先日の久々のブログを更新、しかも父の事で更新して…
その後色々考えていました。
父の事が大嫌いだったのに、前回のブログでは父を許せなかった自分が父の死によって、今までの行いも全て許せていったのかは伝えてはいなかったので…
自分自身でも釈然としませんでした。

今現在の自分の考えではありますが…
やはり父の行いに関しては許すことは今現在の未熟な自分には出来てはいないです。
亡くなって気付いた事とはまた別の感情や別件みたいな心境ですね。
亡くなったからといって、それで全てオールオーケーで、全てリセットで許されて全て流されるわけではありません。
それはそれ、これはこれ、みたいな😅
やはり父の一部の行いに関しては今でも全てを受け入れたり許すまでには至ってはいません。
私自身が未熟故にだとは思います。
もしまた同じような状況があったならば多分怒りまくると思いますから…
その事を考えていたら…思ったのです。

「私は父に愛されていなかった」
という事に。

生前の父は…自分大好き他人大好き…だったので、勿論家族に対しても決して悪い印象だけではなく、「父自身で(自身ではなく他人に力を借りたりも多々ありましたが)協力出来ると判断した事に関しては」快く、言い方が悪ければ安請け合いするという言葉が似合う程の素敵な父でした。(ちょっと嫌味くさいですね(笑))
そんな父の事をあれこれ考えていたら…気付いたんです。

「あっ、私は本当には愛されてはいなかったんだ」って。

振り返ってみれば確かに勿論心配や配慮はありましたが…
両親がいて本当にワガママだとは思うのですが…
世間体も何にも関係なく心底私を心配してとか、愛して故のとか…私に響くような気持ちや言葉や行動を感じる事はあまりなかったように思います。
もし心底私を思って心配してくれるのであれば、いくらなんでも心に響くものは確実にあり、たとえ反発しても、その後に後悔の念も出てくると思うのですが…
そこで初めて思いました。
「父に愛されてなかったから、あれだけの拒絶とそして辛いという感情しかなかったんだ」って。
(しかしそれは言い訳なのかもしれません)

「父に心の底から純粋に愛されて心配されたかった」と。
それに気づいたら泣けてきて…。
でもね、また気付いたのです。
「同じように父も思っていたのではないのか?」という事に。
人間はどうしても、自分ばかりが相手に求めてしまう生き物になりがちですが…
自分が欲しいものは相手も欲しいわけで…
私は父に、私や家族に対して心から愛されているという実感が欲しかったのに実感出来なくて…
だから許せなくて…
でも父も同じ気持ちだったのではないかと今は思います。
いくらどんなに愛したくても、突き放されたままなら愛するにも充分に愛を届ける事は出来ない。
それって相当辛い事だと思います…。
歩み寄っても拒まれるんです…。
本当に苦痛だと思います…。
私はまだ父のこれまでを許す事は出来ていません。
しかし…また別の許し、気付き、謝罪の気持ちが出てきました。
多分これから先々色々人生経験していく中で、父に関しての思いや感情も変化していくのだと思います。
命をかけ父から出された課題は深く重く、私はこれから歩んでいく限りある人生の中で、その時々の色々な答えを探して自身に問いかけ見つけていくのだと思います。
最終的にどんな答えにたどり着けるのかな?
いつか父を心から称えられる自分になりたいです。

長い文章を最後までありがとうございましたm(__)m
このようにほぼ更新しないブログに訪れて読んでくださり、読者登録までしてくださる方々がいて心より感謝致しますm(__)m
最近…というか、去年から自分にとっては大きな出来事がありまして…
まずは父の死です。
父が亡くなってから早一年経ちました。
突然の事故でした。
あまりに急な事で、父の捜索に始まり…発見の連絡…そこからもバタバタでして、正直事態を受け入れる時間もなく遺体に対面し、火葬、葬式…

…私は父が心の底から嫌いでした。
生きている時には父がもし死んだとしても泣かないと本気で思っていました。
他人だけに愛想良く、自分の事だけ、家族の事など全く考えなく、家族をネタに知られたくはない事も平気で周りに言いふらす。
仕事をしようという努力もしなく、好き勝手に毎日遊んで暮らし、何か言われようものならば適当に逃げるか逆ギレ。
何かに反省することがなく、言い訳を見つけてばかりで、今までの人生の中で、本気で内省する事などなかったのでは?とも思ってしまいます。
過去にはギャンブルで2度の借金。
その挙げ句、2度目に自殺未遂で出稼ぎ先の土地の警察から連絡があったり…
帰ってきてからも、己の過ちを反省することもなく…
時が経てば開き直る始末。
それから時も過ぎ、またやっとで仕事の為に出稼ぎに行った先で、まさかの無断で職場から逃げるという所業にもおよび…
もう話したら本当にきりがありません。

