見たいものを見、信じたいものを信じる弱さ
ものすごいストレスで悩まされている時、人間は楽しい夢を見たりするらしい。脳が夢で調節しているらしい。本当かな?少しでも明るい気分になろうと、楽しい夢を見て自分を励ましているのであろうと思う。
昔、大好きだった人と別れた時、それが別れだと気がつかなくて、ずっと連絡を待っていた時期があった。「いろいろありがとう」という手紙をもらったけど、それが別れ際のことばだとは気が付かなかったのよね。いや、頭では気がついたけど、落ち着いたらきっと連絡がまたくると思っていた。その後、その人の弟さんから電話が来て、「彼はどこに行った?」と聞かれたので、本当に誰にも連絡しない人なんだなと思った。
8年間ぐらいは、ずっと夢でその人に会っていた。でも、つい気がそれてしまうと迷子になっていて、もう二度と会えなくなるのだ。夢の中で走り回ってその人を探していた。
夢から覚めると「夢でも会えてよかった」などと思った。
でも、次の恋をすると、とたんに迷子になって探し回っている夢を見なくなった。
わたしの脳はきっと混乱しているわたしのために夢を見させていたんでしょうね。
九州の知覧という場所に、特攻隊の基地があって、そこの近くの食堂のおばちゃんが、よく特攻隊の面倒を見ていたそうだ。ある日二人の特攻隊員が、食堂のおばちゃんに「明日、旅立ちます。でも蛍になってでも帰ってきます」と言ったそうだ。
そして、その特攻隊員が亡くなった夜、食堂のおばちゃんは自分の家に入ってきた二匹の季節外れの蛍を見て泣いたのだそうだ。
人は、信じたいものを信じてしまうのかも。
でも、神さまが、哀れに思って蛍を飛ばしたのかもよ。
わたしのママが死んで、とても辛いことがあってスーパーで買い物をしながら泣いていたとき、
まるで、ママがそばにいてくれるような、あたたかい存在を感じた。ママにそっと抱きしめられたような気持ちになって慰められたのだ。でも、それは、ストレスのあまり、異常になったわたしの脳が感じさせたものだと思っている。頭ではそう思っているけど、あまりにもかわいそうなわたしの姿に神さまがママの雰囲気を漂わせて側にいるように感じられるようにしてくれたのかもねと思う。そうであってほしい。
その後10分ぐらいして、わたしは生まれて初めて過呼吸症になり、身体が動かなくなって指が固まって震えてきて車の運転もできなくなり、その辺の店に転がり込んで救急車を呼んでもらったのだった。酸素も欠乏中で異常な脳の状態であったに間違いない。
そんな時って、変なものを感じたり見たりするもんよ。
でも、脳の状態がどうのこうのよりも、ママが側にいるように感じたのは嬉しかった。夢で探している人に会えて喜んだぐらいは、嬉しかった。
「ママが天国からちょっと会いに来てくれたように感じたわ」と伯母に話すと伯母は普通にひいていた。伯母もクリスチャンなので、それはありえないと分かっているから、ノーコメントだった。
やっぱり、脳が自分で自分を調節しているように思う。
神さまがいるように、神さまに逆らう悪の霊もいるので、完全に悪魔と悪魔の使いの霊が見させるいわゆる「幽霊」もありますが、神さまを信じているクリスチャンに対してはいたずらはできません。幽霊をみさせる目的は、何か人が拝む対象を作らせ、偶像を設置させてそれに仕えさせて精神的に乗っ取ることなので、クリスチャンを驚かせてもしょうがないからです。それに、クリスチャンは、神さまの存在も悪魔と悪の霊の存在も知っているので、幽霊を見たとしても驚かないですからね。驚かせて怯えさせ悪魔を拝ませるのが目的だから悪の霊もクリスチャンに対して無駄なことはしない。クリスチャンには、神さまを信じていない楽しい友人をそばに置く。そうすると遊びに夢中になって腑抜けになって教会も行かなくなるので、そっちの方法を使う。
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被災地で「幽霊の目撃談」がいまも後を絶たないワケ
2015年8月1日
ごくごく冷静に考えれば、存在するはずのない幽霊。それにも関わらず、今もなお幽霊の目撃談が後を絶たないのは、いったい何故なんでしょうか。無料メルマガ『MMR極秘マガジン』では、そんな謎に対して、あるひとつの答えを提示しています。
「会いたい」という思いが幽霊を呼ぶ
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という。
「枯れ尾花」とは枯れたススキの穂のこと。幽霊が出るんじゃないかと恐れて見ていると、枯れたススキも幽霊に見えてくる。疑心暗鬼で物事を見るのをいましめたことわざだ。
しかし、幽霊とセットで語られる植物はススキじゃない。柳である。古来より、幽霊は柳の木の下に出るといわれてきた。
どうして柳なんだろう? 桜や松だっていいし、それこそススキだっていいじゃないか!
