1974年版の方が、やるせない気分になる内容だった。
2013年版のレオナルド・ディカプリオの華麗なるギャツビーをDVDで観て
あまりにも「ヨカッタ」ので、感動していたら、一緒にDVDを観た友人が「1974年版の
ロバート・レッドフォードの映画の方がいい」と言うので、オリジナルの方も観ることにした。
1974年版の方が、脇役がみんな魅力的。そして、要の人物であるデイジーと呼ばれる女の人物描写などが細かい。語り部的な役であるニックは観客が感じる疑問をそのまま表情に現し、親近感が増す。
ロバート・レッドフォードは、あまりしゃべらない。
でも、そこにいるだけで、ほんわかと後光が差しているかのよう。
海の色のような青い目。金髪。金色の産毛。なんと、魅力的な人なんでしょ。
そして無垢な感じ。人間の匂いがしない。謎の人物になり切っていました。
演技というより、ロバート・レッドフォードの持って生まれた輝きがうまく生かされた映画だったんだなと思いました。
ギャツビーがデイジーの幼い娘を見た時の戸惑った様子は、唯一人間性を感じる部分だった。
ギャツビーにとっては、デイジーの娘の存在は全く頭に無かったんだろうなと思われた。
1974年版の方が、やるせない気分になる内容だった。観終わってもやもやした気分になった。
2013年版の方が、ストーリー的には、説明がきちんとなされていて
なぜ、そういう結末になったのか理解できる気がした。
語り部的な役割のニックを演じたトビー・マグワイアがとても可愛く、
どんどんギャツビーに引き込まれていく様子を地味に演じていて
ニック役は2013年版の方がいいと思った。
1974年版のニック役の演技がへたというわけではなく、
映画のストーリーがより、ニック中心に動いていっているから、ニックが可愛い人に感じるというわけ。
ニックは、重要な場面を全部見ている。
ギャツビーの影の部分も、デイジーの影の部分、デイジーの夫の影の部分もみんな観ている。
でも、ニックは他人を説教したり、状況を変えようとは思っていない。
本当に傍観者なのだ。ニックは、デイジーの親戚なので、デイジーの人生をあえて壊したくないし、ギャツビーの希望に向かってまっすぐに突き進む明るさと純粋さに魅惑されていて
ただ、成り行きを観ているしかできないのだった。
2013年版のデイジーも、あまりしゃべらない。デイジーは、幼い感じで可愛い。
1974年版のデイジーは、確信犯的だったが、2013年版のデイジーは、幼稚で無責任。
こんな女に惚れてしまったことがギャツビーの悲劇の始まりだ。
どちらのディジーも、自分というものが無くて、だからなのか罪の意識も薄くて、流れに流されるままに生きている人なのだった。そして、自分に惚れている男の人生を平気で踏み潰していく人なのだった。
2013年版の映画を観終わった感想は、もの悲しい感じ。
1974年版は、せつなく辛い気持ち。
2013年版のレオナルド・ディカプリオの華麗なるギャツビーは、無理して上流階級の男になった人物を上手く演じていた。
ディジーの夫に差別的な言葉を投げかけられて激怒している姿が元軍人らしくてわたしは好きだった。そこで怒るのは当然でしょう。
レオナルド・ディカプリオも、青い目と金髪の持ち主で
元軍人という設定にふさわしい立派な胸板と極上の笑顔で
適役だったと思います。
映画の名前がなぜ、「華麗なるギャツビー」という名前なのか分かった。
登場人物はみんな、上流階級の人々とはいえ、世の中にいる普通の嫌なヤツらなのだが、
ギャツビーだけ何事にも影響されることなく、愛に向かって一直線に突き進んでいて、
心は希望と夢に満ち溢れていて、
グレイトとしか言いようがないからなのだった。
1974年版のデイジーがなぜ、ギャツビーを待てなかったのか語っていた。
「お金持ちの女の子は、貧乏な男の子と結婚しないのよ。そういうものなの。わかるでしょ?」
2013年版のデイジーは、他の人との結婚当日にギャツビーから手紙が来て、泣きながら結婚を止めようとしたが周りに止められたのだった。その辺は、2013年の方がいいな。
原作には、2013年版の方が忠実なのだそうだ。
~~~~~~~
アメリカ人はなぜ「ギャツビー」が好きなのか?
