昔の人は、なぜ不便な山村に暮らしていたのか?
山岳・水中カメラマン日記
自然をこよなく愛するNHKカメラマンの取材記です。執筆メンバーは、NHKが誇る山岳班・潜水班の面々です。
2015年05月11日 (月)
昔の人は、なぜ不便な山村に暮らしていたのか?
NHK甲府放送局、山岳カメラマンの米山悟です。
車で山奥の景勝地や登山口に向かうとき、なんでこんな山奥に人が住んでいるのだろう、と思う事はありませんか?買い物に不便、通学に不便、大雪や台風で孤立、と良い事が全然無い。現代都市部の暮らししか知らない大多数の人から見れば、そんな風に思えるはずです。実際若い人は出て行ってしまい、住んでいるのはだいたい昭和も戦前生まれまでのお年寄りばかりです。
山梨県早川町茂倉(もぐら)の集落
中学の頃から山登りを続けてきた私が、山梨県に住んで3年たち、いま一番惹かれているのは、山越えして山間集落へ下りるという山歩きです。車を使わず、駅やバスの終点から山まで足で歩き、山越えをして山向こうの集落へ下り、さらに町まで歩きます。マイカーが普及する前までは当たり前だった登り方ですが、今は流行りません。それにバス路線も昔より減りました。山登り自体は流行っていますが、少ない休日を目一杯山に当てるため、車でギリギリまで進める人が多いと思います。でも山麓を歩けば、人々の暮らしぶりや、古くから残る石碑、古民家、石垣などの佇まいを味わい、地図を見ながらその集落の地形的な必然性を考えたり、住人と声を交わして長話をする事もあります。
地名も素敵です。というか素敵な地名の集落を通る計画を作ります。甲府盆地の北の山あいには戦国時代由来の赤芝(あかしば/血に染まった所)、切差(きっさつ/切ったり刺したり)、生捕(いけどり/意味そのまま)なんて名前の集落が続く谷もあります。武田信玄の数代前にあった戦の時の名残の地名だと云われています。
早川町新倉の民。一階より二階がせり出している。南アルプスの甲府盆地よりの一列は、2000メートルに満たない低い山脈で、巨摩(こま)山地と呼ばれています。
この三月、その山を富士川から早川の谷へ山越えしました。山から下りて訪れた行き止まりの集落、茂倉(もぐら)は、谷底から数百メートル上の中腹、わずかに傾斜が緩まったところにある、数十軒だけの15世紀から続く集落です。この辺りの集落では、狭い平地に所狭しと家が建っています。一階より二階のほうがせり出した造りの家が多く、路地が入り組み、坂が多く、とても素敵な所です。
昔ネパール・ヒマラヤの山奥を旅したとき、こんな集落を辿って歩きました。茂倉は、南米のマチュピチュに例えられることもあるところです。
三叉路で話し込んでいたお婆さん3人に山越えして来た事を伝えると、「道どうだった」「荒れてなかったか」と皆、その道にとても詳しい。廃道寸前で、崖崩れで不明瞭な所もある道なので、今はここを通る人はほとんどいません。でも車の無かった時代には、その道が鉄道駅への近道だったのだから皆よく知っていました。もとは林業が盛んだった集落です。凄く立派な柱と梁の古い家に招かれて、お茶と漬物をごちそうになりました。林業の話、昔あった鉱山の話、杉林の中にあったたくさんの石垣は麦を作っていた段々畑だった話、片道5キロ標高差500メートルの道を下の小学校まで毎日歩いて通った話、どうせ行くならと毎日麦を背負って学校に通った話、ずっと続けてきた地域のお祭りも数年前に年寄りばかりになったので集まるだけになった話。いろいろな話を聞きました。
山梨市牧丘赤芝の庚申塚のある三叉路
早川町茂倉の細い坂道
