紅莉栖は困惑する岡部のことを一切意に介さず、レスキネン教授と話す。そして、話が終わると、彼女は強引に岡部の手を引き、タクシーに押し込む。
そうして岡部は訳も分からないまま車に揺られていると、都内でありながらまるで学校の校舎のような大きなビルの前に着く。岡部はタクシーを降り、不思議そうな表情でビルを見上げながら呟いた。

「な、なんだここは…………?」

あっけにとられている岡部の横に、紅莉栖が並び立って問いに答える。

「ウチと懇意にしてる大学病院よ。」

「病院だって?
………………なんだってこんな所に………………」

「いいから。ついて来て。」

紅莉栖の表情には、決して譲れない意思が浮かんでいた。それを見た岡部は、息を飲むしかなかった。ビクトルコンドリアで研究に励んでいる時の紅莉栖はこんな感じなのだろう。反論を挟む隙間など皆目見当たらない。

「お、おい………………何をしようとしてるのか分からんが、こんな夜に突然…………本当に大丈夫なのか?」
 
まるで必死に絞り出したような岡部の問いに、紅莉栖は前を向いて歩きながら答える。

「ここの病院、ウチの大学と提携してるの。理事長はウチの教授に借りがあって、頭が上がらないらしいわ。
…………もう既に話は通してあるから大丈夫。」

紅莉栖はそう言いながら救急搬送口の守衛に声を掛け、そそくさと病院へと入って行った。

 
強引な紅莉栖に引かれ、岡部は抗うこともできず、ただその後を追って病院の中を歩いていく。そうして辿り着いた部屋の真ん中には、岡部にとって見慣れない、巨大な機械が置いてあり、ただ茫然とした表情で立ち尽くす。まるで横向きに置いたバームクーヘンのような円柱の機械。その真ん中には、人が一人入れるくらいの穴が開いている。

「こ、これって…………」   

「MRIよ。まぁ、知らないのも無理ないわ。病気になったり怪我でもしないとこれで検査する機会ってないものね。」

「聞いたことはあるが……もしかしてこれで、俺の頭を調べるのか……?」

「そう。リーディングシュタイナーは先天的な脳の疾患って可能性は十分考えられる。もし、これで何かが見つかれば…………過去を改変しなくても医学の治療で世界線移動を食い止められるかも知れない。」 

「脳の疾患って……まさか、そんな………………」 

「あくまで可能性の話よ。とにかく調べてみないことには何も出来ないでしょう?」

紅莉栖はそう言いながら、部屋の傍らにある検査着を手に取って岡部に手渡す。

「さっ…………これに着替えて。ネックレスとかピアスはしてなかったわよね?何か金属類を身につけてるようだったら外しておいて。」

「え、あ、ああ…………だけどお前…………こんな機械の操作出来るのか?」

「当然でショ?私の専門が何だと思ってるの?
それに、ここにあるのはビクトルコンドリアで使っているのと同じ型だから問題ないわ。」

「そ、そうか…………」  

岡部はすっかり観念して白衣を脱ぎ出す。そして紅莉栖は、部屋の奥にあるもう一つの部屋に入っていった。岡部が検査着に着替え終わると、室内のスピーカーから紅莉栖の声が流れた。彼女の指示に従い、岡部はMRIのベッドに横たわり、検査が始まった。
検査は約5分で終わり、着替えを済ませると、紅莉栖のいる部屋に入るよう指示された。操作室は狭く、5畳ほどのスペースに細長いデスクが置かれており、その上には4台の液晶モニターと見慣れない機材が並んでいた。紅莉栖はモニターを見つめながら機材を操作し、ふと話しかけた。
  
「本当は、一般人はここに入れないのよ?とりあえず、横に座って。」

「あ、ああ。」

岡部は困惑しつつも、紅莉栖の隣に座り、彼女の作業に見入っていた。やがて、モニターには岡部の脳の断面図が映し出される。

「これが…………俺の頭の中なのか?」

眉をひそめる岡部だったが、紅莉栖は意に介さず、マウスを操作しながら断面図をじっと見つめる。

「自分の脳を見るって……変な感じよね。」

「そうだな……」

紅莉栖は目を見開き、モニターに映し出される岡部の脳内を集中して調べていた。深夜の静かな部屋に響くのは、カチカチというマウスのクリック音だけ。岡部は紅莉栖の邪魔をしないよう黙ったままモニターを見ていたが、ふと紅莉栖の方へ視線を移す。彼女の表情は、今まで見たことがないほど真剣で、岡部の脳を必死に探っていた。その姿に岡部の胸は少しだけチクリと痛む。

