占領軍の声をよそに、昭和天皇は民衆の中に入っていかれた。 | 日本のお姉さん

占領軍の声をよそに、昭和天皇は民衆の中に入っていかれた。

Japan On the Globe(136) 国際派日本人養成講座
国柄探訪:復興への3万3千キロ

「石のひとつでも投げられりゃあいいんだ」
占領軍の声をよそに、昭和天皇は民衆の中に入っていかれた。
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■1.石のひとつでも投げられりゃあいいんだ■

ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね、

旅 先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。

ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを日本 人に知らしめてやる必要がある。

神さまじゃなくて人間だ、 ということをね。
それが生きた民主主義の教育というものだよ。

昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、占 領軍総司令部の高官たちの間では、こんな会話が交わされた。

[1] しかし、その結果は高官達の"期待"を裏切るものだった。

昭 和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られた。

行程は3 万3千キロ、総日数165日。各地で数万の群衆にもみくちゃ にされたが、石一つ投げられたことはなかった。

イギリスの新聞は次のように驚きを率直に述べた。

日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声 望はほとんど衰えていない。


各地の巡幸で、群衆は天皇に 対し超人的な存在に対するように敬礼した。

何もかも破壊 された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。

イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位し たが、わずか1ヶ月で廃位に追い込まれた。

それに対して、日 本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?

欧米人の常識では理解できないことが起こっていた。

[2] ■2.全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励ましたい■

昭和天皇が全国御巡幸の決意を示されたのは、敗戦直後、昭 和20年10月であった。


宮内府次長加藤進氏に次のように指 示された。

この戦争により先祖からの領土を失ひ、国民の多くの生 命を失ひ、たいへん災厄を受けた。

この際、わたくしとし ては、どうすればよいのかと考へ、また退位も考えた。

し かし、よくよく考へた末、全国を隈無く歩いて、国民を慰 め、励まし、また復興のために立ちがらせる為の勇気を与 へることが自分の責任と思ふ。

このことをどうしても早い 時期に行ひたいと思ふ。

ついては、宮内官たちはわたくし の健康を心配するだらうが、自分はどんなになってもやり ぬくつもりであるから、健康とか何とかはまつたく考へる ことなくやってほし
い。

宮内官はその志を達するやう全力 を挙げて計画し実行してほしい。

[3,p23] 御巡幸の打診を受けた占領軍総司令部は、冒頭で紹介したよ うな魂胆もあって、許可した。

■3.「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」■

昭和21年2月19日の最初のご訪問の地は、昭和電工・ 川崎工場であった。

食糧増産に必要な化学肥料の硫安を生産し ていたが、空襲で70%の設備が破壊され、社員は必死で復旧 に努めていた。

一列に並んだ工員たちに、昭和天皇は「生活状態はどうか」、 「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」と聞かれた。

感極まっ て泣いているものも多かった。

案内していた森社長は、天皇が 身近な質問ばかりされるので、宮中で安楽な生活をされていた ら、こんなことは口だけでは言えまい、と急に深い親しみを感 じた。

[4,p376-381] 二度目の御巡幸は、2月28日、都内をまわられた。

大空襲 で一面、焼け野原である。

新宿では、昭和天皇の行幸を知った 群衆が待ちかまえ、自然に「天皇陛下、万歳」の声が巻き起こ った。

昭和天皇が帽子をとってお応えになると、群衆は米兵の 制止も振り切って、車道にまでなだれこんだ。

これ以降、巡幸 される先々で、このような光景が繰り返された。[3,p61-62]

■4.あつさつよき磐城の里の炭山に■

昭和21年には、関東、東海地方の各県を廻られ、22年6 月には、大阪、兵庫、和歌山。

そして8月の酷暑の中を東北全 県の巡幸を希望された。

側近が驚いて、涼しくなってからでは、 と延期を願ったが、「東北の運命(食料の増産)は、真夏にか かっている。

東北人の働くありのままの姿を是非この目に見て 激励してやりたい」と許されなかった。

敗戦直後で、宿舎がままならず、列車の中や、学校の教室に 泊まられた事もあった。


「戦災の国民のことを考へればなんで もない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」と言われ て、行幸を続けられた。

出炭量の40%を占める重要なエネルギー供給基地福島県の 常磐炭坑では、地下450mの坑内を歩かれ、40度の中を背 広、ネクタイ姿で、上半身裸の鉱夫たちを激励された。

深い坑 内で万歳の声が轟いた。この時の御製(お歌)である。 [3,p123-127]

