東条英機の主張 | 日本のお姉さん

東条英機の主張

 東京裁判の山場、東条の個人弁護の立証は、昭和22年12
月26日から、年明けにかけて、8日間にわたって行われた。
自分以外の証人は一人も出廷させず、220ページにもわたる
口述書を準備して法廷に臨んだ。その英文版の朗読だけで、ま
る二日を要した。

 我国にとり無効かつ惨害をもたらした昭和16年12月
8日に発生した戦争は、米国を欧州戦争に導入するための
連合国側の挑発に原因し、我が国としては、自衛戦として
回避できなかった戦争であると確信する。・・・[a]

 戦争が国際法上より見て正しい戦争であったか否かの問
題と、敗戦の責任如何という問題とは、明らかに分別でき
る二つの異った問題である。

 第一の問題は外国との問題であり、かつ法律的性質を持
つ問題である。私は最後まで、この戦争は自衛戦であり、
現在承認されている国際法に違反しない戦争であると主張
する。・・・

 第二の敗戦の責任については、当時の総理大臣であった
私の責任であり、この意味の責任は受諾するだけでなく、
衷心より進んでこれを負うことを希望する。[4,p85-92]

 この後、キーナン検察官による4日間にわたる反対尋問が行
われた。キーナンは冒頭で「この口述書の目的は、日本国民に
かつての軍国主義をなお宣伝しようとするためのものか」と挑
発した。ブルーエット弁護人は直ちに「妥当な質問ではない」
と異議を申し立て、裁判長もこれを認めた。東条の堂々たる主
張に、キーナンはいきなり出鼻をくじかれた形となった。

 さらに東条は、国政に関することは、内閣及び統帥部の責任
で為した最後の決定につき、昭和天皇が拒否権を行使されるこ
とは、憲法上も、慣行上もなかったことを述べ、次のように断
  言した。

 故に、1941(昭和16)年12月1日開戦決定の責
任も、また内閣閣員及び統帥部の者の責任であって、絶対
的に陛下のご責任ではない。[4,p126]

 東条は、陳述の終わった直後に、笹川と法廷の控え室で対面
した。そして実に晴れ晴れとした顔で笹川に近寄り、その手を
両手で固く握りしめた。

 笹川君、幸い天皇陛下にご迷惑をおかけしないですんだ
し、証言台では、僕は思う存分に言うべきことを言ったつ
もりだ。ただ遺憾なのは、遠く歴史をさかのぼり、深く歴
史を掘り下げて語ることを許されなかったが、これは僕の
責任ではない。

 とにかく僕は、笹川さんが公判廷の経験を、微に入り、
細に渡って聞かせてくれたことがうれしい。貴方が最後ま
で僕を激励してくれたことが、どれほど参考になり、教訓
になったことか、僕は衷心から感謝します。まったく貴方
の毅然たる態度は、敬服のほかはありません。

 東条は笹川に深々と頭を垂れた。
 
 翌々日は、昭和23年元日であった。午後の運動時間に二人
は運動場でまた顔を合わせた。東条は笹川にお礼として、次の
一句を送った。

悠久の姿尊し初の富士

 笹川はこの句の意味が分からず、「私は富士山などとは関係
ないんですよ」と言った。東条は答えた。

 何を言うのかね。日本で一番のものは天皇、山は富士山
ではないですか。富士山というのは、笹川さん、あなたの
ことですよ。


 1月8日の夜、マッカーサーは、ウェッブ裁判長、キーナン
検事をGHQに招き、東条の証言内容を検討した。東条の開戦
責任が明確化されたことで、天皇の不起訴が確定した。
[1,p191-194]

 この年の11月12日、東条をはじめとする7人のA級被告
が、死刑の判決を受けた。判決理由書はついに公表されること
がなかった。

 12月1日、家族との面会日に、東条は妻にこう言い残した。

 まず裁判の結果、天皇に大きなご迷惑をおかけせずにす
んだことを、感謝していると(国民に)伝えてくれ。また、
私は、大和民族の血を信じているから、日本の前途には明
るい見通しをもって死んでいくと伝えてくれ。

 東条ら7人の処刑は、皇太子殿下(今上陛下)ご生誕の12
月23日にあわせて行われた。


http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog121.html
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