精神科女医にゃんちょこブログ

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ADHD(注意欠陥性多動性障害)+境界性パーソナリティ障害を抱える精神科医にゃんちょこです。
当事者研究(じぶん研究)をすすめます。
世の中にあふれる情報や、私が勉強した経験の中からイイトコドリしてご紹介します。

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ご無沙汰しております。にゃんちょこです。生きています。

精神科医として、なんだかんだ研修にでたりとがんばっておりました。

 

“意識高い系”の同年代の精神科医にまじって、フツウの人の振りをしたりもしました。

そこでいろいろな人たちのモチベーションにふれて、感じたのは、「自分が何をしたいのか」を「一行で」表現できるようにまとめておくことの大切さです。

 

どんな場面でも、「何してる人なの?」というのは共通の話題です。

どんなに短い自己紹介でも、プレゼンテーションでも、交わされるコミュニケーションには意図があり、メッセージがあります。

 

自分を売り込む必要はないですが、「何が自分のオリジナルか」、「このコミュニケーションから何を得たいと思っているか」をクリアに言語化することができれば、同じ領域に興味がある人とつながるきっかけになるし、アピールするチャンスは一度きりしかありません。

 

そのような場面を複数経験して、「わたしは何がしたいのか?」を考えたとき、わたしの答えは「わたしが生きる」に尽きるのだということに気づきました。

 

有名になりたいわけでも、友達を増やしたいわけでも、お金持ちになりたいわけでもない。言ってしまえば、患者さんを治したいとも心の底から願っているわけではありません。

 

優先順位は常に「わたしが生きること」が一番で、それ以外は2番以下です。だからある人たちからすると、冷たい、やる気が無いなどと見えてしまうかもしれません。

でも、わたしにとっては根を詰めて仕事をしすぎて倒れてしまうことのほうがいやだし、すべてはわたしの生存戦略につながらなければいけません。

 

「わたしが生きる」ために、人とのつながりは必要だし、食っていくためにお金は必要だし、自己効力感を得るためにやりがいのある仕事は大切です。でもそのどれにもこだわる必要はなく、わたしが生きてさえいれば満足なのです。

 

このことに気がついて、ふわっと心が軽くなった気がしました。

 

わたしが生きるために必要のないコミュニケーションはとらなくていいし、エネルギーを割かなくていい。端から見れば異端だったり勿体無いかもしれないけれど、かまわない。

 

戦略的に生きていればいいのです。

 

この世の中はあまりにもフツウの「やりたいこと」を暴力的に押し付けてきて、考える余地や選択肢を与えない。

あたかもそんなもの最初から無いような振る舞いをする。

だからこそ不適応が生じたり、燃え尽きたりしてしまうと思うのです。

 

あなたが本当に何をしたいのか。

 

それさえわかっていれば、余計なものからは手を引いていいのです。

王道からそれることや前へならえの世界にさよならするのはとても不安だし後悔することもたくさんあると思うけれど、少なくとも意識的にひとつひとつの選択をしたことはあなたの財産になるし、同じ不安を経験している人間がここにひとりいることは覚えておいてもらえたら。

 

悩みを抱えておく力、弱くなっていると思います。

うたれ弱い、ストレス耐性が低い、などなど。

これはいまの新型うつにも通じるものがあると思うんですけれど、自分の中に葛藤を保っておけない。

耐えきれなくて、すぐ逃げたり、自分を罰したり、他人を攻撃したり。



すぐに満たされる、即物的な世界において育った子どもは、「満たされないとき」どうしたらいいか、わからない。知らない。

生まれたばかり赤ちゃんは、母親を失うことを知りません。
とにかく「おなかがすいた(=不快)」を、泣いたり手足をジタバタさせたりして表現し、お母さんがその信号を適切に受けとって、おっぱいをあげる。

これを繰り返していくうちに、「おっぱいをくれる良いお母さん」像が自分の心の中に作り出されていきます。
「自分が行動したことにより、空腹が満たされたのだ」という自己効力感も得ることができます。

