突事件。中国共産党軍が事件を誘発させたとの説が有力となっている】
当時、満州国と隣接する中国・河北省には、蒋介石の国民党政府から独立し日本人が実質統治していた「冀東(きとう)防共自治政府」が置かれ ていた。自治政府は九州と同程度の面積で、人口はおよそ700万人。「首都」である通州には400人近い日本人が暮らしていた。自治政府の首班は、日本への留学経験もあり、日本人の妻を持つ親日派の殷汝耕(いんじょこう)。通州には邦人保護を目的とする日本軍守備隊も駐留しており、比較的、治安は良好だった。

ところが、突如として自治政府の中国人保安隊約3000名が武装蜂起し、首班の殷汝耕を拉致した上で日本軍守備隊と日本人居留民を奇襲したのである。事件当時、通州に滞在していた米国人ジャーナリスト、フレデリック.V.ウィリアムズ氏は、惨劇の様子を自著『Behind the news in China』(1938年)で克明に綴っている。

「それは一九三七年七月二十九日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追いつめられていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。

それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別も付かなかった(中略)何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ」(訳書『中国の戦争宣伝の内幕』芙蓉書房出版刊・田中秀雄訳)

事件の当日、日本軍守備隊の主力は南苑での作戦(*注2)に投入されており、通州に残る守備隊はわずか100名に過ぎなかった。守備隊は30名の兵を失いながらも必死の反撃を続けたが、翌日、日本軍の応援部隊が現地入りするまでに、223名(防衛庁編纂『戦史叢書・支那事変陸軍作戦1』より。260名~300名とする説もある)の邦人が虐殺された。

【*注2/日中戦争初期の戦闘「平津作戦」のひとつ】
事件の首謀者は、自治政府保安隊幹部で反日派の張慶餘(ちょうけいよ)と張硯田(ちょうけんでん)だった。両者は直前に起きた「盧溝橋事件」で日本軍と武力衝突を起こした国民党軍第29軍と予てから密通し、武装蜂起の機会を窺っていた。背後で糸を引いていたのは中国共産党だ。

当時、蒋介石率いる国民党は中国共産党との「抗日共闘路線」に舵を切っており、第29軍の主要ポストにも複数の共産党員が充てられていた。

日本と国民党政府の全面対決を画策する共産党は、冀東防共自治政府とその保安隊にも「抗日分子」を浸透させ、日本人襲撃計画を立てていた。 通州の惨劇は、中国共産党の謀略による“計画的テ
ロ”だった可能性が高い。

当時の新聞各紙は「比類なき鬼畜行動」(1937年8月4日・東京日日新聞)、「鬼畜 暴虐の限り」(1937年8月4日・読売新聞)といった見出しで冀東保安隊による殺戮の一部始終を報じ、事件直後に現地入りした読売新聞社の松井特派員は、惨状をこう伝えていた。

「崩れおちた仁丹の広告塔の下に二、三歳の子供の右手が飴玉を握ったまま落ちている。ハッとして眼をそむければ、そこには母らしい婦人の全裸の惨殺死体が横たわっているではないか!(中略)池畔にあげられた死体のなかには鼻に針金を通されているものがある(中略)男の鼻には鈎の様に曲げられた十一番線の針金が通され無念の形相をして死んでいる(後略)」(1937年8月4日・読売新聞夕刊)

事件後の現場には、青龍刀で身体を抉られた子供や、首に縄をつけて引き回された形跡のある男性の死体もあった。この事件後、日本国内の対中感情が急速に悪化し、日中戦争の泥沼に向かっていった。
※SAPIO2015年5月号
http://www.news-postseven.com/archives/20150407_314163.html?PAGE=1#container

日本人200人超虐殺の通州事件 中国指摘する南京事件と酷似
2015.04.04 16:00

日本に対して、「歴史の直視」を訴える中国政府の急所は、自国の歴史認識に他ならない。1937年に北京郊外で発生した通州事件と1946年に吉林省で発生した通化事件。いずれも多くの日本の民間人が虐殺されたが、中国共産党は、現在に到るまで隠蔽し続けている。戦後70年の今年、中国は戦勝国としての「面子」と「立場」を盛んに強調するが、自国の戦争犯罪を検証できない国に未来はないとジャーナリストの櫻井よしこ氏は指摘する。

* * *
今年に入って中国が、日本に対して次々と「歴史カード」をきってきています。最近では、虐殺の事実を確認できない南京事件の犠牲者を「40万人」とまで言い始め、「日本兵の残忍さ」を世界中に宣伝しています。3月21日の日中韓外相会談でも中国の王毅外相は日本の岸田文雄外相に「歴史を直視せよ」と述べ、安倍政権を厳しく牽制しました。