柳の下の幽霊、というイメージが語られたのは、名人といわれ幽霊画を多数残したと伝えられる画家、円山応挙よるところが大きいらしい。
応挙は、幽霊と柳をセットで描いた。これは、応挙が山水画を描いていたからだ。
山水画とはその名のとおり山や川を描いたものだが、スケッチではない。むしろ、思想を描いたものであった。現在も風水などで重んじられる陰陽の考え方は、その中核を成していた。陰を描いたなら、陽を描かねばならない。
幽霊は陰だから、陽である柳が添えられた。柳は幽霊とともに描かれるため陰のイメージが強いが、正月に使われる箸が「柳箸」であるように、陽の象徴、たいへんめでたい木とされていた。
江戸時代には、現在の風水画と同じように、幽霊画が魔除けとして用いられたことがあるらしい。恐ろしい幽霊の絵を貼っておくと、ホンモノの魔も怖がって寄りつかないと考えられたのだ。
幽霊の実在については、諸説あって判然としない。「いる」という人もいるし、「そんなもんあるはずないさ」と語る人も多い。どちらも証明するのは難しいだろう。
しかし、生きている者が「会いたい」と願うとき、そこに幽霊は現れるのではないだろうか。枯れ尾花に幽霊を見るのは、そんな人の心ではないのか。
2万人近い死者を生んだ東日本大震災。被災した東北地方の太平洋沿岸部では、幽霊の目撃談が後を絶たない。
ある学者は次のように語る。
「人間は本来『死』を受け入れられないものです。まして突然の、異常な形での死――年をとってベッドの上で死ぬという形でない死――は昔から人間にとって最も受け入れがたいものでした」
被災地に幽霊は出る。そのことが、生き残った者の癒しとなり、生きる勇気になっていることも多い。
現地の医師は次のように語った。
「たとえば、最愛の夫を亡くした妻。自暴自棄に陥り、死にたいと思う毎日。車で自損の重傷事故を起こしたりもしました。あるとき彼女は夫の霊に会ったんです。見守られている感覚が芽生え、お父ちゃんと一緒に生きようと思い直したといいます」
彼女に「霊はない」と主張することは誰にもできないだろう。
いてほしいと願う人のもとに、幽霊はたしかに存在する。
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昔、大好きだった人と別れた時、それが別れだと気がつかなくて、ずっと連絡を待っていた時期があった。「いろいろありがとう」という手紙をもらったけど、それが別れ際のことばだとは気が付かなかったのよね。いや、頭では気がついたけど、落ち着いたらきっと連絡がまたくると思っていた。その後、その人の弟さんから電話が来て、「彼はどこに行った?」と聞かれたので、本当に誰にも連絡しない人なんだなと思った。
8年間ぐらいは、ずっと夢でその人に会っていた。でも、つい気がそれてしまうと迷子になっていて、もう二度と会えなくなるのだ。夢の中で走り回ってその人を探していた。
夢から覚めると「夢でも会えてよかった」などと思った。
でも、次の恋をすると、とたんに迷子になって探し回っている夢を見なくなった。
わたしの脳はきっと混乱しているわたしのために夢を見させていたんでしょうね。
九州の知覧という場所に、特攻隊の基地があって、そこの近くの食堂のおばちゃんが、よく特攻隊の面倒を見ていたそうだ。ある日二人の特攻隊員が、食堂のおばちゃんに「明日、旅立ちます。でも蛍になってでも帰ってきます」と言ったそうだ。
そして、その特攻隊員が亡くなった夜、食堂のおばちゃんは自分の家に入ってきた二匹の季節外れの蛍を見て泣いたのだそうだ。
人は、信じたいものを信じてしまうのかも。
でも、神さまが、哀れに思って蛍を飛ばしたのかもよ。
わたしのママが死んで、とても辛いことがあってスーパーで買い物をしながら泣いていたとき、
まるで、ママがそばにいてくれるような、あたたかい存在を感じた。ママにそっと抱きしめられたような気持ちになって慰められたのだ。でも、それは、ストレスのあまり、異常になったわたしの脳が感じさせたものだと思っている。頭ではそう思っているけど、あまりにもかわいそうなわたしの姿に神さまがママの雰囲気を漂わせて側にいるように感じられるようにしてくれたのかもねと思う。そうであってほしい。
その後10分ぐらいして、わたしは生まれて初めて過呼吸症になり、身体が動かなくなって指が固まって震えてきて車の運転もできなくなり、その辺の店に転がり込んで救急車を呼んでもらったのだった。酸素も欠乏中で異常な脳の状態であったに間違いない。
そんな時って、変なものを感じたり見たりするもんよ。
