ナチス党員の犯した罪を今のドイツ人や国家が謝罪する必要がないとワイツゼッカーは非常に明快な立場を
政治家の大切な仕事
山内 昌之
政治家の大切な仕事は、いかなる外国に対しても、自国を必要以上に卑屈にさせず、足に枷(かせ)をかけた上に首まで軛(くびき)に差し出す事態をつくらないことだ。
このプルタルコスのひそみに倣(なら)えば(『モラリア9』)、歴史を含めて万事を特定の国々の判断に任せっぱなしにし、自らの国益を麻痺(まひ)させ歴史解釈に臆病になることで、結局は国や自分の政治生命をすっかり台無しにしてしまう人びともいる。
日本の戦争責任や歴史認識を話題にするとき、いつも元ドイツ大統領ワイツゼッカーの演説を持ち出す論者がいる。そこには、中国や韓国が日本に望む以上にこれらの国を「自分たちのご主人さまに祭り上げてしまう」(プルタルコス)人びともいないとは限らない。
戦後70年にあたり、こうした点を改めて考えたのは、元ドイツ大使の有馬龍夫氏の『対欧米外交の追憶』(藤原書店)に負うところが多い。
氏は、ワイツゼッカー演説にはどこを探してもホロコーストについて謝罪やそれに類した表現が見当たらないと指摘する。
元大統領は「民族全体の罪、もしくは無実」というものはなく、罪は「集団的」ではなく「個人的なもの」だと言い切る。現代のドイツ人は自分が生まれてもいない時代の事件について罪を「告白」できないというのだ
有馬氏が解釈するように、「告白」とは神の許しを請うことだから他人の罪を告白するいわれもなく、ナチス党員の犯した罪を今のドイツ人や国家が謝罪する必要がないとワイツゼッカーは非常に明快な立場を示しているのだ。
確かにワイツゼッカーはドイツ人の過去に対する責任を認め、ナチスの犯した罪状を長々と紹介している。このやや冗長な演説のなかで有名な「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在に盲目となる」というくだりが出てくるのだ。
しかし、そこで言わんとする事は、ナチスの犯罪を心に刻んで記憶せよということであり、国家ましてやドイツ人の責任や謝罪を明示的に認めたのではない。
その後にすぐ「非人間的行為を心に刻もうとしない者は、また新しい感染の危険への抵抗力をもたない」と述べたのは、忘れると再犯しかねないという一般的メッセージだと有馬氏は推測している。
ワイツゼッカー演説の肝は、ドイツ人がナチスの台頭を許した重大責任やナチスの蛮行の共同正犯だった面を認めていないことだ。
その意味では、元大統領はどの外国に対しても祖国ドイツを必要以上に卑下させず、「足に枷をかけた上に首まで軛に差し出す」ような事態を後世の国民に経験させまいとしたのである。
彼は、未来の子孫に過去への過剰な責任と謝罪の意識を残すまいとする装置を巧みに編み出した。
同時に、ナチスの外務次官・親衛隊将軍としてニュルンベルク裁判で有罪となった父をもち、歩兵将校として赤軍と戦った自分の過去を、ナチスの犯罪から切り離す役割も担わそうとしたのである。
この二重性を苦もなく演説にまぎれこませた点こそ、端倪(たんげい)すべからざる政治家たる
所以(ゆえん)というべきであろう。
(やまうち まさゆき・フジテレビ特任顧問)産経ニュース【歴史の交差点】
山内 昌之
政治家の大切な仕事は、いかなる外国に対しても、自国を必要以上に卑屈にさせず、足に枷(かせ)をかけた上に首まで軛(くびき)に差し出す事態をつくらないことだ。
このプルタルコスのひそみに倣(なら)えば(『モラリア9』)、歴史を含めて万事を特定の国々の判断に任せっぱなしにし、自らの国益を麻痺(まひ)させ歴史解釈に臆病になることで、結局は国や自分の政治生命をすっかり台無しにしてしまう人びともいる。
日本の戦争責任や歴史認識を話題にするとき、いつも元ドイツ大統領ワイツゼッカーの演説を持ち出す論者がいる。そこには、中国や韓国が日本に望む以上にこれらの国を「自分たちのご主人さまに祭り上げてしまう」(プルタルコス)人びともいないとは限らない。
戦後70年にあたり、こうした点を改めて考えたのは、元ドイツ大使の有馬龍夫氏の『対欧米外交の追憶』(藤原書店)に負うところが多い。
氏は、ワイツゼッカー演説にはどこを探してもホロコーストについて謝罪やそれに類した表現が見当たらないと指摘する。
元大統領は「民族全体の罪、もしくは無実」というものはなく、罪は「集団的」ではなく「個人的なもの」だと言い切る。現代のドイツ人は自分が生まれてもいない時代の事件について罪を「告白」できないというのだ
有馬氏が解釈するように、「告白」とは神の許しを請うことだから他人の罪を告白するいわれもなく、ナチス党員の犯した罪を今のドイツ人や国家が謝罪する必要がないとワイツゼッカーは非常に明快な立場を示しているのだ。
確かにワイツゼッカーはドイツ人の過去に対する責任を認め、ナチスの犯した罪状を長々と紹介している。このやや冗長な演説のなかで有名な「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在に盲目となる」というくだりが出てくるのだ。
しかし、そこで言わんとする事は、ナチスの犯罪を心に刻んで記憶せよということであり、国家ましてやドイツ人の責任や謝罪を明示的に認めたのではない。
その後にすぐ「非人間的行為を心に刻もうとしない者は、また新しい感染の危険への抵抗力をもたない」と述べたのは、忘れると再犯しかねないという一般的メッセージだと有馬氏は推測している。
ワイツゼッカー演説の肝は、ドイツ人がナチスの台頭を許した重大責任やナチスの蛮行の共同正犯だった面を認めていないことだ。
その意味では、元大統領はどの外国に対しても祖国ドイツを必要以上に卑下させず、「足に枷をかけた上に首まで軛に差し出す」ような事態を後世の国民に経験させまいとしたのである。
彼は、未来の子孫に過去への過剰な責任と謝罪の意識を残すまいとする装置を巧みに編み出した。
同時に、ナチスの外務次官・親衛隊将軍としてニュルンベルク裁判で有罪となった父をもち、歩兵将校として赤軍と戦った自分の過去を、ナチスの犯罪から切り離す役割も担わそうとしたのである。
この二重性を苦もなく演説にまぎれこませた点こそ、端倪(たんげい)すべからざる政治家たる
所以(ゆえん)というべきであろう。
(やまうち まさゆき・フジテレビ特任顧問)産経ニュース【歴史の交差点】