紅莉栖が自分を心から心配し、犠牲を払ってでも守りたいと思っている。そんな感情が紅莉栖の横顔から伝わってくる。岡部は思わず両手を握りしめ、深く息をついた。その瞬間、不意に紅莉栖の声が耳に響き、岡部ははっと我に返る。

「異常は…………見当たらないわね…………海馬も綺麗。いかにも10代って感じの健康な脳よ。」

「そうか…………良かった。」

「これで、リーディングシュタイナーの暴走の原因が脳疾患ではないことがわかったわね。」

「なら、やはり過去に戻らないと…………」

「まだよ。」

「え?」

「まだ……やれることはある。」



そして、紅莉栖は岡部の血液を採取して調べる。同時にアレルギー検査も行い、岡部の身体になにか異常はないか、リーディングシュタイナーの暴走を止めるヒントはないのか、血眼になって調べた。だが、こちらもMRIと同様に目立った異常を見つける事は出来なかった。岡部の身体は10代の若者らしく、健康そのものだ。
紅莉栖はプリントアウトした検査結果をじっと見つめ、静かに採血室のドアを開けた。病院の灯りはすでに消え、廊下は薄暗かったが、採血室の明かりが一筋の光となって廊下をぼんやり照らしていた。そして、その廊下に置かれたベンチソファーに座る岡部の横へと何も言わずに腰を下ろした。

「それで、どうだったんだ?」

岡部の問いかけに、紅莉栖は深くため息をつく。岡部が健康であることは喜ばしいはずなのに、暴走の手掛かりが見つからないという事実が、胸の奥にじわりと重いものを残していた。
  
「問題なし。まるで健康体の見本のような数値だわ。」 

「それは良かったが…………これからどうするんだ?異常がないのなら、もうここにいる理由はないだろう?」

岡部の言葉に紅莉栖は検査結果の用紙を折りたたんでポケットにしまうと、岡部の顔を一瞥してから口を開いた。

「目に見える異常が見つからなかっただけ。まだ始発まで時間はあるんだから。」

紅莉栖はそう言うと立ち上がって廊下を歩きだした。岡部は何も言わずに紅莉栖の背中を見ていたが、固くなで必死な紅莉栖の姿を見て、もう逆らう気持ちはなかった。そして、両手を白衣のポケットに入れ、紅莉栖の背中を追うように歩き出した。


次に紅莉栖は薬局に足を運び、棚に並ぶ大量の薬を一つ一つ手に取り、慎重に吟味しながら見つめていた。そして、携帯を片手に効能や飲み合わせ、自分の知識にない薬などを調べつつ、候補を選び出して行く。
そうして小一時間ほど選定作業を続け、ようやく納得のいく組み合わせを見つけた紅莉栖は、岡部の元へと薬を持って行った。採血室と同じように、薬局のぼんやりとした灯りが、待合室を静かに照らしていた。その誰もいないソファーたちの中で座る岡部の隣に座ると、ペットボトルの水と一緒に種類も様々な複数の錠剤を岡部に差し出した。

「お待たせ。これ、飲んでみて。」

紅莉栖に言われるまま薬を手に取ると、岡部は少しだけ困惑の表情を浮かべる。

「これは一体…………なんの薬なんだ?」

「一つ一つ説明すると長くなるけど…………要は抗鬱剤と精神安定剤よ。」  

「鬱ってお前…………」

「目に見える異常がない以上、後は精神や神経的な所を疑うしかないでしょ。本当は他にも飲ませたい薬があって迷ったんだけど…………いっぺんに全部飲んでもらう訳にもいかないし
…………」

「そうか…………」

岡部は手のひらにある数種類の薬をしばらくの間じっと見つめる。このまま何も言わず、紅莉栖の言う通りにしていていいのかと少しだけ感じるが、自分の為にここまでしてくれた紅莉栖に対して今更この薬を飲まないと言う選択肢はない。岡部はしばらく薬を見つめていたが、紅莉栖の思いを受け止め、無言で薬を飲んだ。そして、ペットボトルを横に置くと深く息をつき、両肘を膝の上に置いて何も言わずに宙を見つめた。紅莉栖は、そんな岡部の様子をじっと見つめながら口を開く。

