ちょっと読まないとならない事情があったので、小公女を読んだんですけど、
あまりに個人的にダメな部類だったので、ちょっとメモがてら書いておこうと思います。
前提として、自分はお涙頂戴系テレビ番組でVTR見てる芸能人が「かわいそ~~」とか言ってる姿胸くそ悪くて大っ嫌いなんです。ってことをまず書いておきます。
これに少しでも共感出来るなら、多分、このあとも共感していただけることでしょう、多分。
要するにそれとですね、ほぼほぼ同じ感情を小公女読んでて抱いたわけなんですよ。
小公女……とりあえずざっくりあらすじ言うと
「良い所のお嬢さんがパパから離れて寄宿暮らししてたらパパ死んで一文無し宿無しになり下働き同然でやつれていくけど、想像力でなんとか凌いでたら隣に偶然住んでたパパの親友(大富豪)が引き取ってくれた」的な話です。
気位の高いこの小公女がどんなに貧しい生活をおくることになっても、
その気位を失くさなかった結果最終的にほぼほぼ元の生活に戻れることになったよ♡
って感じだったんだけど、この気位がですね、ぼくは最高に嫌いです
例えばそれは、小公女、セーラは寄宿舎で下働きメイドと話すときとかに出てきます。
彼女は蔑まれてる下働きさんに「私たちなんにも変わらないわ、生まれた場所が違っただけ、偶然でそうなってるんだわ」って言うんですね。
でもこの「施す」行為って、持っている者がその主観によって、持っていない者を持っていない者と決めつける行為でもあるんじゃないですか?
その人が持っていても持っていなくても、「施し」をされる事それだけで、その対象は「持っていない者」の烙印を押される事になる、と思うんですよ。
だからセーラは、自分を「持っている者」だと思っているから、
そもそもこの「持っている者」と「持っていない者」の断絶、というか「持っていない者」への拒絶、というか、なんだろ、「持っていない者」への差別的な視線?絶対こうはなりたくないわっていう根底の思想があるからこそ、小公女は彼らに「施す」わけです。
こういう行為が作品内で賛美されているのが、すごく嫌なんですね。
セーラは下働きメイドに成り果てながら、
最後まで「あたし本当は下働きメイドじゃないもの」って思ってるんですよ。
さっきの「なんにも変わらないの」はどこいったんだ?明らかに君「持たざる者」を見下してるじゃないか、って思ってしまうわけです。
そしてその考えを正す事無く、最終的に奇跡的な偶然によってセーラはパパの親友に引き取られ財産を手に入れるわけなんですが……そうなんですね。
奴は下働きメイドは確かに頑張ってたんですけど、自らのその選民思想みたいなものを改めることなく、また偶然によって幸せを得るわけなんです。
「最悪の事態の寸前まで行くと必ず何かが起きるの。まるで魔法みたいね。それを忘れなければ、最悪な自体には決してならないのよ」
この作品がご都合主義だ~って言われてるのも、
結局最後の「魔法」、幸運がセーラが生来「持っていたモノ(運)」っていう要素に回収されてるから、尚更ご都合主義だって見えてしまうのがあると思うんです。
というかそもそも私はボランティアとか嫌いなんですよね。
あまりに個人的にダメな部類だったので、ちょっとメモがてら書いておこうと思います。
前提として、自分はお涙頂戴系テレビ番組でVTR見てる芸能人が「かわいそ~~」とか言ってる姿胸くそ悪くて大っ嫌いなんです。ってことをまず書いておきます。
これに少しでも共感出来るなら、多分、このあとも共感していただけることでしょう、多分。
要するにそれとですね、ほぼほぼ同じ感情を小公女読んでて抱いたわけなんですよ。
小公女……とりあえずざっくりあらすじ言うと
「良い所のお嬢さんがパパから離れて寄宿暮らししてたらパパ死んで一文無し宿無しになり下働き同然でやつれていくけど、想像力でなんとか凌いでたら隣に偶然住んでたパパの親友(大富豪)が引き取ってくれた」的な話です。