あつさつよき磐城の里の炭山にはたらく人をををしとぞ見 し

■5.浅間おろしつよき麓にかへりきて■

この2ヶ月後には休む暇なく、甲信越地方9日間の御巡幸に 出られた。

最初に浅間山の初雪の中を2キロも歩かれて、山麓 の大日向開拓村を訪問された。

大日向村は満洲への分村移民を 全国で最初に実行した村である。

しかしソ連の満洲侵略により、 移民694名中、ようやく半数の323名が生き残って、村に 帰ってきた。

そして標高1095mの荒れ地を切り開いて、入 植していたのである。

天皇をお迎えした開拓団長堀川源雄の奏上は、幾度となく涙 でとだえた。

昭和天皇のお顔も涙に濡れた。[3,p163-165]

浅間おろしつよき麓にかへりきていそしむ田人とふとくも あるか

■6.老人(おひびと)をわかき田子らのたすけあひて■

この年、11月から12月にかけてには、さらに鳥取、島根、 山口、広島、岡山をまわられた。

島根県では新川開拓村で3万 人の奉迎に応えられた後、伊波野村で農作業をご覧になられた。

農業会長が、働いている老夫をさして、「我が子を二人とも失 いましたが、村人の助けも得て、屈することなく働いておりま す」と説明すると、天皇は次のようなお言葉とお歌を賜っ
た。

この度は大事な二人の息子を失いながら、猶屈せずに食 糧増産に懸命に努力する老農の姿を見、一方又、これを助 ける青年男女の働きぶりを見て、まことに心うたれるもの があっ
た。

このやうな涙ぐましい農民の努力に対しては深 い感動を覚える。

いろいろ苦しいこともあらうが、努力を 続けて貰ひたい。[3,p201-203]

老人(おひびと)をわかき田子らのたすけあひていそしむ すがたたふとしとみし

■7.ああ広島平和の鐘も鳴りはじめ■

12月5日、広島に入られる。

広島市では戦災児育成所の原 爆孤児84名に会われた。

原爆で頭のはげた一人の男の子の頭 を抱えるようにして、目頭を押さえられた。

周囲の群衆も静ま りかえって、すすり泣く。

爆心地「相生橋」を通過されて、平和の鐘が鳴る中を元護国 神社跡で7万の奉迎を受けられた。

周囲には黒こげの立木、あ めのように曲がった鉄骨が残る中で、天皇はマイクで次のよう に語られた。

このたびは皆のものの熱心な歓迎を受けてうれしく思ふ。

本日は親しく市内の災害地を視察するが、広島市は特別な 災害を受けて誠に気の毒に思ふ。

広島市民は復興に努力し、 世界の平和に貢献せねばならぬ。

ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなおる見えてうれしか りけり

この中国地方行幸にお目付役として同行していた占領軍総司 令部民政局のケントは、原爆を落とされた広島の地ですら誰一 人天皇を恨む者がいないことに、ただただ驚くばかりであっ
た。

もともと天皇制廃止を目論んでいた民政局は、兵庫県で小学生 達が禁止されていた日の丸を振ってお出迎えしたのを「指令違 反」であるとして、以後の御巡幸中止を命じた。

しかし、御巡幸を期待する九州、四国地方からの嘆願や議会 決議が相次ぎ、昭和天皇も直接マッカーサーにお話しされた模 様で、翌々年に再開が許可された。[3,p212-238]

■8.子らに幸あれ■

昭和24年5月18日から6月10日にかけては、九州全県 を巡幸された。

5月22日に立ち寄られた佐賀県基山町の因通 寺には、40余名の戦災孤児のための洗心寮があった。

孤児た ちの中に、位牌を二つ胸に抱きしめていた女の子がいた。

昭和天皇は、その女の子に近づかれて、「お父さん、お母さ ん?」と尋ねられた。

「はい、これは父と母の位牌です」とは っきり返事をする女の子に、さらに「どこで?」。

「はい。父はソ満国境で名誉の戦死を遂げました。母は引き 上げの途中病のためになくなりました。」

天皇は悲しそうな顔で「お寂しい」と言われると、女の子は 首を横に振って、「いいえ、寂しいことはありません。私は仏 の子です。仏の子供は亡くなったお父さんとも、亡くなったお
母さんともお浄土にいったら、きっともう一度会うことができ るのです。・・・」

昭和天皇は、すっと右の手を伸ばされ、女の子の頭を2度、 3度と撫でながら、「仏の子供はお幸せね。これからも立派に 育っておくれよ」と言われた。

数滴の涙が畳の上に落ちた。

「お父さん」、女の子は小さな声で昭和天皇を呼んだ。

[5] みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸 あれ

■9.天皇陛下さまを怨んだこともありました■

因通寺の参道には、遺族や引き揚げ者も大勢つめかけていた。

昭和天皇は最前列に座っていた老婆に声をかけられた。

「どな たが戦死をされたのか」 「息子でございます。たった一人の息子でございました」声を 詰まらせながら返事をする老婆に「どこで戦死をされたの?」 「ビルマで
ございます。

