イエス・キリストの神性を否定する者は反キリスト
「ダ・ ヴィンチ・コード」をDVDで観た。わざと原作を読まずに観たが、これは
イエス・キリストが人間だったということを仮定して作った駄作だ。
駄作だけではなく、反キリストの意図を持った映画だ。
日曜日のわたしの教会のメッセージはちょうど、反キリストの特長は、イエス
キリストが神のひとり子ではないと言うことだという内容だったので、なるほど
と思った。聖書を編集したのはコンスタンチヌス帝だというが、新約聖書は
大勢のキリスト者によって書き写された厳選された物で、使徒たちの手紙だ。
使徒では無い者がいくら手紙を書いても、それは書き写されなかった。
使途たちが、福音書と呼ばれる所管を書いたのは、一番遅く書かれた物でも
イエス・キリストが十字架にかかり、三日目によみがえってから40年以内の
ことだ。イエス・キリストに実際会った者たちが、まだ生きている時代に書か
れている。だからウソを書くと、異端の書物として排斥され、キリスト者たちに
写本を書かれなかった。写本が多く残って、人々が書き写してきたものが
まとまったものが新約聖書だ。写本が多いものを集めたら新約聖書になった
というわけだ。中には当然、小説まがいのパロディ物やニセの書簡が出たが、
それらは、キリスト者には「異端の書物」として受け入れられなかったし、
排斥された。
「何々の書」と書かれた古い書物が一冊出てきても、キリスト者が書き写さな
かった書物は「ニセの福音書」なのだ。ダ・ヴィンチ・コードは、わざわざその
一冊しかない異端のニセの文書を出してきて、それが正当な物であるかの
ように、興奮している爺さんにしゃべらせている。
最後の晩餐の絵のイエス・キリストの左にいる人物が胸が大きいから女だと
か、爺さんにウンチクを語らせているが、あれはヨハネを現した絵だ。ヨハネは
線の細い美男子だったのではないかというイメージがある。ペテロが元漁師で
おっちょこちょいな性格だということも、聖書を読めばなんとなくわかる。
たぶん、赤井秀和みたいな雰囲気の人だったのだと思う。ダ・ヴィンチも自分の
イメージを駆使して絵を描いたのだ。第一、当時の食卓はあんなテーブルでは
なくて、イスラエルでは、テーブルを囲んで一人ずつベットに寝転んで食事を
したのだ。日本人から考えるとかなりだらしないポーズで食べていたのだ。
ダ・ヴィンチの絵は全部彼の頭の中の想像の産物で、歴史的な価値は無いと
思う。コンスタンチヌス帝は母親がクリスチャンだったので、キリスト教に元々
好意的だったし、クリスチャンを迫害することは国益にかなわないと判断した
から、ネロ皇帝から続くキリスト者への迫害を止めた。
本当に信じたのは晩年になってかららしい。キリスト教を国の宗教と定めた
時から、カトリックという政治と結託した宗教が生まれた。
聖書の教えからどんどん離れて、しまいには免罪符を売ったり魔女狩りを
したりする恐い宗教に成り下がった。そこでマルチン・ルターやカルヴィンなど
の聖書に帰ろうとカトリックに抵抗(プロテスト)する集団がでてきたのだ。
当時のカトリックにとって、聖書は禁断の書物であり、だれも読めないように
封印されていた。ルターは、高い塔の中で聖書を見つけ、それを読んだところ
カトリックと全然違ったので、びっくりしたのだ。
カトリックが聖書を隠したのは、カトリックの都合の良い解釈ができなく
なるからだ。カトリックは、まともなクリスチャンから言わせれば異端だ。
だいたいマリヤという人間の女性を、崇拝の対象とするところからして、
キリストの教えとはかけ離れている。あれは女性を拝む偶像崇拝の宗教だ。
プロテスタントは、間違った宗教であるカトリックから離れて、抵抗する集団で
聖書に忠実にあろうとした人々のことを指す。
カトリックはむしろ、昔からのクリスチャンたちを異端だとか魔女だとか呼んで
迫害してきたのだった。聖書に忠実なクリスチャンなら、異端だからとか魔女だ
とかいう名目で人殺しはしない。
聖書は「あなたの隣人を愛しなさい。」「あなたを迫害する者に善を行いな
さい。」と書いてある。聖書によると殺人は罪なのだ。
ダ・ヴィンチ・コードにはあちこちに、間違った聖書観が散りばめられている。
ほとんど、敵対的と言っていいぐらい、聖書の内容を曲げている。
聖書を知らない日本人のような異教徒や、聖書をまとも読んだこともなく