「薬の副作用で恐らく眠くなるわ。時間も時間だしね。もし……眠くなったらそのまま横になって。ちゃんと起こしてあげるから。」
 
「確かに、少しぼーっとして来たような…………」

「ちょっと強めの薬だから…………健康で薬を飲みなれてない人が飲むと余計に効くのよね。」

「……………………」 

岡部は何も言わず、前を向いたまま背もたれに深く体を預ける。紅莉栖は、そんな岡部の横顔を見ていると胸が締め付けられるような感覚に襲われ、思わず自分の胸に手を当てて前を向いた。そして、一つ息をついてからゆっくりとその口を開く。

「ねぇ………………」

「ん?」

「あのね…………私、タイムリープしたら…………きっと岡部は凄く怒るんだろうなって思ってた。自分が消えちゃうことなんかより、周りの仲間たちがタイムリープマシンを使う方がずっと嫌なんだろうなって…………」
 
「そうだな。」

岡部はそう言いながら、言いかけた別の言葉を飲み込む。 『もし、これで俺が消えてしまったら、もう俺の事は忘れてタイムリープをするな。』この言葉を紅莉栖に言っておかねばならない。強くそう感じるが、公園での紅莉栖の言葉と、ここへ来てからの必死な紅莉栖の姿が岡部の口を重くしていた。しかし、α世界戦をさまよっていた時の苦い思い出も同時に浮かんでくる。あの地獄のような思いを大切な紅莉栖にさせたくない。そうして、岡部は意を決して紅莉栖の方へと視線を向けると、思わず息を飲んだ。薬局のから漏れる光に薄く照らされた紅莉栖の頬に、一筋の涙がこぼれる様に流れ落ちていた。岡部はそんな紅莉栖を前に、何も言えずただ見つめていると、紅莉栖は前を向いたまま、涙を拭おうともせず、静かに言葉をつむいで行く。

「ごめんなさい………………
私………………岡部がアメリカに来た時からずっと…………岡部の気持ちを分かっていたのに。あの時のことを忘れようと悩んで…………苦しんでいるって分かっているのに。
なのに…………なのに私…………そんな岡部の気持ちを知っていながら…………それを無視してまでタイムリープしてここに来たっていうのに………………
………………こんなこと位しか…………岡部にしてあげられない……………………」 
 
「紅莉栖…………」 

紅莉栖の悲痛な言葉に岡部は切なそうな表情を浮かべる。するとその時、岡部の視界に映る紅莉栖の姿が霞んで見えた。薬の副作用なのか、急激な眠気が岡部を襲っていた。岡部は自分の眉間を手で摘まんで眠気をこらえようとしながら再び話し出す。

「紅莉栖……お前がタイムリープしたことは…………確かに………………でも…………………………………………

俺は………………お前の………………………………………………

気持ち…………………………」 

必死に話す岡部だったが、視界がぼんやりと霞み、瞼が重くなっていく。一方で紅莉栖は、涙に濡れた顔を岡部に見せたくなくて前を向いたまま聞いていた。しかし、岡部の話が途中で途切れた事を不審に思って岡部の方へと顔を向けようとしたその時。
紅莉栖の肩にずしりと重い何かが乗った感覚に襲われた。それが何なのか、頭より先に紅莉栖の胸の鼓動が教えてくれる。

「お…………かべ…………?」

紅莉栖がそう言ったその時、岡部の髪の香りが鼻に突き抜け、更にその胸の鼓動が高鳴る。そして、「すぅ、すぅ」と岡部の寝息が聞こえて来た。そして、全身の力の抜けた岡部はそのまま紅莉栖の膝の上へと倒れ込んだ。

「ひゃっ!?」

紅莉栖は思わず悲鳴のような声を上げるが、慌てて手でその口を塞ぐ。気が付けば、岡部は紅莉栖の膝の上で子供の様に眠っていた。あまりに唐突な出来事に紅莉栖の頭は混乱するが、穏やかに眠る岡部の横顔を見ていると少しずつ安堵の気持ちが湧いて来る。

静寂に包まれた深夜の病院の中、岡部の寝息だけが紅莉栖の耳に優しく聞こえていた。陽が昇れば岡部はまた消えてしまうかも知れない。不安な気持ちは常に紅莉栖の心の中にこびりつくようにしているが、紅莉栖は自分でも気づかず、優しく穏やかな表情で岡部の横顔をずっと見つめていた。


