中国が主張する南京虐殺30万人説 当時の人口20万しかおらず
中国で抗日戦争を戦ったのは国民党軍 共産党は成果を横取り
NEWS ポストセブン 8月19日(水)7時6分配信
今年の9月3日、中国共産党は北京で「戦争勝利70周年記念」の式典と軍事パレードを行う。しかし、そもそも中国共産党が日本に勝利したという話自体が嘘なのだ。1937年7月の盧溝橋事件を発端に始まった日中戦争は、中国国内の内戦に日本が干渉する形で始まった。
当時、中国では、日本が支援していた汪兆銘の南京国民政府と、蒋介石の国民党、毛沢東の共産党が三つ巴の内戦を繰り広げたが、すでに共産党軍は内戦で疲弊し弱体化していた。
同年9月の国共合作で国民党と共産党は手を結んだが、毛沢東の戦略は「夷をもって夷を制す」。すなわち、敵同士につぶし合いをさせることだった。
日本軍と国民党軍が戦闘になるよう工作し、共産党は非戦闘地帯で勢力を拡大させた。ゆえに、日本軍と共産党軍が正面きって戦火を交えた記録は残っていない。
1945年8月に日本が降伏し、蒋介石の中華民国は戦勝国となった。だが、戦争で戦力を消耗した国民党と、勢力を復活させた共産党との間で内戦となり、蒋介石は台湾へ逃げ、共産党は中華人民共和国を樹立した。
つまり、抗日戦争を戦ったのは国民党軍であり、中国共産党は国民党の“成果”を横取りしたに過ぎない。
※SAPIO2015年9月号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150819-00000006-pseven-cn
竹島はサンフランシスコ条約で日本領確定 米も韓国帰属一蹴
NEWS ポストセブン 8月10日(月)16時6分配信
島根県の竹島について、韓国は「独島(竹島の韓国名)は我々の鬱陵島の属島であり、かつて“于山島”と呼ばれていた」と主張している。
だが、朝鮮の古文書や古地図に描かれた「于山島」は位置が曖昧で、近年の研究から、鬱陵島の東約2kmに位置する小島の「竹嶼(チュクソ)」である可能性が濃厚になっている。
日本は、江戸時代から漁業を通じて竹島の領有権を確立し、1905年の閣議決定で正式に島根県に編入した。1951年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約でも、竹島が日本固有の領土であることが明確になっている。
同条約で連合国側は、日本に「済州島、巨文島、鬱陵島を含む朝鮮」を放棄することを規定。韓国は放棄地に竹島も含むよう米国に求めたが、「竹島は1905年ごろから島根県の管轄下にあり、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない」と一蹴され、韓国への帰属が明確に否定されている。
※SAPIO2015年9月号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150810-00000017-pseven-kr
中国が主張する南京虐殺30万人説 当時の人口20万しかおらず
NEWS ポストセブン 8月14日(金)16時6分配信
中国共産党は、自らの「政権」の正当性を保つためなら、「嘘」を主張することもいとわない。例えば、南京大虐殺では、日本軍が1937年12月に南京を占領した後、6週間以内に30万人以上の中国人を虐殺したと、中国は主張している。しかし、明星大学戦後教育史研究センターの勝岡寛次氏は「30万人はありえない」という。
「当時の南京の人口は、多く見積もっても20万人程度で、30万人殺すことは不可能。しかも、陥落から1か月後に南京安全区の国際委員会が人口をチェックしたところ、25万人に増えていた。日本軍による大虐殺が起きた町に、なぜ続々と中国人が集まってきたのでしょう」
虐殺の証拠とされる写真も捏造だらけだ。
生首が並んでいる写真は、実は中国軍が切り落とした馬賊の首だったり、寒さの厳しい12月なのに日本兵が半袖だったり。亜細亜大学の東中野修道教授の調査では、証拠とされた写真143枚すべてに加工の跡や事実と異なる点が認められた。
さらに、東京裁判で虐殺の証拠として採用された書物『戦争とは何か』にも疑問が投げかけられている。その編著者で、英紙特派員だったハロルド・ティンパーリーは、国民党中央宣伝部(情報部)の顧問で、党から資金提供を受けていたことが明らかになっている。
※SAPIO2015年9月号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150814-00000021-pseven-cn
当時、南京戦を戦った日本兵を尋ねて記事を書いていた人の本、「南京大虐殺のまぼろし」によると、
日本兵たちでさえ大虐殺があったなんて知らない、聞いていないと言っている。
ほんの一部で起こった捕虜の殺害を大げさにチュウゴク政府が宣伝しているのだ。
