映画「ナルニア国物語~第一章ライオンと魔女~」を観た!(ネタバレ無し)
クリスチャンの私には、この映画の作者のC・S・ルイスの意図が良く
分かるのです。C・S・ルイスは、第二次世界大戦中、ロンドンから
疎開してきた子供たちを自宅に受け入れて世話をしていました。
つまり、ナルニア国ものがたりのペペンシー兄弟たちとは、疎開して
C・S・ルイスの家にいた子供たちのことなんです。彼は子供たちを
主人公にしています。彼は、第一世界大戦に兵として参加し、怪我を
負って帰国し、オックスフォード大学の教授になりました。
ナルニア国ものがたりに出てくる教授は自分をモデルにしているの
でしょう。彼は、自分が読みたいと思った本を書いたと言っています。
ちなみに、指輪ものがたりを書いた人と、C・S・ルイスは友達です。
ナルニア国ものがたりは児童書ですが、イエス・キリストと人類の関係が
うまく比喩的に書かれてある、神さまのことを子供たちに分かりやすく
感じさせる本なのです。もちろん児童書としては、イギリスで最高の賞を
受けているすばらしい本です。
わたしがナルニアj国ものがたりを読んだのは中学生の時でしたが、
ナルニア国の主(ぬし)アスランの姿にイエス・キリストの姿を感じました。
映画では、時間の都合かちょっとはしょりすぎで、アスランを敬愛する
ルーシーの気持が十分に描ききれていなかったような気がします。
ルーシーと同じように観客がアスランの魅力に引き込まれ、アスランを
好きになるように、もう少し時間を取って欲しかった。ナルニアを実行支配する
白い魔女は恐さが足りないが、小さい子供も観る映画なので、うまい具合に
残酷さがカバーされていて良かった。
本の中では、白い魔女は到底勝てそうにないほどの恐い存在でした。
ペペンシー兄弟のエドモンドは人間そのものです。
神さまが創られた世界は、神さまに守られ祝福された完全な世界でしたが、
人間は悪魔の声に従い、神さまの言いつけを聞かずに積極的に逆らいます。
エデンの園とは、神さまは人類最初の男と女である、アダムとエバの
ために用意された祝福の場所でした。悪魔は神さまに逆らった天使の長でした。
天使の長が、神さまになろうとして、悪魔という存在になったのです。
悪魔は神さまの愛するものを壊し、神さまに対抗します。
神さまがいけないと禁止した事をすることが、エデンの園では「罪」でした。
エデンの園には、なんの罪を犯す道具もなかったのです。
ただ、人間が神さまの命令を聞くかどうかは、園の真ん中の食べてはいけ
ないと、神さまに言われた木の実を食べない事だけだったのです。
「食べると必ず死にます。」と、神さまは言われました。
木の実の名前は、善悪を知る木でした。悪魔はへびの中に入り、へびの口を
使って人間を誘惑しました。「本当に神さまは、食べてはいけないと
言われたのですか?」
エバは、その問いかけに「食べても触れてもいけないそうです。死ぬと
困るからです。」と、答えました。
へびは、さらに畳み込むように、エバを誘惑します。「神さまはウソつきですよ。
神さまが、その木の実を食べるなと言った理由は、食べるとあなたが神さまの
ように賢くなって、なんでもできるようになるからですよ。」
エバが見ると、その木の実はいかにも好ましく、おいしそうで食べると賢く
なりそうな雰囲気がしていたのです。わたしの想像ですが、エバは
木の実に触れてみたのだと思います。手に取っても何も起こらないのを見て、
エバは、木の実を口にします。エバは、神さまの言葉を、きちんと覚えて
いませんでした。たぶん、神さまの言葉を大切に考えていなかったのでしょう。
エバは、直ぐに自分に変化が起こった事に気が付きます。次にした事は、
アダムを呼んで誘惑することです。アダムは直ぐにエバに従い、木の実を
食べてしまいます。二人は、今では神さまに対する反逆者です。神さまに
従わないで、悪魔の声を信じて人類最初の「罪」を犯したのです。