激しい戦いだったそうですが、息子は 最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。

・・・天皇 陛下様、息子の命はあなた様に差し上げております。

息子の命 のためにも、天皇陛下さま、長生きをしてください」 老婆は泣き伏してしまった。

じっと耳を傾けていた天皇は、 流れる涙をそのままに、老婆を見つめられていた。

引き揚げ者の一行の前では、昭和天皇は、深々と頭を下げた。 「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」と お言葉をかけられた。

一人の引き揚げ者がにじり寄って言った。

天皇陛下さまを怨んだこともありました。

しかし苦しん でいるのは私だけではなかったのでした。

天皇陛下さまも 苦しんでいらっしゃることが今わかりました。

今日からは 決して世の中を呪いません。人を恨みません。

天皇陛下さ まと一緒に私も頑張ります。

この言葉に、側にいた青年がワーッと泣き伏した。

「こんな 筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺がまちがっておっ た。俺が誤っておった。」 シベリア抑留中に、徹底的に洗脳され、日本の共産革命の尖 兵として、
いち早く帰国を許されていた青年達の一人であった。

今回の行幸で、天皇に暴力をもってしても戦争責任を認めさせ、 それを革命の起爆剤にしようと待ちかまえていたのである。

天 皇は泣きじゃくる青年に、頷きながら微笑みかけられた。

[5] ■10.復興のエネルギー■

州御巡幸では約190カ所にお立ち寄りになり、各県とも 6、7割の県民が奉迎したので、約700万人とお会いになっ た。

御巡幸はその後も、四国、北海道と昭和29年まで続き、8 年半の間に昭和天皇は沖縄をのぞく、全都道府県をまわられ、 お立ち寄り箇所は1411カ所におよんだ。

奉迎者の総数は数 千万人に達したであろう。

戦のわざはひうけし国民を思ふこころにいでたちてきぬ

わざはひをわすれてわれを出むかふる民のこころをうれし とぞ思ふ

国をおこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たの もし (*なりはひ=しごと)


大日本帝国が崩壊して、始めて国民は間近に天皇を拝する機 会を得た。

驚くべき事に、それは人々と共に悲しみ、涙を流す 天皇であった。

一人ひとりが孤独に抱えていた苦しみ、悲しみ に、天皇が涙を流された時、人々は国民同胞全体が自分達の悲 しみ、苦しみを分かち合ってくれたと感じ、そこからともに頑 張ろ
う、という気持ちが芽生えていった。

戦後のめざましい復 興のエネルギーはここから生まれた。

昭和63年9月、昭和天皇が病床につかれると、全国の御平 癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。

40数年前の御巡幸で 昭和天皇に励まされた人々も少なくなかったであろう。

昭和天皇は病床で「もう、だめか」と言われた。

医師たちは、 ご自分の命の事かと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」 と問われたのである。

御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた昭 和天皇の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされた。

[a] ■リンク
■ a. JOG(112) 国柄探訪:共感と連帯の象徴 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け) 1. ★★「天皇家の密使たち-占領と皇室」、高橋紘・鈴木邦彦、 文春
文庫、H1.3 2. ★★「天皇裕仁の昭和史、河原敏明、文芸春秋社、S58 3. ★★★「昭和天皇の御巡幸」、鈴木正男、展転社、H4.9 4. ★★★「天皇家の戦い」、加瀬英明、新潮文庫、S60.7 5.
「天皇さまが泣いてごじゃった」、調寛雅、祖国と青年、H11.4_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■
「国柄探訪:共感と連帯の象徴」について 岡さん(広島県在住)より 今回の記事を中学1年の長女に読んでやりながら、わたしも 子供も、涙が流れてなりませんでした。
世界に誇るべき天皇陛 下のおられる日本の国民として生まれ育っていることが嬉しく
てなりませんでした。
我が家では日本人の誇りの大切さを子どもたちに教えたいと 思っていますが、広島県に在住し、公立の小・中学校に子供を 通わせています。
ここでの人権重視・反日教育に怒りを感じま す。
先日も、小学校の先生の反日的な発言、偏った意見に抗議し ました。
幸いにも教頭先生が理解があり、受け止めて下さるの には感謝しています。
しかし傷つきやすい子どもたちの力になるようなこんな記事 を、もっともっと読んでやりたいと思っています。
これからも すばらしい記事をよろしくお願いします。

■編集長・伊勢雅臣より 偏向教育の犠牲になっている広島の子どもたちに、力を与え
られたとしたら、何よりうれしい事です。

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