そうして、次第に辺りは明るくなり、少しずつ病院内に人の姿が現れ出した。そんな周囲の喧騒に包まれながらも、岡部は紅莉栖の膝の上で眠り続けている。紅莉栖は往来する人々の視線など気にも止めず、一睡もしないで岡部の顔を見守り続けていた。まるで、二人のいる場所だけこの世界から隔離されているかのように、周りとは違う穏やかな空気に包まれていた。

「う、う~~~ん…………」 

不意に岡部が呻くような声を上げる。岡部は深い眠りから覚めようとしていた。紅莉栖の膝の上で背を向けて眠っていた岡部は、ゆっくりとその瞳を開く。しかし、薬の影響で頭がぼーっとして、ここが何処なのか、どうしてここにいるのか理解できない。

「岡部…………」

囁くような紅莉栖の声の方へと岡部は顔を向けるが、まさか自分が紅莉栖の膝で寝ているとは気づかずににこりと微笑む。

「紅莉栖…………どうやら眠ってしまったみたいだな…………」

「そうよ。ちょっと薬が強かったみたいね。どう?気持ち悪かったりしてない?」

「ああ。大丈夫だ。…………だが、眠る前の記憶が曖昧なんだ。お前に何か言わなくてはならなかったような気がするんだが…………………………」

「何を言おうとしてたの?…………思い出せたら話して。」

「う~~~~ん……………………………………どうしても言っておきたかったんだが………………」

岡部は手のひらを両目に当てて眉をしかめる。そして、少しの間考え込むと、その手を放して再び紅莉栖の顔を見た。

「思い出せないが………………少しだけ…………その時どんな気持ちだったかは浮かんで来るんだ。」

紅莉栖はただ静かに彼の顔を見つめる。岡部の視線は一瞬だけ宙を彷徨い、何かを言おうと口を開きかけては閉じた。まるで、自分の中にある何かを言葉にしようとするが、それがどこかで引っかかっているかのように。

「そう………………それで……どんな気持ちだったの?」

「その時…………俺は……」

岡部の言葉そこで言葉を止め、ゆっくりと息を吸い込み、紅莉栖の顔をじっと見つめる。その瞳には、どうしても伝えたいその言葉を必死に探そうとする切実さが宿っていた。
岡部は眉を寄せて、紅莉栖の膝の上で少し身を起こした。深く息を吸い、言葉を探すように一瞬目を閉じる。紅莉栖はその様子をただ静かに見つめる。病院の雑踏から隔離されたかのようなこの静寂の中、二人の間に流れる空気が、時が止まったように穏やかに感じられる。岡部はその全てを思い出すのは無理だと感じ、少しだけ首を左右に振るとゆっくりとその瞳を開け、紅莉栖が今まで見たことがない位優しく微笑んだ。

「紅莉栖……」

岡部が口を開く。その声は優しく、そして切なくもあったが、岡部の本心が込められているのを感じさせられる。そして、少しだけ口を紡ぐと大きく息をついてから再びその思いを告げる。

「………………………………ありがとう。」

「え………………」

その言葉を聞くや否や、紅莉栖の胸に熱い感情が抑えきれず湧き上がって来る。岡部の言葉は、まるで時間が止まったかのように静かに、しかし強烈に響いた。目の前の岡部が言いたくても言えなかった部分もその一言で感じ取れる。それは紅莉栖にとって鮮烈な物だった。そして、それに呼応するように目頭にも熱が帯びて行くのを感じたその時。
紅莉栖の頭に、もう何度も味わったあの不快感が強く襲ってきた。頭の中をかき回されるようなその不快感に、無意識に頭に手を当てて一瞬だけ瞳を閉じる。そして、再び目を開けると、膝の上にいたはずの岡部の姿はそこに無かった。膝の上の重さも、その温もりも、その場の空気も。初めからなかったように跡かたなく消え去っている。

「う……………………うぅ……………………」

ショートパンツからすらりと伸びた、黒いストッキングに覆われた太ももの上に、ぽたぽたと涙の雫が落ちていく。言葉では説明できそうもない程の絶望と悲しみ。そしてどうしようも無い無力感。紅莉栖の胸は今まで感じた事のない程に締め付けられ、まるでそこから絞り出されたように涙の雫がとめどなく溢れて行った。無駄な抵抗だと知りながら両手を顔にあてがうが、その肩は小刻みに震え、嗚咽を抑えることは出来なかった。