神さまよりも賢い存在になろうと「善悪を知る木の実」を食べる事を選んだ
のです。人類の代表であるアダムとエバは、自発的に神さまに逆らう存在と
なったのでした。神さまがエデンの園を歩かれる時、
アダムとエバは恥ずかしくて、神さまに会いに行けませんでしいた。
(神さまは、それまではアダムとエバに出会って親しく語らう時間を作って
おられたようです。)
「アダム。エバ。あなたがたはどこにいるのですか?」神さまの呼びかけに
逃げ切れないと感じた彼らは、イチジクの葉をつづり合わせて自分の裸の
姿を隠して、出てきました。
「わたしたちは裸だったので、恥ずかしくて出てこれませんでした。」
神さまは、「誰があなたに裸だと教えたのですか?」と、尋ねられました。
アダムは、「この女が!神さま。あなたが創られたこの女がわたしを誘惑して
園の真ん中の食べてはいけない木の実を食べさせたのです!!」と、
アダムは答えました。さっそく罪の根性が彼の心を支配しているのが
分かります。
悪いのはエバを創って彼に与えた神さまと、誘惑してきたエバであって、自分
ではないと、言い訳を始めています。
エバは、「へびが!あなたが創ったへびが誘惑したんです!!
食べると賢くなるっていうから、食べたんです。そしたら裸だったと
分かったんです。」と、これまた、神さまが創ったへびのせいにして、暗に
神さまを責めています。
神さまに逆らった瞬間に、人類の魂の中に、罪への想いが宿りました。
そして彼らの神さまの栄光によって輝いていた体は、老いて死ぬ運命の
物質にとって変わりました。そして、よこしまな感情が心に芽生えた
ので、裸でいることが恥ずかしくなったのです。
神さまは、人間にこれからは人間の男子は畑を耕して死ぬまで労働して、
その実を食べなければ生きていけないこと、人間の楽しみは自分の働いた
労苦の糧を食べて満足することだけになったこと、地上は、人間の罪のために
のろわれて、悪いものを人間にもたらすようになったことを教えられました。
エバには、人間の女子は一生男子に支配され、男性を恋い慕うが報われない
事が多いこと、子供を産むときは激しい痛みがあることなどを教えられました。
へびは神さまが創られた動物の中で、一番美しく、賢い存在でしたが、この日
から、地を這う姿に変えられました。
神さまに逆らう道を積極的に選び取った人類の最初の祖先は、いまや
裸でいちじくをつづって腰に巻いた哀れな姿をしています。
神さまは、園にいた動物を殺し、その毛皮で着るものを作ってアダムとエバに
着せられました。彼らはもうエデンの園では生きていけません。
このエデンの園にある木の実は命の木なので、罪のある死ぬべき人間は食べ
てはいけません。罪びとが、永遠の命を持って生きることは許されない事
なのです。
彼らは、エデンの園から追い出され、エデンの東の土地で、自分たちで苦労し、
畑を耕して、その収穫物で生きていかねばなりません。
神さまは、アダムとエバにひとつの約束を与えてくださいました。
アダムとエバの子孫に、神さまがひとりの救い主をお与えになるという約束
でした。その救い主は、へび(悪魔)にかかとを噛まれて傷つきますが、
彼はへび(悪魔)の頭を踏み砕くでしょうという約束でした。
悪魔によって、神さまから遠く離れ、年老いて死ぬべき呪われた者となった
人間とこの世界を、罪の呪縛から救い出すひとりの子供とは、神さまの
ひとり子のイエス・キリストであるとは、まだアダムもエバも知りません。
彼らは、この約束を信じることで救われました。いつか神さまが、罪で汚れた
この世界を救い出す、ひとりの救い主をこの世に送ってくださる。
その約束を胸に、アダムとエバは、剣をもった天使に追われて
エデンの園を後にしました。
エデンの園の入り口は、燃えながら回転するふた振りの炎の剣で封印
されました。
罪のある人間の裸を覆うために、罪の無い動物の血が流されたことが、