川べりまで大勢の捕虜を連れていき、船を使って逃がそうとしていた部隊にいた日本兵の証言だと
船が来るのが遅れて、チュウゴク人捕虜が騒ぎ出してはむかってきたらしい。
そこで、8名の日本兵がチュウゴク人捕虜に殺されたそうだ。
大部分のチュウゴク人捕虜は川に逃げたけれども、おぼれた者もいるだろうし、逃げ切った者も大勢いるだろうとのこと。
最初から捕虜を全員殺す気なら、8名も日本兵は死なないと元日本兵は言ったそうだ。
他の日本兵の証言では、20人の日本兵の死者を埋葬するのに2日もかかったそうだ。
死体を埋めるのは簡単なことではなく、大変な時間がかかるものらしい。20人でも大変だったそうだ。
30万人も死んだら、腐って大変なことになるらしい。それは無いと元日本兵は言ったそうです。
それに、南京の中はひとっこ一人いなかったそうです。特に女性は一人もいなかった。
女性は、みんな、広い運動場のある学院に避難していて、ひとりでも近づけばすぐ見えるし、学院の周りには、警備員がたくさんいたし、女性を強姦したら軍紀違反で死刑になるのでよほどの命知らずでないと、そんなことはできない。一握りの外国人宣教師らが、どこにも逃げることができない貧乏人の南京の市民を保護区内で保護していたし、無垢の市民は一人も殺されていないはずとのこと。金持ちや軍人は、全員脱出していて、南京はリーダー不在だったそうです。
代わりに外国人の宣教師がリーダーになっていた。
チュウゴク人は、昔から、自分だけ助かったらいいという考えだからね。
逆に、市民に化けたチュウゴク兵は、日本兵を見たら必ず殺していたから、日本兵は毎日少しずつ歯抜けになったように殺されていたそうだ。
そんな状態だから、軍服を脱ぎ捨てて一般市民に化けて保護区に逃げ込んだチュウゴク兵は日本兵に注意深く集められて捕虜となったそうだ。チュウゴク兵は、必ず、兵士だという証明書を持っていたそうだ。それがないと給料が支払われないというので、いくら市民に化けてもきちんと証明書だけは後生大事に持っていたらしい。
捕虜は、全員殺されたのではなく、大部分は、食料を与えられて解放されていたそうだ。捕虜として、他の後続の舞台部隊に受け渡された人々もいて、きちんと記録に残っているらしい。
保護区に居たのは20万人とちょっと。
保護区の外国人ジャーナリストがきちんと数えたそうだ。
30万人も殺されていたら大問題だが、日本軍には、それだけの人数を殺す人数も武器も無かった。第一、20万人しかいないのに、どうやって30万人殺すの?詳しくは、本を購入して読んでみてね。
NEWS ポストセブン 8月19日(水)7時6分配信
今年の9月3日、中国共産党は北京で「戦争勝利70周年記念」の式典と軍事パレードを行う。しかし、そもそも中国共産党が日本に勝利したという話自体が嘘なのだ。1937年7月の盧溝橋事件を発端に始まった日中戦争は、中国国内の内戦に日本が干渉する形で始まった。
当時、中国では、日本が支援していた汪兆銘の南京国民政府と、蒋介石の国民党、毛沢東の共産党が三つ巴の内戦を繰り広げたが、すでに共産党軍は内戦で疲弊し弱体化していた。
同年9月の国共合作で国民党と共産党は手を結んだが、毛沢東の戦略は「夷をもって夷を制す」。すなわち、敵同士につぶし合いをさせることだった。
日本軍と国民党軍が戦闘になるよう工作し、共産党は非戦闘地帯で勢力を拡大させた。ゆえに、日本軍と共産党軍が正面きって戦火を交えた記録は残っていない。
1945年8月に日本が降伏し、蒋介石の中華民国は戦勝国となった。だが、戦争で戦力を消耗した国民党と、勢力を復活させた共産党との間で内戦となり、蒋介石は台湾へ逃げ、共産党は中華人民共和国を樹立した。
つまり、抗日戦争を戦ったのは国民党軍であり、中国共産党は国民党の“成果”を横取りしたに過ぎない。
※SAPIO2015年9月号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150819-00000006-pseven-cn
竹島はサンフランシスコ条約で日本領確定 米も韓国帰属一蹴
NEWS ポストセブン 8月10日(月)16時6分配信
島根県の竹島について、韓国は「独島(竹島の韓国名)は我々の鬱陵島の属島であり、かつて“于山島”と呼ばれていた」と主張している。
だが、朝鮮の古文書や古地図に描かれた「于山島」は位置が曖昧で、近年の研究から、鬱陵島の東約2kmに位置する小島の「竹嶼(チュクソ)」である可能性が濃厚になっている。
日本は、江戸時代から漁業を通じて竹島の領有権を確立し、1905年の閣議決定で正式に島根県に編入した。1951年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約でも、竹島が日本固有の領土であることが明確になっている。