「うう…………うぅぅ………………ふぐっ……………………岡部……………………岡部…………………………」

紅莉栖はただ岡部の名前を繰り返し、涙を流す。沢山の人が行きかう病院の中、紅莉栖はまるでこの世界に自分しかいないかのように。だた、自分を律せず、溢れ出る感情をそのままに泣き続けた。
そして、次第にその肩の震えは収まり、紅莉栖は立ち上がる。暗く沈んだ表情のままだったが、その瞳はまっすぐに前を見つめ、静かに歩き出すのだった。


そこから、紅莉栖はα世界線の岡部のように、時間の輪の中に囚われて行った。ラボに戻って再びタイムリープマシンを作り、昨夜へと戻っては岡部と同じやりとりを繰り返し、病院で様々な薬を処方する。時には病室で点滴を打ったり、まゆりの祖母の墓の前で薬を飲ませたりもした。試したい薬は多岐に渡り、一度飲んだ薬でもその分量も変えたり、薬同士の組み合わせも様々だった。紅莉栖が考える全てを試すとしたら、試行回数は何十回にも及ぶだろう。紅莉栖は岡部を救うため、出来ることは全てやると心に決めていた。だが、同じ夜を繰り返せば繰り返す程、公園で聞いた岡部の言葉が頭の中で大きく響いて来る。

『…………何度も…………何度も何度も何度も!!
…………全ての犠牲の責を負い、それでも繰り返さなければいけない苦しみが分かるか?…………その中で心が摩耗し、人としての感情が無くなっていく恐ろしさが分かるか?』

この言葉が聞こえる度、まるで無理やり耳を塞ぐように首を振り、また過去へと戻る。何度も何度も。そうしてやり直そうとする度、紅莉栖の心は壊れていく。最初はこのままではいけないという責任感や岡部に対しての哀れみとも言える感情、そして何より岡部と離れたくないと言う紅莉栖の中にある恋心が背中を押していた。しかし、繰り返せば繰り返すほど、紅莉栖の心はまるで、そういった感情がまるで古いメッキが剥がれ落ちていく様にぽろぽろと欠け落ちて行った。それはまるで、感情を持たない機械になって行くような感覚。アマデウスだった、人としての感情を押し殺していたあの頃のように。

そして。
もう何度過去へと戻ったか、その回数すら分からなくなった頃。紅莉栖は満身創痍の身体を引きずるようにしてラボのドアを開けた。

そこには、見慣れた光景が広がっている。
橋田にまゆり、そして白衣を纏った岡部倫太郎が愛飲しているドクトルペッパーを持って立っていた。

「岡部…………」

蚊の鳴くようなか細い声で紅莉栖が岡部の名を呼ぶと、岡部は切なげな表情で紅莉栖の方へ振り向く。

「紅莉栖…………」

岡部がそう答えた瞬間。
紅莉栖の目の前から岡部倫太郎は消え去り、手に持っていたドクトルペッパーが床へと落ちた。

「うわぁぁあああ〜〜〜!まゆしぃティッシュ!ティッシュ早く!」

「ふぁ〜〜〜……ふぁ〜〜ああい!
ティッシュ、ティッシュ…………」

「そこそこ〜!」

この光景を何度みたことだろう。紅莉栖は膝に力が入らなくなって行き、その場にへたり込むように座る。
そして、そのまま前のめりに倒れ込んだ。
すると、その様子に気づいたまゆりが慌てて駆け寄って来た。