Excite Bit コネタ
ライター情報:鶴賀太郎
米ミネソタ州セントポールにある『グレート・ギャツビー』原作者F.スコット・フィッツジェラルドの銅像。フィッツジェラルド自身も狂乱の1920年代に踊らされた人の一人だった
レオナルド・ディカプリオ主演、バズ・ラーマン監督の『華麗なるギャツビー』が公開され話題になっているが、実はその原作であるF.スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』が映画化されたのは今回で5回目だという。
「古くは1920年代に映画化されたものもあるんですよ、日本ではもう映像を入手することは困難ですが」
そう語ってくれたのは、日本フィッツジェラルド協会前会長、近頃『「グレート・ギャツビー」の世界 ダークブルーの夢』(青土社)を上梓された米文学者の宮脇俊文さん
だ。
もはや世界的古典と言ってもいい『グレート・ギャツビー』は、一人の女性との恋を成就させるために、あらゆる手段を使って巨万の富を築き上げた男の切なくも悲しい物語だ。日本ではフランシス・コッポラ監督が脚本を手がけロバート・レッドフォードが主演した映画化が有名だが、数多ある文学作品の中なぜ『ギャツビー』だけがここまで映画化され続けるのだろうか。
「舞台となっている1920年代というのは未曾有の好景気にに見舞われ、アメリカ人が一番回帰したい思う時代なんです」
「その中ギャツビーは『過去の再現ができないわけないじゃないか』と迷いなく言います。失敗してもリセットしてやり直せるというのをイノセント(無垢)に信じているのです。その姿は経済最優先の中、失敗を繰り返しながらも進んで行く超資本主義国家のアメリカにとって希望の物語として魅力的に映るんだと思います。これからも折につけ映画化され続けると思いますよ」
レッドフォードの『ギャツビー』は1974年の公開だが、それはちょうどアメリカがベトナム戦争で国家としての自信を失いイノセンスを失ったと言われた頃だった。911のテロ後、国家として迷走し続けて出口が見つからない現在また『ギャツビー』が公開されたのも無関係ではないかもしれない。
では今回の映画化の出来はどうなのだろうか?
「恥ずかしながら観終わった後、涙が止まりませんでした。…
賛否は分かれているようですが文芸作品、ましてや強い思い入れを持つ人の多い古典の映画化は大体失敗って言われてしまいます。でもバズ・ラーマン監督は相当読み込んで『ギャツビー』のエッセンスを実に理解してると思います」
ではこれから『ギャツビー』を観に行こうと思っている人は、映画を観る前に原作を読めばいいのでしょうか、それとも映画を観てから原作を読めばいいのでしょうか。
「2時間20分の映画で長編小説をすべて表現するというのは不可能です。小説から入ると物足りなくなってしまうかも知れません。僕は映画を観て興味を持ったら原作を読めばいいと思います」
その上で、皆がもう少し文学に関心を持つようになってくれればと宮脇さんは語る。
「最近大学でも『TOEICの点数が』というような実用的な話ばかりが増えてきて、文学に代表されるような教養が軽視されています。でも社会の歪みや苦痛から人々を救うものこそが文学だと思うんです」
著書の『「グレート・ギャツビー」の世界』も、広く多くの方に文学に触れるきっかけになればという思いから記したと宮脇さんはいう。
「学者の中には『どうせキミたちにはわからないだろう』という態度の人がいますが、本来小説の解釈は読者の自由なんです。ただ古典の多くは1、2回読んだくらいではなかなか理解仕切れないものが多いものです。僕の本によって『こういう読み方があるんだ』と知ってもらって文学に興味を持ってもらえたら嬉しいですね」
現在『グレート・ギャツビー』の日本語訳は複数出ているが、村上春樹訳 小川高義訳が読み易く若い人にはいいのではないかと宮脇さんは勧める。
映画を観て面白いと思ったら原作を読み、さらに詳しく知りたいと思ったら宮脇さんの本などの解説本を手に取り、しばし文学の世界に浸ってみるのも悪くないかもしれない。