気位の高いこの小公女がどんなに貧しい生活をおくることになっても、
その気位を失くさなかった結果最終的にほぼほぼ元の生活に戻れることになったよ♡
って感じだったんだけど、この気位がですね、ぼくは最高に嫌いです
例えばそれは、小公女、セーラは寄宿舎で下働きメイドと話すときとかに出てきます。
彼女は蔑まれてる下働きさんに「私たちなんにも変わらないわ、生まれた場所が違っただけ、偶然でそうなってるんだわ」って言うんですね。
でもですよ、
そのあと彼女は同じ身分に身をやつす事になるその時「これで物知らずになったらあの可哀想なメイドと同じになっちゃうわ」って思ってるんですよ。
色んなとこありますけどもういっちょ例をば。
色んなとこありますけどもういっちょ例をば。
また前半部ナチュラルに6ペンスその辺の貧しい子供に施してたセーラ。
後半部では逆に裕福な子供から施される場面があるんですけど、
そこで彼女は「昔自分が貧しいと思った子供(=物乞い)と今の自分は同じに見えてるんだ」と思い「顔が赤くなってそれから青ざめて」涙を浮かべるんです。
ええ、「偶然私はいいパパ(能力/お金/生活水準)をもってるだけなの♡本質的にはあなたたちと変わらないわ♡」って言ってる割りに、同じ立場になるのは絶対に嫌みたいですね。
要するに、その「偶然もっているモノ」の強さを、彼女は良くも悪くももの凄く理解しているってことなんですよ。
そしてそれが偶然であるからこそ、もっている者はもっていない者に施す義務がある、考えている。
そこで彼女は「昔自分が貧しいと思った子供(=物乞い)と今の自分は同じに見えてるんだ」と思い「顔が赤くなってそれから青ざめて」涙を浮かべるんです。
ええ、「偶然私はいいパパ(能力/お金/生活水準)をもってるだけなの♡本質的にはあなたたちと変わらないわ♡」って言ってる割りに、同じ立場になるのは絶対に嫌みたいですね。
要するに、その「偶然もっているモノ」の強さを、彼女は良くも悪くももの凄く理解しているってことなんですよ。
そしてそれが偶然であるからこそ、もっている者はもっていない者に施す義務がある、考えている。
だから彼女はナチュラルの6ペンスを施すわけだし、頭の良くない友達に勉強を教えているわけですね。
でもこの「施す」行為って、持っている者がその主観によって、持っていない者を持っていない者と決めつける行為でもあるんじゃないですか?
その人が持っていても持っていなくても、「施し」をされる事それだけで、その対象は「持っていない者」の烙印を押される事になる、と思うんですよ。
だからセーラは、自分を「持っている者」だと思っているから、
本来「持っていない者」への行為であるはずの「施し」を受けたときに涙を浮かべてしまう。
そもそもこの「持っている者」と「持っていない者」の断絶、というか「持っていない者」への拒絶、というか、なんだろ、「持っていない者」への差別的な視線?絶対こうはなりたくないわっていう根底の思想があるからこそ、小公女は彼らに「施す」わけです。
こういう行為が作品内で賛美されているのが、すごく嫌なんですね。
セーラは下働きメイドに成り果てながら、
最後まで「あたし本当は下働きメイドじゃないもの」って思ってるんですよ。
さっきの「なんにも変わらないの」はどこいったんだ?明らかに君「持たざる者」を見下してるじゃないか、って思ってしまうわけです。
そしてその考えを正す事無く、最終的に奇跡的な偶然によってセーラはパパの親友に引き取られ財産を手に入れるわけなんですが……そうなんですね。
奴は下働きメイドは確かに頑張ってたんですけど、自らのその選民思想みたいなものを改めることなく、また偶然によって幸せを得るわけなんです。
「最悪の事態の寸前まで行くと必ず何かが起きるの。まるで魔法みたいね。それを忘れなければ、最悪な自体には決してならないのよ」