なぜお婆さんたちのご先祖は、代々ここで暮らていたのか? それは戦乱で日本が貧しく、インフラが未熟だった時代(間近では昭和20年代)には、都市に住んでいるよりも、山あいに住んだ方が、清潔な水、食べ物、燃料、建材が、お金ではなく労働と協調によって手に入り、生きやすかったからです。こうした集落の多くは平家の落人、戦国時代起源の伝説を持ち、新しいところでは敗戦直後の満洲帰還者の戦後開拓として始まった所が多いのです。先のお婆さんも、戦後の飢餓の時代も麦があったから食べ物には困らなかったと言っていました。彼らは自分の事は自分で出来る、お金に頼らず生きて行ける力を持つ、逞しい知恵と力の持ち主です。食べ物を収穫し、うまく保存し、炭を作り、製材をする。先行きの見えない今の時代、人が最も必要とする確かなものではないかな、と思うのです。
現代人は山里を不便なところと思いこんでいますが、身一つで住み着いて生き延びられる所は、本来平野部や盆地の中央ではなく、山裾だったのだと思います。平野部の江戸、名古屋、大阪の都市は、治水と流通が整備された太平の17世紀以降に初めて都市化が可能になった場所です。山歩きを通してそんなことに気が付きました。
身延町平須の養蚕伝統建築の民家
山あいでも、何百年も前から家がある所に土砂崩れは来ません。崩れるのは途中の、無理して作った自動車道路です。大雪や土砂崩れで孤立しても、毎日車で行き来する必要がある人以外は困りません。都市の人と違って自立して生きているから生命の危険は特に無いのです。逆に都市部の住民は、車社会になる前には、誰でも当たり前に出来ていた事が、出来なくなりました。電気が止まればトイレにも困り、食べ物を手に入れる方法もわかりません。
日本は平和が70年続いて、最後の貧困時代を生きた人たちがいま、山あいの集落で暮らしています。この美しい風景が見られて、お年寄りたちの「昔の日本人の記憶」を聞けるのもあと十年ほどかもしれないと思っています。
米山悟|山岳・水中カメラマン日記 | コメント(30)
※NHKサイトを離れます
コメント(30)
山と里を歩かれての詳細なレポート興味深く拝読しました。写真も印象的でした。豊かな自立した暮らしの知恵をぜひまたレポートしてください。
投稿日時:2015年05月12日 18:10 | 恩田真砂美
和歌山大学で地域研究をしています。コラム,非常に共感しました。私は,森林生態学の立場から地元である熊野の山中を徘徊する研究を行う中,なんで,こんな山奥に?・・という集落,廃村を多く見て来ました。気になって,社会環境まで調べることになりました。それは,人間活動が自然(植生)に大きく影響するからです。そして,いろいろ調べている中で,熊野の山間部集落の「最初の一人」は,おそらく,鉱物関係ではなかったのか,と考えるようになりました。
こんな「わき道」の研究が地元で受けてしまい,5/12に朝のNHK全国放送で,その研究の一部を紹介してもらいました(もともとは,関西枠で製作されたもの)。なんと妖怪研究です。民間伝承には昔の自然,社会の姿が込められてることがあることがあり,それを調べていたら・・ということからです。また,これも,派生成果ですが,集落よりも先に滅んだ社会要素として「学校」にも興味が湧き,4月末に『熊野の廃校』という本を発刊しました。1600カ所ほどの学校設置実績のある場所を訪問した結果をまとめたものです。
関係ない話ばかりで申し訳ありませんでしたが,コラム,非常に興味深く,共感しましたので,コメントを投稿させていただきました。
投稿日時:2015年05月13日 06:52 | 中島敦司
すばらしいレポートをありがとうございます。自分でも体験してみようとおもいます。人間力をためされる時代に再突入してゆくのかも知れないこのご時勢。実感出来る何かを自身に備えるのが、また当たり前になるのかもしれませんね。
投稿日時:2015年05月13日 08:17 | kazz
全く共感します!
