近くにある防空壕で、家族を含む40体ほどの遺体を見つける。「みんな青白い顔で、立ったまま死んでい
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「立ったまま死んでいた」 東京と鹿児島の大空襲2015年04月09日 (5400文字) 購読する216円(税込)
太平洋戦争末期、東京で米軍の大空襲を経験した80代の男性は、1945年6月、故郷の鹿児島に向かった。それまで大規模な空襲は東京などの大都市に限られていて、米軍の標的が地方都市に移ろうとしているとは思いもしなかった。男性は実家のある鹿児島市で空襲に遭う。近くにある防空壕で、家族を含む40体ほどの遺体を見つける。「みんな青白い顔で、立ったまま死んでいた」という。空襲体験者の声を聞いた。
◇序 章 空襲の日々、心がまひした
◇第1章 焦げた壕、家族立ったまま
◇第2章 家族失い、自分責めた
◇第3章 罪の意識、胸にしまった
◇第4章 弔うため私は生きた
序 章 空襲の日々、心がまひした
青く澄んだ寒空に、東京スカイツリーのシルエットが浮かぶ。
山の手の一角、東京・大塚。厚手のコート姿の春成幸男さん(89)=世田谷区=が、横断歩道の真ん中で立ち止まり、東の空をすっと指さした。
《あのあたりはね、もう真っ赤でしたよ。焼夷(しょうい)弾の火がザーザーとふって。夕立みたいな音が響いてね。火柱が何本も、何十メートルも噴き上がって。もう無理だって、ホースを消火栓につなぎもしませんでした。》
1945年3月10日、午前0時過ぎ。19歳の春成さんは、消防車で大塚から東部の下町に向かったが、炎の壁に阻まれた。
当時、東京高等師範学校(現・筑波大学)の1年。学生は全員、消防署に補助員として召集され、空襲があると走り回っていた。
東京は、終戦までに100回以上の空襲に遭い、そのたびに多数の犠牲者が出た。
《子どもをだっこしたり背負ったりした遺体を見ても、そうか、という印象ですよ。何も感じない。空襲に慣れてしまって、もう、こういうもんだと。
ただ、この戦争には勝てない。そうはっきり思っていました。》
大塚にあった高等師範の寮も5月の空襲で焼けた。学生たちは軍に入ることになり、春成さんは6月、最後のあいさつに、故郷の鹿児島へ向かった。
まさか、米軍の標的が、大都市から地方都市に移ろうとしていたとは、思いもしなかった。
第1章 焦げた壕、家族立ったまま
東京から2泊の汽車旅。春成幸男さん(89)は、1945年6月上旬、鹿児島駅に着き、実家に向かった。
この時点で市街地が焼き払われていたのは、東京や名古屋、大阪などだけ。故郷で、久しぶりにゆっくり寝られると思った。
そして、6月17日。
弟2人が、軍隊に入る春成さんを見送るため、疎開先から鹿児島市の実家に戻っていた。両親、姉、妹2人も含め、家族8人の食卓。弟の疎開生活などについてにぎやかに話し、母・梅さん(当時53)が作った煮物をほおばった。床についたのは午後10時ごろ。
1時間ほどたったころだった・・・
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