体の成長とともに少しずつお母さんから離れていくことができるようになると、「現実世界のお母さん」がいなくても、「心の中のお母さん」がいるから大丈夫、と思えることが大切になってきます。
ここまで心が成長して、初めて子どもは「一人遊び」ができるようになるのです。



ところが、この「良いお母さん」像が心の中にできないうちに、お母さんが離れてしまったり何らかの制限を受けると、「現実世界のお母さん」にすがるしかなくなってしまいます。
お母さんの姿が見えなくなってしまうと、とたんに不安になり、そこから一歩も動けなくなってしまいます。


この「ひとり遊びの能力」が現代社会を生きるうえで大切だと思うのです。
それが、どこまでできあがっているか。

心の中に、じゅうぶん自分を肯定してくれる存在がいれば、世間から何を言われようと、揺らぐことはありません。そのまま”遊んで”いられる。

ところが、自分を無条件に満たしてくれる対象が心の中に出来上がっていなければ、現実の、即物的な安心や承認へ過度にこだわるようになってしまいます。
目の前の対象を守る(=自分が傷つかない)ために、それを奪おうとする他人を攻撃したり、奪われそうな場面をあえて回避したりします。
そして悲痛な努力空しく、それが失われたとき、途方もないダメージを受けてしまうのです。


ここで大切なのは、攻撃性や回避行動を、涙ぐましい防衛のためと理解し、そもそも自分を満たしてくれる存在がその人の心の中に出来上がっていないことを問題とすることです。

冒頭では、お母さんとの関係が重要と述べましたが、再び赤ちゃん時代からやりなおさなければいけないわけではありません。
お母さんや環境を責めるべきものでもありません。


治療者やパートナーとの関係の中で、その人が真に満たされる体験を作り、共有してあげること。

この作業を一歩一歩進めていくしかないと思います。


少しずつ、満たされる、安心できる関係がその人の心の中にもでき始めれば、その人は少しずつ、その安心した心を保ったまま、自分の足で離れていくことができるようになります。
「満たされない」状況に耐えることができるようになります。


なぜこうなってしまったか、犯人探しをするのではなく、「今その人の中で何が足りないのか」、「その人を行動に駆り立てている心は何なのか」探っていくお手伝いをしていきたいと思っています。







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傷つくこと
 
ふだん生活していて、傷つくこと。
傷つきっぱなしではもったいないので、少し対策を考える。
 
何よりもまずいちばんは、悪口。
これは、自分が言われている気になるから、なのでしょうか。
別にわたしは聖人君子ではないから、悪口を言われている本人に同情したり、擁護したりするつもりはさらさらありません(ここのあたりはとても冷たいと自分でも思う)。
単に、「自分は自分、他人は他人」という自分の境界線が揺らいでしまって、悪口を言われているのは自分ではないのに、まるで言われている本人と自分が同一になってしまったかのような気持ちになると考えています。

「サリー・アン・テスト」という心の理論を確かめる簡単な心理検査にもあるように、相手の立場になって考えること、抽象的に、他人同士の気持ちのやりとりを想像することが苦手です。
 
たいてい、自分が攻撃対象になっているときは、衝動性が高まって反撃をしてしまうので、他人同士の攻撃のやりとりを眺めているときとはだいぶ様子が違います。
どちらも精神力を消耗するのだけれどね。
 
この傷つきやすさが、発達障害のせいなのか、パーソナリティ障害のせいなのか、よくわからないしどちらも影響していることだと思うけれど、とにかくストレス耐性が低くくてかないませんな。

でも決してわたしが繊細で優しいから傷つきやすいのではないこと、よくわかってる。
だからこそ、自分を否定することなく、改善の余地があると思うんだ。

傷ついたときは、
「誰が傷つくべき文脈なのか。自分のこころの内にいれなくてよい痛みなのではないか?」
あたまで考えて、ATフィールド強くできるといいなぁ。
あとは、直接関係なくても、「傷ついたよ」と伝えられるようになりたい。



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