習慣で教会に行くようなアメリカ人がイエス・キリストのことをぼんやりと
「へえ、子供がいたんだあ。」などと信じ込ませるのに成功していると思う。
イエス・キリストの神聖を否定するのが反キリストの教えなので、もしこの映画
が、無意識の内にでも、日本人がイエス・キリストを信じにくくさせるなら、
まさしくこの映画は毒映画だ。
最後にとって付けたように「信じるか信じないかは本人しだい。」などと主人公
が言っている。
「井戸に落ちた時に神に祈った。側に誰かがいると感じた。それは人なのか神
なのか分からないが、信じるか信じないかは本人しだいなんだ。」などとワケの
分からない言葉を吐いているが、イエス・キリストの神聖を否定して子供がいる
タダの人間ということに映画ではしたくせに、何を言っているのか。
そんなことを主人公に言わせて、キリスト教会からの批判を少しでも
かわそうとしているだけだろう。
イエス・キリストが神のひとり子でないなら、キリスト教自体がウソになる。
クリスチャンは、イエス・キリストが神のひとり子だと信じている。
また、救い主に関する聖書の預言を信じている。イエス・キリストこそ、
預言者たちが昔から聖書に書いてきたとおり、神さまの遣わした「世の罪を
取り除く神の子羊」だと信じている。
それを否定する内容の本や映画は全て、人がイエス・キリストを信じないよう
に働く、悪魔の闇の働きなのだと思う。
世界中でダ・ヴィンチ・コードは売れたらしい。本も映画もかなり売れたようだ。
イエス・キリストが世の中に出て、自分が聖書の預言する神のひとり子であり
救い主であると宣言された期間は3年半。
世界の創造主が自分の右隣に座る愛する者を、人間として処女マリアを通し
てこの世界に送られた。それは神さまの予告どおり、聖書の預言どおりに
行われた。
聖書の300以上ある救い主に関する預言をイエス・キリストはすべて成就
された。人間が意図的に成就できる預言ではない。
完全に人間の姿をとりながら、同時に神としての力と罪の無い性質を持ち、
数々の奇跡を行い、神の教えを説いていったのがイエス・キリストだ。
カナの結婚式では、結婚式用に足りなくなったぶどう酒のために、かめに
水を汲ませ、水を質の良いぶどう酒に変える奇跡を行い、ペテロや他の弟子が
見ている前で湖の上を歩き、ペテロにも歩かせるという奇跡を行い、病人や
死人を生き返らせた。言葉ひとつで遠くにいる病人を癒し、死んだ人間を
生き返らせたという奇跡を行った。そして「わたしが神から遣わされた者だという
わたしの言葉が信じられないのなら、わたしのしている技を見て信じなさい。」と
言われたのだった。それらの奇跡は、証拠が無いと信じない人間のために
わざわざ見せてくださった奇跡だ。イエス・キリストは、奇跡を見せ付けにこの
世に降り立ったのではない。十字架の上で死んで、罪のある人類の贖
(しょくざい)のための神のいけにえとなるために来られたのだった。
そして死んで預言のとおりに三日目によみがえり、イエス・キリストを信じる者
に、永遠のいのちを与えるという約束を、人間に与えるために来られたのだ。
マグダラのマリアという人間の女性とセックスするために、この世に来られた
のではない。
イエス・キリストには、何の罪も見出されなかったと、24時間一緒に行動して
いた弟子たちが証言している。なぜ、イエス・キリストが弟子たちをぞろぞろ
連れて行動されたのか、今、分かった。変なウワサを立てられないためだ。
男なら女とセックスして子供を残すはずだという、人間らしい考えを否定する
ために、24時間弟子たちを連れて歩いておられたのだ。
マグダラのマリアは、元娼婦だが、どういう理由で娼婦になったのかは、聖書
には書かれていない。
わかるのは、彼女は元罪人の仲間だったけれども、イエス・キリストが人間の
罪を赦すために、神さまから人類の罪の身代わりに苦しみを受けると
分かっていたこと。
だから、イエス・キリストが十字架にかかって死ぬために、パリサイ人や
律法学者がイエス・キリストを捉えて殺そうとして待ち構えるエルサレムに
向かう時に、埋葬の用意をしたのだ。当時の埋葬は死体に香油を塗って
体をぬぐう。マグダラのマリヤは、エルサレムに向かうイエス・キリストの足に
自分の香油を埋葬のためにかけて、髪の毛でぬぐって涙を流したのだった。