こんな父親でしたが、父が亡くなった事で気付いた事がありました。
一番の気付きで痛感した事は
「父親」という存在は、ただそこにいるだけで本当はありがたく、「父親」という存在によって私達家族は色んな事から守られて支えられていたんだという事を、父親の死によって心の底から気付かされました。
実際頼りになるかはさておいても、男の人が家に一人いるだけでも心強かったんだと気付きました。
私は父が生きている時に感謝も謝罪も出来ませんでしたが、皮肉なことに父の死によって色々気付かされ、初めて父にまともに頭を下げて素直に謝る事が出来ました。
亡くなってからちょこちょこ思います。
「こんな時に父がいたらな…」
「あれ?この話しは父に聞かないと分からないや…」
亡くなる前までは父の話しに耳を傾けず、つっけんどんな態度ばかりしていましが…
どうしてあの時ちゃんと父の話しに耳を傾けなかったんだろう…
何でもっとちゃんと父と向き合う事をしなかったのだろう…
今となれば、どんだけ願っても知るすべはありません…。
今願う事は、早く事故当時の苦しみや痛みや、今までの人生での辛さ、悲しみ、恨み辛み、虚しさ…
全てを手放して…
しかしせっかく辛い経験をしたのならば、それらの出来事を無駄にせずそこから学び、しっかりと魂の成長の糧にして、次のステージがあるのならば前を向いて進んでいってほしいと願います。
死んでからの事なんて分からないし、ただの普通の仏教徒ですが、死後の世界があるというのなら…
そして父と同様に、私達残された家族も、父の死を無駄にしないように、そうなってしまった事でしか学べない事はあると思うので、限りある人生の中で、悲しみだけではない、何かを見付けて、悩んで、気付き、学んでいく事が出来ればと思います。

最後まで読んでくださりありがとうございましたm(__)m
今回は?今回もかな?
ついつい思い付きでブログにしてしまいましたf(^_^;
現在世界では…、いや、ずっと世界中では争いが絶えないですよね。
人間ってなんて愚かなんだろうって心底思います。
勿論皆ではないですし素晴らしい人は沢山います。
ですが…
今の世の中、自分達の利益や欲望しか考えられない人が多すぎると感じます。
私が今のところ世界共通で、一番大切で必要な事だと感じている事があります。
身近な小さな喧嘩でも世界中で起きている大きな戦争でも。
何だと思いますか?
今のところ…ですが、私達人間に必要な事は「思いやり」なのではないかと思います。
全て相手に対する思いやりがあれば、今現在大なり小なり起こっている様々な悲しい出来事は未然に防げる事は沢山あるのではないのかと感じます。
「思いやり」には、学歴も環境も国も人種も立場も宗教も関係ありません。
皆同じ人間なんです。
しかし相手の気持ちを考えられない独り善がりで一方的な「思いやり」や「優しさ」は、ただの押し付けになってしまい本当の「思いやり」とは言えないですし、解釈は結局それも千差万別なので一概には言えなくはなりますが…。

人間同士の争い以外に現在環境破壊や汚染や飢餓など他にも数えきれない問題が山積みです。
先ずは私達は偉大なる自然の中で生かされて、限られた資源の中で生かされている事を忘れてはならないと思うのです。
もう自分達の利益や欲望だけ考えていればいい時代は既に終わったと気づくべき時なのではないのでしょうか?
…。
…そういう事は簡単なんです…。
結局「走り出した船は止まらない」事も今の世の中の仕組みや流れをみれば分かります。
色んなものが複雑に絡み合って今の社会の仕組みでこの世の中が成り立っているのですものね…。
良いことも本当はよろしくないことも…。
何かを得れば何かを失う。
例として仕事にしてもそうですよね。
機械化されれば便利になって製品は安くなるかもしれませんが、その分働き口がなくなったり。
色々考えると途方にくれるといいますか…答えが出せないのが本音です。

例えば…原発は反対です。
ですが電気に頼った生活に慣れすぎた自分には、電気が今までのように不便なく使用出来なくなる事へは不安や抵抗がやはりあります。
だから代わりの案もなしに、ただただむやみに反対するのもいかがなものなのかと疑問にも思うのです。
かといって100%誰にとっても完璧な答えはあり得ないので、どこかで線を引かなければいけないのも分かります。
このように自分の中にでさえ数えきれないは程の矛盾と愚かさと甘えを感じます。
自分だけでさえそうであれば…世界中で考えれば…本当に色々な人間がいて色々な価値観や考えがあるのに、皆が一つにまとまるわけはないのですよね…。
でもここで諦めたらダメ。
ダメなんですよ…。
…。
私達は矛盾の中に生きている事を忘れたらいけないし、地球という限られた自然、資源の中で生かされている事を忘れず、自然に生かされている私達にとって最善の策を皆で真剣に考える事が必要な時期ではないのかと思います。