投稿日時:2015年05月13日 12:03 | 林としあき
この記事では触れてないが、内戦の被害を受けにくいのも大きい。(政変に巻き込まれないのは死活問題。)
投稿日時:2015年05月13日 15:58 | Yoshiciv
自動車に乗っているとすぐに流れていってしまう景色のなかに、こんなにも歴史や文化があるのだと改めて気付かされた。こんな山歩き、してみたいなぁ。
投稿日時:2015年05月13日 18:36 | 紫陽花
「山あいに住んだ方が、清潔な水、食べ物、燃料、建材が、お金ではなく労働と協調によって手に入り、生きやすかったからです。」水利権を巡って隣村と殺し合いまでした話、口減らしの子殺しや姥捨て、等々聞いたことはございませんでしたか。今後は山歩きの際は、地蔵像がどれだけあるか注意されると新しい発見があると思いますよ。
投稿日時:2015年05月13日 21:00 | 田無
家の造りがほんとうに美しい。古い美しい家を観ているとこころが落ち着きます。山村の豊かさ。素敵な視点ですね。読んでいて、懐かしいというか、素朴な、暖かさのようなものを感いることが出来ました。ありがとうございます。
投稿日時:2015年05月13日 21:33 | 小林和之
我が家は江戸時代の有明海干拓に入植した記録以来、同じ場所で米を作ってきた農家です。バス停もない、所謂、「不便な」土地に住んでおります。
理路整然としたコメントは書けませんが、同居の夫の父はかねがね、(都会の住人の誰からも頼まれた訳でもないのに(笑))この国に何かの異変が起こって、街で暮らす住人が食糧難に陥ったときには、このわしらの田舎がそれら難民?を引き受けるのだ、という気概を持っています。それが、地方に住む人間の、孤高、だと思います。
投稿日時:2015年05月13日 21:40 | 藤吉佳美
前文に書きもらしたことがありました。
そうです、我が家の7代前のご先祖さまが入植と同時に建てた家、現代は作り替えられましたが、同じ場所、本来、低いはずの干拓地ですが、どんな大水害にも(昭和28年に筑後川の氾濫による大規模な水害が発生した記録がありますが)我が家に水が入ったことは1度もなく、それが、先祖伝来の誇りとなっています。
投稿日時:2015年05月13日 21:46 | 藤吉佳美
なぜ山あいの集落があるのか、とてもわかりやすくお話ししていただき、感激です!
茂倉に一番近い小学校に勤めています。
投稿日時:2015年05月13日 22:41 | 一瀬純司
なんだか身につまされる内容でした。
私の生きる力はどの程度なんだろう。エコロジーが言われて久しいけれど、都市部のそれのなんと上っ面なことか。
でも、その中庸を模索することも大事な気もします。都市部の全てを否定するのも違うと思うので。
とにかく素敵な記事でした!
投稿日時:2015年05月13日 22:45 | りす
素敵な発信、有り難う御座いました。
私は、故あって、故郷である名古屋におけるモロモロを断捨離して、単身、福島にきております。
福島に当面の宿を定めるまで、半年ほど、東北各地を訪ねました。
そして、おっしゃいますような原・日本的世界の再発見の日々を、今日に至るまで過ごしております。
なお、念のために申し上げますが、原発の問題については短い文脈では語れませんのでここでは言及いたしません。
ただいかなる党派、グループにも所属しない単独者であることだけ申し上げておきます。
とにかくこの島の常民…常世の民の素晴らしさに、時には泣く思いをしております!!
福島となづけられた大地は全県の大体を見て歩きましたが…日本に桃源郷あり!!その里の名を福島という!!…と心の底から叫びたい気持ちでおります。\(^o^)/
偶然にこのブログに出会い、記者さんの優しい眼差しと賢明な分析とに心打たれましたのでついメール差し上げたくなりました。
自己紹介も省いたまま、急こしらえの、推敲もなにもないお目汚しの通信にて失礼致しました。
投稿日時:2015年05月13日 23:35 | 林 澤ー(さわいち)
早川の流域から安倍川の有東木沢へも山を越えて、人々が行き来したと聞いています。
砂防や治山工事の人夫さん達が、仕事を終えてから夜道を歩いて、早川筋へ飲みに出掛けて明け方に安倍川筋に帰ってたとか。昔の人々が強健さに関心しました。
投稿日時:2015年05月13日 23:42 | ぶるー
おもしろい話、興味深く読みました。
投稿日時:2015年05月14日 00:43 | みか
昔の人は不便だと感じていたのか?今の人の目・価値観で見ていてもその本質は判らない。
今の何でもある暮らしを経験した人から見れば昔は不便でしょうが、電気も水道も経験していない人たちに取っては、いろりで煮炊きをしたり、ランプで明かりをとったり、井戸や水汲みに行くことはことが、大変だっただろうけど当たり前だった分けです。自給自足と云う面では、その場所のほうが生き安かったと言うことでもあるでしょう。
不便を受け入れていると言うより当たり前の日常。不便と言うのは、当たり前の日常がなくなったときに、初めて経験するのもなのだと思います。
投稿日時:2015年05月14日 06:30 | ざりがにさんかえるさん