「ふぁ!?ちょっと?紅莉栖ちゃん?どうしちゃったの??」

まゆりの声にダルも床を拭く手を止めて紅莉栖の元へとやって来た。

「ちょ、牧瀬氏?ど、どうしたん?どっか具合悪いん?」

「ダルくんどうしよ〜?紅莉栖ちゃん倒れちゃったよ〜〜〜」

「きゅ、救急車呼ぶ?取り敢えず熱あるか見た方が…………」

慌てて話し合う2人の声を聞きながら、紅莉栖は大粒の涙を床にこぼした。

ーー心が…………………………

……………………

壊れる……………………………………ーー


その日、紅莉栖はタイムリープマシンを作らなかった。決して岡部の事を諦めた訳ではなかったが、心の傷は限界を迎えていた。自分の身を案ずるまゆりとダルに、「大丈夫よ…………」と一言だけ告げ、ラボを後にする。そして、ホテルに帰るでもなく、行先もなく彷徨うように秋葉原の街を歩いていた。
しかし、淀んだ紅莉栖の心が晴れることはない。それどころか逆に、岡部と過ごした日々が次々と頭に浮かんでくる。β世界線でアマデウスだった時、携帯の中から岡部に秋葉原の街並みを見せてもらった時のこと。そして、退院した岡部と手をつないでこの街を歩いた時のこと。その全てが紅莉栖にとってかけがえのない思い出だった。何処にいても、何をしてもその胸は悲しく、そして切なく締め付けられていく。それを抗う術を持たない今の紅莉栖の頬には、一滴の涙がこぼれていた。
晴れた昼下がり、沢山の人が行き交う街の中。紅莉栖はついに立ち止まると両手を顔に当て、歩道の真ん中でその肩を小さく震わせていた。


AD2011.08.06 10:11:08:59

前の晩、紅莉栖は一睡も出来なかった。私服のままホテルのベッドの上で膝を立てて座り、そこに顎を乗せて何もない壁を見つめる。時折まゆりやダルから携帯電話へ着信があったが、出る気力すらなかった。自分の無力に腹を立て、α世界線での岡部の味わったであろう辛さを実感してその度に涙を流す。もう過去へと戻れる精神状態ではない。それを痛感していたが、認めることだけは心の奥底にかろうじて残っていた気力が拒否していた。そうして日が昇り、しばらく経った頃、無意識に立ち上がると部屋のドアを開けてフラフラと外へと歩き出した。

ラボへ行ったところで今の自分に何が出来るのか。もう全てを諦めてしまった方がいいのではないか。それを岡部も望んでいる。そんな気持ちが沸いては消えて行く。そしてその都度、病院で見た岡部の優しい笑顔と「ありがとう」の言葉が脳裏に浮かんだ。同時にその思い出が、かろうじて紅莉栖の足を前へと動かす原動力となっていた。

そして、ラボの前の路地へと辿り着いたその時だった。

立ち並んだ小さな雑居ビルの隙間から踊り出す人影が見えた。その人物を見た瞬間、紅莉栖は心臓が止まるような感覚に襲われて思わず息を飲む。そして、無意識にその口を開いた。

「お…………岡部!!」

岡部が視界に入った瞬間、紅莉栖の心臓は一瞬止まったように感じた。まるで世界が一瞬、静止したかのように音が消え、彼女の全神経が岡部の姿に集中した。足元がふらつき、視界がぐにゃりと歪む。

――まさか……――

心の中で何度も否定するが、目の前にいるのは確かに岡部だった。胸が締め付けられるような感覚に息が詰まる。「夢なのか……幻影なのか……?」彼女の頭は混乱し、理性が追いつかない。ただ、目の前に立つ岡部の姿を見つめることしかできなかった。

「良かった………………やっぱり日本にいたんだな。この時期はいつも日本に戻ってるって比屋定さんが言っていたから、ここできっと会えると思ってた。」

「え………………?」

「お前は………………β世界線の事を知っているのか?アマデウスだった時の記憶はあるのか?」

紅莉栖は岡部の言葉がまるで夢の中で聞いているようにぼんやりと響き、頭の中では混乱が渦巻く。ただその目を丸く開き、岡部の顔を見つめていると、岡部は真剣な表情で再び話し出した。

「紅莉栖……」

岡部は言葉を詰まらせ、彼女の顔をまじまじと見つめた。一瞬、口を開いたが何も言えず、深く息を吸い込む。そして、意を決してその口を開いた。

「……落ち着いて聞いてくれ。
…………俺たちは……………………β世界線から来たんだ………………」

「べ………………β………………世界線……………………?」

紅莉栖は何が起こっているのか把握できない。ただひたすら困惑し、岡部の姿に見入っていると、ふと岡部の後ろに人影が見えた。ゆっくりとその人物が前に出てきた時、紅莉栖は目を見開いた。それは真帆だった。真帆の顔には驚きと感動が交錯し、その瞳には今にも溢れんばかりの涙で濡れていた。

「紅莉栖………………本当に………………この世界線では……生きて……いるのね…………」

真帆の声は震え、その声を合図にするかのように涙が次々とこぼれ落ちた。

「先輩………………?どうして………………いつ日本に…………帰って来たんですか…………………………?」

紅莉栖は岡部と真帆が急に現れた驚きと共に、普通ではないその様子にますます混乱して胸に手を当てて息を飲む。
それまで支配されていた重い感情など全て吹き飛び、ぽかんとその口を開け、二人の顔を交互に見つめていた。