って彼女は言ってるんですけど、ええ、最近エセ作家として活動している身としてこやつを最悪のどん底に落としめてやりたいですね。自分の力で這い上がってこいや
端的に言うと、俗にいう「鼻につく」ってやつです。
「持たざる者」に属しているのにも関わらずそれを認めたくない者筆頭の私からすれば、それは、まさに「鼻につく」って奴なんですね。
端的に言うと、俗にいう「鼻につく」ってやつです。
「持たざる者」に属しているのにも関わらずそれを認めたくない者筆頭の私からすれば、それは、まさに「鼻につく」って奴なんですね。
「もっている者」が「持っていない者」にひたすら「お前はなんにも持ってないからもっているあたしが施してあげる」っていっているように思えてしまうわけです。ですので、多分これはめちゃめちゃ個人的なあれです。
セーラは本当の意味でなんでも持っているんですね。読んでてわかるように。
セーラは本当の意味でなんでも持っているんですね。読んでてわかるように。
この作品がご都合主義だ~って言われてるのも、
結局最後の「魔法」、幸運がセーラが生来「持っていたモノ(運)」っていう要素に回収されてるから、尚更ご都合主義だって見えてしまうのがあると思うんです。
というかそもそも私はボランティアとか嫌いなんですよね。
おんなじ理屈で、それって、そんな気持ちでやるのって、失礼なんじゃねえのって、凄く思ってしまうんですよ。
まーやらないよかやるほうが数倍マシだってことも、わかってはいるつもりですよ。
そんなぼくですが、作中ひとりだけ好きな登場人物がいるんですね。
好きな登場人物というか……セーラとやってることは同じなのに、それでいて嫌なものを感じない人物、その行為。
パン屋のおばさんです。
セーラが最高にひもじくて「道端にお金落ちてて、顔を上げればパン屋があって、きっと出来たてのパン屋があるのよ……」って空想したらまじでお金落ちててパン屋があったあの下りに出てくるパン屋のおばさんです。
セーラは落ちてたお金でパンを買うんですけど、パン屋の近くに居た乞食同然の少女を見て「わたしはあの子ほどお腹が空いて死にそうな状態じゃないわ」と思うんです。
そして持ってたパンをほとんどあげちゃいました。
でもその様子をパン屋のおばさん見てたんですよ。
「あの子だって腹ペコだったはずなのに、あんたにほとんどあげちゃったのかい?」
少女は頷きます。
「まったく、なんて子だい。……あんた、ひもじくなったらアタシの店に来なさい。パンくらいあげるから」
そうしてこう続けるんですね。
「言っとくけどアンタのためじゃないよ。あの子がアンタを助けたからだよ」
これです
これが素晴らしいんです。
パン屋のおばさんは、少女のために「施し」を申し入れたんじゃないんですよ。
自分のためです。正確に言うなれば、「セーラが少女を助けたのを見ていたから」。
ここには無意識の押し付けがましさがないんですよ。
だって最初から押し付けがましいのがわかっていて、でもそれが結果的に相手の助けになることをわかった上で、「施し」を与えるんですから。
これです。
だからわたしはおばさんが好きです。
大体「施す」行為なんてエゴの塊みたいなもんなんですよ。それなのに「相手のため」って誤魔化してるから――あえて言葉を選ばずに言えば――気持ち悪いんです。
結局相手のことなんて全く考えてないじゃないですか。
別にそれ自体はわるかないです。問題はそれに蓋をして、相手に責任をなすりつけてるその点です。
パン屋のおばさんはあくまで自分のエゴのために動いたんです。
だから良いんです。そこには気持ち悪さがない。
例えこのエピソードが「セーラの啓蒙によっておばさんも施しの精神を宿す」っていうために書かれたものだとしても、
おばさんは「ああ、なんてかわいそうなこなんだい、これでもお食べ、私とアンタは何にもかわらんのだからね」とか言ってるわけじゃないです。
要するにおばさんの言葉には嘘がないんです。
だから好きです。よいです。唯一の良心です。パン食べたい。