記事にあるように私の住んでいる九州でも車で走ると、街に出るのに数時間もかかる田舎があります。そして、良くこんな所で生活していけるな、現代人のようにどこでもコンビニの生活に慣れた今では住めなくなるよな、と思ってしまいます。ここで生まれ育ったお婆ちゃんは東京とか知らずに・・とかも思ってしまいます。それが不幸とはおもいませんが。素敵なレポート、感謝します。
投稿日時:2015年05月14日 08:25 | 仁太
私は東京から新潟県十日町のある集落へ移住して暮らしていますが、この集落は今でも養蚕をしています。
今でも電気コタツは使わない家や山の水道を使う人が沢山います。
『昔の日本人の記憶』を今でも当たり前のように暮らしている地域です。絶滅危惧種の生き物は当たり前のようにいて、まるで童謡の中の世界に住んでいるようです。
そんな地域があることを知って欲しくてコメントさせていただきました。
山間へフォーカスしてくださるカメラマンがいらっしゃることを知って嬉しく思います。
投稿日時:2015年05月14日 08:50 | ixon
素晴らしいお話し有難うございます。
私は阿蘇山の外輪山の生れですが、外輪山を越えて外の世界につながる道が残っていたり、すでに通れなくなっていたりしているのを何か所か知っています。そういった場所では昔は山を越えて阿蘇の温泉に長逗留、自炊して湯治に行ったりしたという話を聞きます。
『点』としての話は時代が過ぎると忘れ去られてしまうようで悲しいのですが、今ならまだ話を残すことが出来るのかもしれません。
そういった視点で番組を作っていただければとても有難いと思った次第です。皆様のご活躍に期待しています。
投稿日時:2015年05月14日 08:51 | 帆足秀樹
飲水が有って、獣や盗賊や戦乱から身を守れる場所といえば、それは山奥の谷間や、河岸段丘の洞窟などしか無かった。江戸時代以降は農業用水や水道が次々に開発され、治安も改善されて、初めて人々が平地に住めるようになりました。
投稿日時:2015年05月14日 09:13 | OWL
おおむね共感です。ただ、
>山あいでも、何百年も前から家がある所に土砂崩れは来ません。
これは確率の話で、千年、万年クラスの災害も起こりえます。災害の際にはその時その時で、しっかり判断する事も重要ですよね。
投稿日時:2015年05月14日 09:20 | 香川
この前、大佐渡山脈を東側から入り西の海辺の集落に抜けたとき、同じような感慨がありました。たいへん歩きやすい合理的な道形で集落の入り口にある八重桜が微風で少しずつ散っていたのが印象的でした。
投稿日時:2015年05月14日 10:15 | 山田 亘
そこに人が住んでいるなら、そこはかつては豊かだったと考えればよいと思います。
網野善彦さんが、能登を調査して、そこは水呑百姓が多いけれども、実は、そうした人達の大部分は、北前船の船頭たちや北前船の商人たちだったことを発見されました。
北前船が活況だった頃、能登は豊かな地域だったのだろうと思います。
しかし、明治半ばくらいから、北前船が廃れたために、能登は貧しくなっていきました。
でも生まれ育った地域は離れられませんから、人々は低下した経済力の能登にそのまま残り、能登は経済力に比べて人口過剰の時代が数十年単位で続いてきました。
それを我々が見て、能登は貧しいから、昔も貧しかったのだろう、なぜそんなところに人が住んでたのだろうと思うわけです。
それは過渡期だと考えればよいと思います。
山村も、江戸時代~戦後まもなくまでは、手工業製品の原材料の大半は、山間部で切り出された様々な種類の木材などでしたし、燃料としての薪炭類は、極めて重要なエネルギー源でした。
その経済的な価値は、そうした原材料の加工や出荷の基地となってた山裾の町々が栄えていたことからもわかります。
ですから、山村に人が住んでいたのはむしろ当然だったのです。経済的に豊かだったからです。
しかし、それが、さまざまな道具や製品が金属製品に転換し、燃料が石油やガスに転換するにしたがって、山村の原材料は売れなくなり、その時点から、山村は貧しくなっていきました。それを我々がみてこんな貧しい山村になぜ人が住んでいると思うのです。
しかし、それは、経済力が落ちても、人が生まれ育った地域を離れられないからです。
山村の人口が、新しい低下した経済力や環境に見合った規模に縮小するまでには少なくとも数十年の時間がかかります。
その間、山村は、貧しいところというイメージで見られるというわけす。
投稿日時:2015年05月14日 10:22 | KitaAlps
人間一人の人生では読み取れない地域の潜在能力や許容量、いろんなカタチでカントリーコード(地名や慣習等)として残されているのですね。
固有の妖怪やモノノケの話は、地域の人は正体が実はわかっていて、よそ者が荒らさないように語り継ぐと聞いたことがあります。ゆえに裏山は、その時代のコンビニですから、万引きされたくないですからね。
江戸時代とか更に古い時代、時間のモノサシを変えれば、新鮮な物や情報はどこからやってくるかといえば、必ずしも平地ではない。そう考えていくと…
投稿日時:2015年05月14日 11:32 | masa-8940
感動しました。合理化、物欲にばかり目を向けたら、本当の幸せを見失います。
投稿日時:2015年05月14日 11:44 | 福田忠雄
子供の頃からフシギだった謎がすっきり理解出来ました。
有難うございます!