(鶴賀太郎)
あまりにも「ヨカッタ」ので、感動していたら、一緒にDVDを観た友人が「1974年版の
ロバート・レッドフォードの映画の方がいい」と言うので、オリジナルの方も観ることにした。
1974年版の方が、脇役がみんな魅力的。そして、要の人物であるデイジーと呼ばれる女の人物描写などが細かい。語り部的な役であるニックは観客が感じる疑問をそのまま表情に現し、親近感が増す。
ロバート・レッドフォードは、あまりしゃべらない。
でも、そこにいるだけで、ほんわかと後光が差しているかのよう。
海の色のような青い目。金髪。金色の産毛。なんと、魅力的な人なんでしょ。
そして無垢な感じ。人間の匂いがしない。謎の人物になり切っていました。
演技というより、ロバート・レッドフォードの持って生まれた輝きがうまく生かされた映画だったんだなと思いました。
ギャツビーがデイジーの幼い娘を見た時の戸惑った様子は、唯一人間性を感じる部分だった。
ギャツビーにとっては、デイジーの娘の存在は全く頭に無かったんだろうなと思われた。
1974年版の方が、やるせない気分になる内容だった。観終わってもやもやした気分になった。
2013年版の方が、ストーリー的には、説明がきちんとなされていて
なぜ、そういう結末になったのか理解できる気がした。
語り部的な役割のニックを演じたトビー・マグワイアがとても可愛く、
どんどんギャツビーに引き込まれていく様子を地味に演じていて
ニック役は2013年版の方がいいと思った。
1974年版のニック役の演技がへたというわけではなく、
映画のストーリーがより、ニック中心に動いていっているから、ニックが可愛い人に感じるというわけ。
ニックは、重要な場面を全部見ている。
ギャツビーの影の部分も、デイジーの影の部分、デイジーの夫の影の部分もみんな観ている。
でも、ニックは他人を説教したり、状況を変えようとは思っていない。
本当に傍観者なのだ。ニックは、デイジーの親戚なので、デイジーの人生をあえて壊したくないし、ギャツビーの希望に向かってまっすぐに突き進む明るさと純粋さに魅惑されていて
ただ、成り行きを観ているしかできないのだった。
2013年版のデイジーも、あまりしゃべらない。デイジーは、幼い感じで可愛い。
1974年版のデイジーは、確信犯的だったが、2013年版のデイジーは、幼稚で無責任。
こんな女に惚れてしまったことがギャツビーの悲劇の始まりだ。
どちらのディジーも、自分というものが無くて、だからなのか罪の意識も薄くて、流れに流されるままに生きている人なのだった。そして、自分に惚れている男の人生を平気で踏み潰していく人なのだった。
2013年版の映画を観終わった感想は、もの悲しい感じ。
1974年版は、せつなく辛い気持ち。
2013年版のレオナルド・ディカプリオの華麗なるギャツビーは、無理して上流階級の男になった人物を上手く演じていた。
ディジーの夫に差別的な言葉を投げかけられて激怒している姿が元軍人らしくてわたしは好きだった。そこで怒るのは当然でしょう。
レオナルド・ディカプリオも、青い目と金髪の持ち主で
元軍人という設定にふさわしい立派な胸板と極上の笑顔で
適役だったと思います。
映画の名前がなぜ、「華麗なるギャツビー」という名前なのか分かった。
登場人物はみんな、上流階級の人々とはいえ、世の中にいる普通の嫌なヤツらなのだが、
ギャツビーだけ何事にも影響されることなく、愛に向かって一直線に突き進んでいて、
心は希望と夢に満ち溢れていて、
グレイトとしか言いようがないからなのだった。
1974年版のデイジーがなぜ、ギャツビーを待てなかったのか語っていた。
「お金持ちの女の子は、貧乏な男の子と結婚しないのよ。そういうものなの。わかるでしょ?」
2013年版のデイジーは、他の人との結婚当日にギャツビーから手紙が来て、泣きながら結婚を止めようとしたが周りに止められたのだった。その辺は、2013年の方がいいな。
原作には、2013年版の方が忠実なのだそうだ。
~~~~~~~
アメリカ人はなぜ「ギャツビー」が好きなのか?