救い主の受難を暗示しています。罪をあがなうには救い主の血が流されないと
決して神さまは満足されないのです。
神さまが選ばれたある民族の預言者たちによって、救い主の約束は次々と
書かれ編集され、その民族によって世界に宣伝されることとなりました。
ある日、指定されたある時代のある場所で、王様の子孫の末裔の女子に
救い主が、人間の手を借りずに聖霊の力によって人の体内に宿り
人類の罪の身代わりに罪の無い救い主が、大勢の目の前で神さまに
裁かれて死ぬ日がくるのでした。
預言者たちによってつづられた書物は、救い主の予言で、旧約聖書と
呼ばれるものです。救い主の記録は、新約聖書と呼ばれるものです。
罪の無い人間はいませんから、神さまの側の、もうひとりの神のひとり子
が、人間の姿を取って死ぬ必要がありました。罪の裁きは死です。
罪の無い神さまのひとり子が、罪のある人類の身代わりとなって、
裁きの場所で死ぬ必要があったのです。神さまは正しい方であり、罪を
憎む方であるからです。そして同時に神さまは、愛とあわれみを持つ方で
あるのです。神さまのひとり子は、聖書の預言者たちの予言どおりに
三日目に死の力を壊して、よみがえられます。
このよみがえられたイエス・キリストを見たときに、始めてイスラエルの人
たちは、神さまの言葉である聖書の意味を理解したのでした。
神さまにとって、救い主とは、地上にある人間の王様のことなのではない。
人間は、罪の呪縛から救われなければ、神さまから祝福を何ももらう
ことはできない存在なのです。救い主が自分の罪の罰を、身代わりに
受けて、神さまに裁かれ、血を流して死んでくれたこと。
三日目によみがえり、天に帰られ、今は神さまの右の座に座り、天の国を
用意しておられることを信じて、まず罪の罰である地獄から救われる
必要がひとりひとりにあるのです。
イスラエル人とこの世界には、聖書には別の予言があります。それは、
これから起こる別の話です。
ナルニア国ものがたりには、聖書に書かれた神様の罪に対する処罰の
方法と、罪を許す方法についての基本が書かれています。
罪の無いイエス・キリストが、ユダヤの政治家や宗教家たちの陰謀によって、
捕まえられ、侮辱され、死刑場にひかれて行く様子、イエス・キリストの
周りにいた人々の驚きと悲しみ。
三日目に予言の言葉のとおりによみがえられたイエス・キリストに会って
喜び、クリスチャンとなって世界中に出て行き、神さまの福音(良い知らせ)を
伝える人々の姿が、この児童書のあちこちにちりばめてあるのです。
悪魔と、死の力には絶対に逆らえない弱い人間も、神さまの力と助けに
よって、死の力と罪の裁きから救われます。
そればかりか、神さまのために偉大なる事業が行えるのです。経済や組織など
の地上の王様の力に頼らず、愛と恵みの力で人類を地獄から天国に導く、
神さまの戦いにペペンシー兄弟のように、人間も加えられているのです。
面白いでしょう?ピーターは、イエス・キリストの弟子の名前で、世界中に
イエス・キリストの福音を伝えた人。ピーターは岩(ペトロ)という意味で、
この土台の上に教会が立てられました。イエス・キリストが救い主である
という土台です。
お姉さんのスーザンは、母のような愛とホスピタリティーを表しています。
ルーシーには、幼子のような心で、神さまの救いを受け入れる者でないと、
天国に入れないという聖書の言葉を当てはめていると思います。
素直な幼子のような、神さまを信じ受け入れる心(信仰)を表しています。
エドモンドは、神さまを裏切って、罪を選んだ、最初の人類、アダムとエバを
表しています。どの子供も人間を表しているのです。
そして、アスランは、もちろん、罪で呪われた人間とこの世界の救い主、
イエス・キリストを表しているのです。この予備知識を持って映画を観ると、
もっと良く映画に秘められた意味が分かって来ると思います。
外国人は、この映画の意味を分かって観ているのですからネタバレでは
ないですよ!