しかしこの言葉は、中国にこそ向けて発せられるべき言葉だと、私は思います。

中国の地で日本人が及んだとされる残虐な行為のほとんどは根拠に乏しいからです。たとえば南京では「赤ん坊を空中に投げ、落下するところを剣で刺した」という話を中国政府は広めています。日本の先人たちが、その種の暴虐に及んだとは俄(にわか)には信じがたいのです。
調べてみると、そうした蛮行はむしろ中国人が日本人に対して及んだ行為であることが分かってきました。日本ではなぜかあまり知られていませんが中国では日本人に対する虐殺事件が幾度も起きています。代表的な事例が1937年7月29日の通州事件です。

通州事件では約400人の在留日本人のうち200数十人が虐殺されました。女性たちは辱められ、遺体を切り刻まれ、中国兵たちは切り落とした頭部で遊んだとさえいいます。首を固定して吊るされている人たちも目撃されました。彼らは食事も水も与えられず放置され、何日間もの長い間苦しんで死に至ったのでしょう。

気付かれたでしょうか。これらは、南京で日本人が犯した残虐行為だと中国政府が主張するものと酷似しています。
人間は、自分の行動や価値観に基づいて、他人の行動を推し量ろうとする生き物です。中国政府が、日本軍が南京で及んだと主張する行為には裏付けがない。それどころか、日本人の犯罪を後からでっちあげるべく、自らの過去の蛮行を参考にした可能性があるのです。その一つが通州事件だったと私は考えています。

通州事件は中国人の民族性の一端を表していますが、それは100年や200年のスパンで築かれたわけではありません。紀元前500年から紀元1000年までの約1500年の中国の歴史を、北宋の学者・政治家だった司馬光がまとめた『資治通鑑』という歴史書があります。

1万ページに及ぶこの大著の中に中国人が長い歴史のなかですさまじい拷問を編み出し、政敵や反逆者たちへの罰として、繰り返してきたことが書かれています。中国では刑は残酷であることをもって是とされ、捕らえた者をより多く、より長く苦しませなければ、逆に刑吏が罰せられました。通州事件で日本人が受けた残虐な行為は、いずれも同書に繰り返し繰り返し登場する刑罰そのものでした。

そうした民族性は、戦後も綿々と受け継がれました。 『資治通鑑』を17回も読んだとされる毛沢東は、大躍進政策で約2000万人の農民を餓死させ、文化大革命で3000万人以上の知識人や富裕層を死に追いやりました。
現在も、反政府の活動家や中国共産党内の不満分子に対して、人を人とも思わないようなすさまじい拷問が繰り広げられている、国家主席をはじめとする中国の指導者層は、同書に書かれていた恐怖政治を体制安定のために敷いているのです。

※SAPIO2015年5月号
http://www.news-postseven.com/archives/20150404_314105.html?PAGE=1#container

日本最東端の南鳥島 父島の雑貨商が遭難・漂着の末に発見
2012.08.28 07:01

領土を守る行為とは、「ここは日本領だ」と叫ぶことだけではない。むしろ、名もなき市井の人々が築いてきた生活の営みこそ、「日本領土」たる揺るぎなき根拠である。ここでは南鳥島をめぐるエピソードを紹介しよう。

日本最東端の島、南鳥島には現在、海上自衛隊、気象庁の職員ら30数人が常駐する。この島を発見したのは、小笠原諸島・父島の雑貨商、水谷新六という人物だった。

1896年、水谷は当時、無数のアホウドリが棲息するとの噂があった「グランパス島」を探す探検に出た。結局この島は海図に誤記された幻の島だったが、諦めて帰港する途中、台風に遭って小さな珊瑚礁の島に漂着する。

この島が南鳥島だった。

船がバラバラに砕け散り、食料も水も底をついていた水谷は、小型の伝馬船で南鳥島から小笠原へ帰ろうと再び海に出た。高波に翻弄されながら、ただ北へ北へと舵を取り続け、約1か月後、小笠原から1800キロも離れた千葉県の勝浦沖で漁船に救助された。

奇跡的に命拾いした水谷は、その後23人を引き連れて南鳥島に移住する。鰹漁やアホウドリの羽毛、鳥糞石(リン酸カリ)の採取が主な仕事だった。それがきっかけとなって、1898年に明治政府が南鳥島を小笠原諸島に組み入れ、正式に日本領土と制定したのである。

※週刊ポスト2012年9月7日号
http://www.news-postseven.com/archives/20120828_139365.html