投稿日時:2015年05月14日 13:22 | motoyoshi-Y
都会のいいところは、誰も私を知らないことかも。
田舎は人数が限られている分、プライバシーと言うものが存在しない。
生まれた時から今日まで、今、どこで誰が何をしているのかまですっかり、一から十まで知られている。
もし、その拘束力や束縛感に気が付いたなら、人は都会を求めるのかもしれないとも思う。
食べ物や飲み物が、場合によっては手に入らなかったとしても
自由の方が、人によっては求めなきゃいけないものだったりするのかも知れません。
一概には言えない・・なんでもそうだろうけど、、、田舎は確かに憧れでもあるけれど、価値も認める。そうであったとしてもやっぱり“イヤ”って事も、あるんだろうなと、思ってしまいました。
投稿日時:2015年05月14日 13:23 | 佐藤和也
地域活性化事業の仕事で東北の地方都市に住んだ経験のある者ですが、記事の内容が非常に薄すぎます。私のいた地域とは違うのかもしれませんが、こういった山村地域では大きな差が見られない真実のポイントが抜けていて説得力がありません。
住んでた地域にも、このような山村地域がたくさんありました。記事にあるように、都会生活には無いプラスの面もありますが、マイナス面もたくさんあります。その事実を伏せて、「便利でも住みにくい都会 vs 少々不便でも住み心地のいい田舎」という一般イメージ論のみで語るのは、実に浅はかです。
マイナス例の典型が、医療問題。近所にかかりつけの医者がいなく、公共交通機関も整っていない地域では、免許の無い高齢者は誰かに送迎の負担を強いるか、タクシーで何千円も払って通院する必要があります。子供の教育問題も深刻です。近所の小中学校から離れて通い出す高校生ぐらいになると、電車やバスが無い所に住んでいては、自力で通えません。仕事を抱えた親が毎日、最寄駅まで送迎するのも大変です。
「生まれ育った田舎を離れたくない」と思う若い人達でもこういった事情を踏まえると、山村地域を出て暮らした方が経済的ですし、総合的に都市生活の方が便利と判断する人が多いのが事実です。
筆者は実際にこのような山村地区に腰をすえて暮らした経験があるのかどうか、それすらも不明ですが、真実を物語るほどのレベルではないと見受けられます。
投稿日時:2015年05月14日 13:39 | 田舎ぐらし
本論の言わんとすることはわかりますが
江戸は家康が堤防を大改修した町ですけど、大坂は飛鳥時代から治水を続けてきた町だから、たかだか信玄の時代からしか続いてない山間集落の歴史とは比べられないのでは
湿地の干拓は最近のはなしだ、というのはその通りなんですけど、公権力による治水事業は遥か昔から行われていますし、それこそ大陸では三国志や始皇帝の頃より前から行われてます
当然、渡来人の技術で日本にももたらされてます
なので
・古代における山間の有利
・中世における山間の有利
・戦後しばらくの山間の有利
これらは同一のものではないと思います
投稿日時:2015年05月14日 14:24 | 爽やかさん
茂倉は両親の故郷です。
今でも祖父やおじおば、親戚が暮らしています。
私は東京で生まれ、東京で育ち、今も東京に住んでいますが、
喧騒に疲れた時は、必ずと言っていい程、茂倉のことを思い出し、“あぁ帰りたいなぁ…”と思ってしまいます。
私にとっても、“故郷”になっていました。
茂倉を取り上げて下さり本当に有難うございます。
投稿日時:2015年05月14日 15:49 | 美由布
http://www.nhk.or.jp/ecochan-blog/400/215852.html