同条約で連合国側は、日本に「済州島、巨文島、鬱陵島を含む朝鮮」を放棄することを規定。韓国は放棄地に竹島も含むよう米国に求めたが、「竹島は1905年ごろから島根県の管轄下にあり、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない」と一蹴され、韓国への帰属が明確に否定されている。
※SAPIO2015年9月号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150810-00000017-pseven-kr
中国が主張する南京虐殺30万人説 当時の人口20万しかおらず
NEWS ポストセブン 8月14日(金)16時6分配信
中国共産党は、自らの「政権」の正当性を保つためなら、「嘘」を主張することもいとわない。例えば、南京大虐殺では、日本軍が1937年12月に南京を占領した後、6週間以内に30万人以上の中国人を虐殺したと、中国は主張している。しかし、明星大学戦後教育史研究センターの勝岡寛次氏は「30万人はありえない」という。
「当時の南京の人口は、多く見積もっても20万人程度で、30万人殺すことは不可能。しかも、陥落から1か月後に南京安全区の国際委員会が人口をチェックしたところ、25万人に増えていた。日本軍による大虐殺が起きた町に、なぜ続々と中国人が集まってきたのでしょう」
虐殺の証拠とされる写真も捏造だらけだ。
生首が並んでいる写真は、実は中国軍が切り落とした馬賊の首だったり、寒さの厳しい12月なのに日本兵が半袖だったり。亜細亜大学の東中野修道教授の調査では、証拠とされた写真143枚すべてに加工の跡や事実と異なる点が認められた。
さらに、東京裁判で虐殺の証拠として採用された書物『戦争とは何か』にも疑問が投げかけられている。その編著者で、英紙特派員だったハロルド・ティンパーリーは、国民党中央宣伝部(情報部)の顧問で、党から資金提供を受けていたことが明らかになっている。
※SAPIO2015年9月号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150814-00000021-pseven-cn
当時、南京戦を戦った日本兵を尋ねて記事を書いていた人の本、「南京大虐殺のまぼろし」によると、
日本兵たちでさえ大虐殺があったなんて知らない、聞いていないと言っている。
ほんの一部で起こった捕虜の殺害を大げさにチュウゴク政府が宣伝しているのだ。
川べりまで大勢の捕虜を連れていき、船を使って逃がそうとしていた部隊にいた日本兵の証言だと
船が来るのが遅れて、チュウゴク人捕虜が騒ぎ出してはむかってきたらしい。
そこで、8名の日本兵がチュウゴク人捕虜に殺されたそうだ。
大部分のチュウゴク人捕虜は川に逃げたけれども、おぼれた者もいるだろうし、逃げ切った者も大勢いるだろうとのこと。
最初から捕虜を全員殺す気なら、8名も日本兵は死なないと元日本兵は言ったそうだ。
他の日本兵の証言では、20人の日本兵の死者を埋葬するのに2日もかかったそうだ。
死体を埋めるのは簡単なことではなく、大変な時間がかかるものらしい。20人でも大変だったそうだ。
30万人も死んだら、腐って大変なことになるらしい。それは無いと元日本兵は言ったそうです。
それに、南京の中はひとっこ一人いなかったそうです。特に女性は一人もいなかった。
女性は、みんな、広い運動場のある学院に避難していて、ひとりでも近づけばすぐ見えるし、学院の周りには、警備員がたくさんいたし、女性を強姦したら軍紀違反で死刑になるのでよほどの命知らずでないと、そんなことはできない。一握りの外国人宣教師らが、どこにも逃げることができない貧乏人の南京の市民を保護区内で保護していたし、無垢の市民は一人も殺されていないはずとのこと。金持ちや軍人は、全員脱出していて、南京はリーダー不在だったそうです。
代わりに外国人の宣教師がリーダーになっていた。
チュウゴク人は、昔から、自分だけ助かったらいいという考えだからね。
逆に、市民に化けたチュウゴク兵は、日本兵を見たら必ず殺していたから、日本兵は毎日少しずつ歯抜けになったように殺されていたそうだ。
そんな状態だから、軍服を脱ぎ捨てて一般市民に化けて保護区に逃げ込んだチュウゴク兵は日本兵に注意深く集められて捕虜となったそうだ。チュウゴク兵は、必ず、兵士だという証明書を持っていたそうだ。それがないと給料が支払われないというので、いくら市民に化けてもきちんと証明書だけは後生大事に持っていたらしい。
捕虜は、全員殺されたのではなく、大部分は、食料を与えられて解放されていたそうだ。捕虜として、他の後続の舞台部隊に受け渡された人々もいて、きちんと記録に残っているらしい。
保護区に居たのは20万人とちょっと。
保護区の外国人ジャーナリストがきちんと数えたそうだ。
30万人も殺されていたら大問題だが、日本軍には、それだけの人数を殺す人数も武器も無かった。第一、20万人しかいないのに、どうやって30万人殺すの?詳しくは、本を購入して読んでみてね。