でも、脳の状態がどうのこうのよりも、ママが側にいるように感じたのは嬉しかった。夢で探している人に会えて喜んだぐらいは、嬉しかった。
「ママが天国からちょっと会いに来てくれたように感じたわ」と伯母に話すと伯母は普通にひいていた。伯母もクリスチャンなので、それはありえないと分かっているから、ノーコメントだった。
やっぱり、脳が自分で自分を調節しているように思う。
神さまがいるように、神さまに逆らう悪の霊もいるので、完全に悪魔と悪魔の使いの霊が見させるいわゆる「幽霊」もありますが、神さまを信じているクリスチャンに対してはいたずらはできません。幽霊をみさせる目的は、何か人が拝む対象を作らせ、偶像を設置させてそれに仕えさせて精神的に乗っ取ることなので、クリスチャンを驚かせてもしょうがないからです。それに、クリスチャンは、神さまの存在も悪魔と悪の霊の存在も知っているので、幽霊を見たとしても驚かないですからね。驚かせて怯えさせ悪魔を拝ませるのが目的だから悪の霊もクリスチャンに対して無駄なことはしない。クリスチャンには、神さまを信じていない楽しい友人をそばに置く。そうすると遊びに夢中になって腑抜けになって教会も行かなくなるので、そっちの方法を使う。
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被災地で「幽霊の目撃談」がいまも後を絶たないワケ
2015年8月1日
ごくごく冷静に考えれば、存在するはずのない幽霊。それにも関わらず、今もなお幽霊の目撃談が後を絶たないのは、いったい何故なんでしょうか。無料メルマガ『MMR極秘マガジン』では、そんな謎に対して、あるひとつの答えを提示しています。
「会いたい」という思いが幽霊を呼ぶ
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という。
「枯れ尾花」とは枯れたススキの穂のこと。幽霊が出るんじゃないかと恐れて見ていると、枯れたススキも幽霊に見えてくる。疑心暗鬼で物事を見るのをいましめたことわざだ。
しかし、幽霊とセットで語られる植物はススキじゃない。柳である。古来より、幽霊は柳の木の下に出るといわれてきた。
どうして柳なんだろう? 桜や松だっていいし、それこそススキだっていいじゃないか!
柳の下の幽霊、というイメージが語られたのは、名人といわれ幽霊画を多数残したと伝えられる画家、円山応挙よるところが大きいらしい。
応挙は、幽霊と柳をセットで描いた。これは、応挙が山水画を描いていたからだ。
山水画とはその名のとおり山や川を描いたものだが、スケッチではない。むしろ、思想を描いたものであった。現在も風水などで重んじられる陰陽の考え方は、その中核を成していた。陰を描いたなら、陽を描かねばならない。
幽霊は陰だから、陽である柳が添えられた。柳は幽霊とともに描かれるため陰のイメージが強いが、正月に使われる箸が「柳箸」であるように、陽の象徴、たいへんめでたい木とされていた。
江戸時代には、現在の風水画と同じように、幽霊画が魔除けとして用いられたことがあるらしい。恐ろしい幽霊の絵を貼っておくと、ホンモノの魔も怖がって寄りつかないと考えられたのだ。
幽霊の実在については、諸説あって判然としない。「いる」という人もいるし、「そんなもんあるはずないさ」と語る人も多い。どちらも証明するのは難しいだろう。
しかし、生きている者が「会いたい」と願うとき、そこに幽霊は現れるのではないだろうか。枯れ尾花に幽霊を見るのは、そんな人の心ではないのか。
2万人近い死者を生んだ東日本大震災。被災した東北地方の太平洋沿岸部では、幽霊の目撃談が後を絶たない。
ある学者は次のように語る。
「人間は本来『死』を受け入れられないものです。まして突然の、異常な形での死――年をとってベッドの上で死ぬという形でない死――は昔から人間にとって最も受け入れがたいものでした」
被災地に幽霊は出る。そのことが、生き残った者の癒しとなり、生きる勇気になっていることも多い。
現地の医師は次のように語った。
「たとえば、最愛の夫を亡くした妻。自暴自棄に陥り、死にたいと思う毎日。車で自損の重傷事故を起こしたりもしました。あるとき彼女は夫の霊に会ったんです。見守られている感覚が芽生え、お父ちゃんと一緒に生きようと思い直したといいます」
彼女に「霊はない」と主張することは誰にもできないだろう。
いてほしいと願う人のもとに、幽霊はたしかに存在する。
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