南京攻略戦「日記」生々しく 兵の記述に「大虐殺」片鱗なし | 日本のお姉さん

南京攻略戦「日記」生々しく 兵の記述に「大虐殺」片鱗なし

2015.4.18 07:00更新
【歴史戦 第10部・終わらぬプロパガンダ(1)】
南京攻略戦「日記」生々しく 兵の記述に「大虐殺」片鱗なし
南京攻略戦に従軍した西山源次郎さんの日記
《毎日十里(約40キロ)余り歩いて、毎朝腰が上がらない。(中略)南京が近くなったので毎日、友軍機は飛び、攻略戦に早く参加すべく兵の士気があがった》
古い手帳につづられた文面から、昭和12年初冬、当時の中華民国の首都、南京攻略に向かう日本軍将兵らの息づかいが聞こえてくる。
「父が南京攻略戦に参加したと知っていたら、聞きたいこともあったんですが」。関東在住の西山邦夫(78)が、父、源次郎の遺品を手に語った。源次郎は平成5年、87歳で死去。18年に母も亡くなり遺品を整理中、源次郎の日記や作戦図などを見つけた。
陸軍少尉だった源次郎は、帝国生命(現朝日生命保険)に勤務していた昭和12年9月に召集され、陸軍第114師団歩兵第115連隊の小隊長として南京攻略戦に加わった。
同年12月10日に始まった南京総攻撃。作戦行動中のためか、当時の日記は同月13日までの出来事が日々1~2行、鉛筆で簡潔に記されているだけだ。後に当時の様子を詳細な手記にまとめており、その文面は戦闘の激しさを伝えている。
《南京南方六里(約24キロ)の秣陵関に到着した。南京城は火災を起こして紅(あか)く夜空を染め、砲声も聞こえる。秣陵関を出発すると、野戦病院が仮設されており、多くの将兵が収容されていた。第三大隊だけで三百名が戦死傷した》
源次郎らは南京城の南側にある雨花門から迫る。《猛進を続け、吾々(われわれ)のいた壕にも敵弾が盛んに飛んでくる。ここからクリークを渡ると、城壁まで三百米(メートル)、城壁の高さは二十米あり、千二百発の砲弾で城壁を崩し、西山隊も十二日夜城壁をよじ登って突入した》
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日記の記述は16日に再開する。「晴れ」と記されたこの日、雨花門周辺の警備を担当していた源次郎は、部下を率いて城壁上を移動。《支那兵の弾薬、迫撃砲弾など夥(おびただし)く、死体も数十ありたり》という状況だった。大隊長からは部隊の団結とともに、規律の維持を徹底するよう訓示があったという。
翌17日。《午前九時半集合、正午南門を発する予定するに、十時には早くも出発》。次の任務地に向かうため南京城を離れた。
西山自身、航空自衛隊で空将補まで務めた経験から、父が残したこの記述に着目する。「師団ならば万単位、連隊でも何千人単位で編成される。部隊が迅速な行動ができたのは、高い士気と規律を維持していたからに違いない」
源次郎はその後、山東省や北京周辺などの戦線に赴き、戦地から妻にたびたび手紙を送っている。南京事件の犠牲者「30万人」説を唱える中国は日本軍がほかの地域でも残虐行為を行ったとするが、これらの手紙からは、中国の主張と大きく異なる日本兵と住民の関係が浮かび上がる。
《最近部落での評判が大分いいのです。示威行軍に行っても皆出迎えてくれるほどなのです。日本軍は税金も取らないし、品物も買ってくれると…》
《支那兵は毎日食い物をもらいに来る。応じなければ銃殺されることもある。税金はむやみに取る。出さなければ女や子供を人質に取る。こんなやり方をするのだから嫌われるのも当たり前です》
手紙には、地域の役人や住民に食事へ招待されたという記載もある。源次郎が、現地の子供たちと一緒に納まった写真も残っている。
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戦後、中学校教員として家族を養った源次郎は、西山らには戦場での話をしなかった。戦時中はひげを生やし、いかつい風貌だったが、終始穏やかな態度だったという。
「父が話したかったことは、残された日記や手紙に全て収まっている。父らの世代が戦時中のことを語らないのは、話せば自己弁護になるし、語ることを潔しとしない世代だったからではないか」
戦後、東京裁判で戦勝国による追及が始まるなかで現れた「南京大虐殺」説に、西山は疑念をぬぐえず、悔しさを募らせる。「父の日記からはその形跡はうかがえない。物理的に30万人を虐殺するのは無理だ。戦後の大きな風潮のうねりの中で、歴史の歪(わい)曲(きょく)(わいきょく)に染まってしまった」(敬称略)
「歴史戦」第9部で南京攻略に参加した元兵士らの証言を掲載したところ、多くの反響があった。10部では、新たに明らかになった日記や手帳を紹介するとともに、中国側がどのような宣伝戦を展開したかも詳述する。
南京事件 昭和12(1937)年12月、当時の中華民国の首都だった南京陥落後、旧日本軍の占領下で起きたとされる事件。犠牲者数について中国側は「30万人」と主張する。日本では近年の研究で誇大との見方が定着している。「事件」というほどの出来事はなかったとの意見もある。日本政府は「非戦闘員の殺害や略奪行為などがあったことは否定できない」との見解を示している。