元娼婦だったという罪人であったから、これからイエス・キリストがしようと
することの意味が分かっていたのだ。弟子たちは、そんな聖書の預言の中の
神さまの計画よりも、政治的なことばかり考えており、自分たちの将来は、
ローマ帝国から独立した、新イスラエルの政権の大臣だなどと考えていた。
イエス・キリストの言葉をまともに聞いてはいなかったようだ。
イエス・キリストが神の右の座から、この世に人間となって来られたの
は、人類の罪の身代わりに、父である神さまから裁かれ、十字架の
苦しみを受けるためであったと弟子たちが理解したのは、イエス・キリストが
三日目によみがえって、弟子たちに説明をしてくれた後のことだった。
誰でも、イエス・キリストが自分の罪を赦すために、聖書の預言のとおりに
十字架にかかられ、罪の裁きを身代わりに受けてくれたと信じるなら、
その信仰によって罪が赦される。「信じる者は救われる。」とは、そういう事だ。
神さまはご自分が約束されたことを信じる、その信仰によって、罪を赦される。
行いによって天国に行ける者は誰もいない。
神さまがご自分で用意された方法があるので天国に行けるのだ。
人間は生きている間、ずっと罪を犯し続ける。心に罪があるので、たとえ
自制心があって善人として過ごしていても、罪びとに数えられている。
人間は、神さまに罪を無条件で赦してもらわねば天国に行けない。
しかし、罪に対する報酬は死であり、地獄である。しかし、罪の無い人だけが、
罪のある人間の身代わりに、その罰を受ける事ができる。
罪の無い人間とは、神さまの右の座に着く、神さまのひとり子しかいない。
だから、神さまは、ご自分のこどものような関係のもうひとりの神を、
聖書の預言どおりに、ダビデの家系であるマリアの体を使って人間とし
生まれさせた。
そしてその完全な人間でありながら完全な神である救い主は、
30歳から33歳の間、大勢の人の前で、神さましかできない奇跡を行い、
聖書の神さまの預言の救い主は自分だと語り、これからしようとする神さまの
救いの道を語られた。マグダラのマリヤはそれを理解して、感謝の涙を流して
弔(とむら)いの準備をした人だった。弟子たちは、理解できなかったけれども、
元売春婦の罪びとのマリヤは、神さまの人間に対する罪の赦しを感謝したの
だった。そのマグダラのマリヤを、イエス・キリストの奥さんという設定にしたて
あげ、おもしろおかしく小説や映画にして大もうけするなんて、本当に罰当たり
な作者だ。小説がヒットする前は、くだらない本を一冊書いただけの人だった
のに。つまり、イエス・キリストの神性を否定するセンセーショナルな内容の
本をかけば売れると読んだら、それが当たったというワケ。
映画の中で、イエス・キリストの子孫とされる役の女性が、主人公の関所
恐怖症を治してみせたり、水の上を歩くポーズをわざとおどけてしてみせ
たり、「水をワインに変えてみましょうか?」なんてふざけて言うのは、
イエス・キリストが奇跡をできたのは、ただの特殊な能力を持った人間だから
だと作者は言いたいからだ。信じるか信じないかは本人しだいと主人公に
言わせるのは、「信仰とは、人間の生活に役に立つ道具」というイメージを
植えつけるためだ。信仰とは、人間が生きるために人間自身が考え出した特
殊な思想だというのは最近の考えだ。それは進化論に基ずく考え方だ。
「信仰は、人間が不条理な世界で耐えて、強く生きるための原動力となる、
ある特殊な思想で、それも必要だから人間が考え出したもの。」そういう説明
を作者は付けたいわけだ。しかし、聖書は、そんな進化論的考えをバッサリ
否定している。
「全ての人間には一度死んで、裁かれることが定まっている。」
「イエス・キリストを信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれ
ている。」
「神は実に、そのひとり子、イエス・キリストをお与えになたほどに世の中の人
を愛された。それはみ子、イエス・キリストを信じる者がひとりも地獄で滅びる
ことなく、神の国で永遠に生きるいのちを持つためである。」
「神の存在は被造物によって証明されており、弁解の余地も無い。」
「イエス・キリストは罪びとを救うためにこの世に来られたというのは
真実です。」
「信じる者は、救われるのです。」