Excite Bit コネタ
ライター情報:鶴賀太郎
米ミネソタ州セントポールにある『グレート・ギャツビー』原作者F.スコット・フィッツジェラルドの銅像。フィッツジェラルド自身も狂乱の1920年代に踊らされた人の一人だった
レオナルド・ディカプリオ主演、バズ・ラーマン監督の『華麗なるギャツビー』が公開され話題になっているが、実はその原作であるF.スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』が映画化されたのは今回で5回目だという。
「古くは1920年代に映画化されたものもあるんですよ、日本ではもう映像を入手することは困難ですが」
そう語ってくれたのは、日本フィッツジェラルド協会前会長、近頃『「グレート・ギャツビー」の世界 ダークブルーの夢』(青土社)を上梓された米文学者の宮脇俊文さん
だ。
もはや世界的古典と言ってもいい『グレート・ギャツビー』は、一人の女性との恋を成就させるために、あらゆる手段を使って巨万の富を築き上げた男の切なくも悲しい物語だ。日本ではフランシス・コッポラ監督が脚本を手がけロバート・レッドフォードが主演した映画化が有名だが、数多ある文学作品の中なぜ『ギャツビー』だけがここまで映画化され続けるのだろうか。
「舞台となっている1920年代というのは未曾有の好景気にに見舞われ、アメリカ人が一番回帰したい思う時代なんです」
「その中ギャツビーは『過去の再現ができないわけないじゃないか』と迷いなく言います。失敗してもリセットしてやり直せるというのをイノセント(無垢)に信じているのです。その姿は経済最優先の中、失敗を繰り返しながらも進んで行く超資本主義国家のアメリカにとって希望の物語として魅力的に映るんだと思います。これからも折につけ映画化され続けると思いますよ」
レッドフォードの『ギャツビー』は1974年の公開だが、それはちょうどアメリカがベトナム戦争で国家としての自信を失いイノセンスを失ったと言われた頃だった。911のテロ後、国家として迷走し続けて出口が見つからない現在また『ギャツビー』が公開されたのも無関係ではないかもしれない。
では今回の映画化の出来はどうなのだろうか?
「恥ずかしながら観終わった後、涙が止まりませんでした。…
賛否は分かれているようですが文芸作品、ましてや強い思い入れを持つ人の多い古典の映画化は大体失敗って言われてしまいます。でもバズ・ラーマン監督は相当読み込んで『ギャツビー』のエッセンスを実に理解してると思います」
ではこれから『ギャツビー』を観に行こうと思っている人は、映画を観る前に原作を読めばいいのでしょうか、それとも映画を観てから原作を読めばいいのでしょうか。
「2時間20分の映画で長編小説をすべて表現するというのは不可能です。小説から入ると物足りなくなってしまうかも知れません。僕は映画を観て興味を持ったら原作を読めばいいと思います」
その上で、皆がもう少し文学に関心を持つようになってくれればと宮脇さんは語る。
「最近大学でも『TOEICの点数が』というような実用的な話ばかりが増えてきて、文学に代表されるような教養が軽視されています。でも社会の歪みや苦痛から人々を救うものこそが文学だと思うんです」
著書の『「グレート・ギャツビー」の世界』も、広く多くの方に文学に触れるきっかけになればという思いから記したと宮脇さんはいう。
「学者の中には『どうせキミたちにはわからないだろう』という態度の人がいますが、本来小説の解釈は読者の自由なんです。ただ古典の多くは1、2回読んだくらいではなかなか理解仕切れないものが多いものです。僕の本によって『こういう読み方があるんだ』と知ってもらって文学に興味を持ってもらえたら嬉しいですね」
現在『グレート・ギャツビー』の日本語訳は複数出ているが、村上春樹訳 小川高義訳が読み易く若い人にはいいのではないかと宮脇さんは勧める。
映画を観て面白いと思ったら原作を読み、さらに詳しく知りたいと思ったら宮脇さんの本などの解説本を手に取り、しばし文学の世界に浸ってみるのも悪くないかもしれない。
(鶴賀太郎)